第一譚 災害は突然起きるとは限らない
その日の朝、私は二日酔いであった。前日に一つの大きな仕事が終わり、同僚と打ち上げに行ったのだ。週末に研修会があるものの、それが終われば来週は遅めの夏休みが予定されている。テレビに目をやると気象衛星が捉えた南北に一直線に伸びる雲の帯、その上に赤文字ゴシック体で大雨特別警報の文字が躍っていた。いくばくか速い心臓の鼓動は、遠くない未来を予感したものだったのか、あるいは遠くない過去に摂取したアルコールによるものだったのか、今となっては謎のままである。雨が窓ガラスを叩いていたが、過去に経験した台風ほどの脅威は感じなかった。この程度で特別警報とは少し騒ぎすぎじゃないかと辟易する。
広いワンルームとも狭い1LDKとも言える間取りのアパートに、私と妻、生後3ヶ月の娘の3人は暮らしていた。水海道駅から徒歩3分の好立地である。おはよう、と目覚めたことを妻に伝える。彼女は私を見て、おはよう、大丈夫?と問うた。大丈夫とは時間のことか、体調のことか、天候のことか。ううむ、朝食をスキップすれば遅刻は免れる。しかしテレビの画面を見る妻の不安そうな横顔に、私は半日の有休取得を決意した。今週残り2日の仕事は報告書をまとめる程度、なんなら一日休んでも問題ないくらいだ。スマートフォンに手を伸ばし、上司に電話をかける。天候が危険であり幼い娘もいることを力説し、少し様子を見てから出勤したいと願い出た。今思い返せば「そんなにやばいの?」という上司の問いに「いや、まぁ実はそんなでもないんですけど」と答えたあの日の自分に腹パンしてやりたい。とはいえ50年に一度の被害を齎さんことを警告する特別警報、その客観的判断材料は効果的だったようだ。かなり訝しげな返答ではあったが午前休の承諾を得られた。
よし、あと1時間寝よう。
私はホルマリンの中に浮かび、そこではナマズとキタキツネがぬるぬると絡まり合うように踊っていた。キタキツネは寄生虫に気をつけてね、と言った。ほら、僕の体にもいるんだよ、と。私はもっと彼らと戯れていたかったが、妻の声が私をそこから引きずり上げた。
「ねぇ、この地区、避難指示が出てるんだけど。」
避難指示、と私は繰り返した。私はもう少しホルマリンの中で脳が痺れるような眠りを貪りたかったが、会社への遅刻の理由を果たすために重い腰をあげた。
避難指示と避難勧告はどちらが上位のものだったか。そこに法的強制力は付随されるのか。どのような危機が迫っているのか。どこに避難すれば良いのか。その避難所はここよりも安全なのか。車で行くべきか歩くべきか。何を持っていけば良いか。
良いぞ、頭が働いてきた。ナマズとキタキツネ達からは遠く離れた場所まで来てしまったが、きっとまた会おう、と私は彼らに手を振り、踵を返してテーブルの上のノートパソコンに向き直った。テレビでは鬼怒川が堤防を越水したと報道している。しかしその水量は小さく、私にそこまでのインパクトをもたらすことはなかった。さらにその場所は30 km以上北の地点だ。まだ時間的猶予は十分にある。情報収集が先決だ。
まずは避難指示の意味について調べる。法的な強制力はないが速やかに避難せよ、とのことだ。勧告よりも強力。うん。あまり時間的猶予はないようだ。30秒前の自分を嗜め、妻に荷造りを依頼する。2日分の着替えと娘の紙おむつ。
そして私は避難所の場所を確認する。『水海道 避難所』と検索すると、常総市のハザードマップが見つかった。それによれば私のアパートは50 cm程度の水没が考えられるとのこと。はて、床の高さは50 cm以上あるから大丈夫じゃないだろうか?いや、過去のニュースを思い出せ、洪水で危険なのは取り残されることだ。よく見れば周辺は水没2 mの帯で囲まれている。城を囲む堀のようなものだ。外敵の侵入を防げるが、一度籠城戦となれば水と食料の備蓄量が勝敗を分ける。その点において我が城は極めて心許ない。
最寄りの避難場所として指定されているのは小学校と市役所だ。その小学校は私のランニングルート上にある。
ランニングルートについて語ろう。アパートから300 mほどの極めて緩やかな下り坂、50 mほどの急な上り坂を経て神社があり、その脇から鬼怒川の堤防道路に抜けることができる。その道は4 km続き、電気屋を挟んで幹線道路に繋がる。ここまでを往復するとおよそ10 km。ランニングコースとして最適なのだ。くねくねと曲がる堤防道路の入り口を個人的に蛇の道と呼称している。残念ながら界王様に至ったことはない。
そう、避難所の話だった。小学校は神社の向かいにあり、つまり今いる場所よりも川に近づくことになる。妻に場所を伝えるとやはり抵抗感を見せた。しかしその小学校の海抜は高く、神社は古くから水害を受けていないことを示唆している。神様は安全な場所に祀るはずだ。一方で市役所の海抜は低く、アパートと同程度。籠城戦を強いられることが懸念される。よし、と小学校への避難を決意し、外へ出て道路の様子を確認する。確かに雨は強いが、やはり特別警報や避難指示とはイメージが結びつかない。スーパーもドラッグストアも絶賛営業中だ。ハザードマップで2 mの水没が予想される地点を見に行くが、冠水の兆候すら見受けられなかった。それでも避難はしておこう、行政は私の手元にない情報をも用いて判断を下しているのだろう。妻に外の状況と車で移動することを伝えると、ニュースを見て心配した母から電話がかかってきた。
「大丈夫?仕事中?」
「ん、大丈夫。念のために様子見で、仕事は午後からにした。」
「午前中休めたの、それは良かった。安心したわ。」
「さすがは特別警報よ。んで避難指示が出たからちょっと小学校行ってくる。」
「え、そんなにひどいの?」
「見た感じたいしたことないんだけどね。行って夕方に帰ってくるだけかも。」
「まぁ避難指示が出てるなら、避難しといた方がいいのかもね。気をつけてね。」
妻も実家に電話をした。妻の実家はここから車で1時間くらいだ。あちらも避難勧告が出ているそうだが、大丈夫だろうか。自分も荷物を整理する。多めの下着とバッテリー代わりのパソコン、充電器をリュックサックに詰め込む。よし出発だ、と妻の方を見れば大量の荷物を抱えていた。ステイ、妻よ。夜逃げか?ボストンバッグ2つにリュックサック。スーツケースを選択しなかったことは評価しよう。聞けば娘の世話も考えると再度帰宅せずにすますには最低限の装備なのだそうだ。幸いにも車移動である、全て詰め込もう。施錠を確認し、アパートを後にした。
かくして我らの避難生活は幕を開けたのだった。
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