第二譚 Operation : Smart Evacuation

避難指示を目にしてからから30分(発令からは1時間であった)、午前11時に家を出た私たちは、スーパーに寄って食料を購入した。弁当とパン、水。明日の朝の分まであれば良いだろう。この店も避難指示地域のはずだが、店内はいつも通りで危機感などというものはカケラも見られなかった。


スーパーを出て、雨が降り続く中を小学校へ向かう。自分の足では走り慣れた道だが、車で走るのは初めてだ。小学校の駐車場は満車だったため、神社の脇のスペースに車を停める。妻がリュックサックを背負って娘を抱き、私は残りの荷物を抱えつつ2人に傘を差しかける。うん、荷物多すぎ。ボストンバッグは後回しにして、私だけもう1往復しよう。避難所には体育館があてられていた。入り口の受付で名簿への記入を求められ、住所と名前を書く。スリッパを借りて体育館に入ると、中にはちらほらとしか人がいなかった。およそ3世帯だろうか。パイプ椅子を3つ借りてステージ前に陣取る。私は車へ残りの荷物を取りに戻った。


どうせここまで来たのだからと死亡フラグを立てに行く。神社の脇へ、蛇の道の入り口から河川敷に降りる通路を見下ろす。恥ずかしながら、私はここでようやく危機感というものを実感することになる。テレビ画面と実物の違いもあるだろうが、見知った光景の変化という理由が大きいのだろう。通常であればこの地点から川は見えない。川は100 m近く先、フットサルコートや野球場を挟み、茂みの向こうを流れているはずなのだ。それら全てを呑み込み、川は坂道のすぐ下を流れていた。茶色に染まった水が渾々と、とてつもなく広大な大河としてただ目の前を流れていく。静かに、だがどこまでも力強いそれは間違いなく命を運び去る力を孕んだ存在としてプレッシャーを叩きつけてくる。とはいえ水量の増加に備えたバッファー、それこそが河川敷の持つ役目であり、現状は問題なく機能しているものと認識する。であれば30 km上流で越水したというそれはどれほどの水位を持っていたのかと、同時に恐ろしくもなった。


車から残りの荷物を運び出す。受付の人に車を停める場所を聞くと、駐車場しかないそうだ。近辺の堤防の越水はまだ先と考え、この後避難してくる人達のために車をアパートの駐車場に戻すことにした。(後に振り返れば、突然の決壊という可能性が視野に入っていない。災害ごみを増やすリスクという点でも悪手だった。)来た道を引き返すも、相変わらず冠水の気配は無い。アパートの駐車場に車を止め、傘をさして今度は自らの足で小学校へ走りだす。大きな水溜りを回避、縁石の上を駆ける。目の前に突然たたきつけられた非日常に若干テンションが上がっていたことは否めない。


警察に呼び止められることもなく無事に小学校へ戻った。受付の人に何か手伝うことはないかと聞いてみるが、特にないとのお返事。娘は妻の腕の中で寝ている。可愛い。授乳場所としてステージ裏に目星をつけ、妻と交代で弁当を食べる。先ほど見た川の様子など話しつつ、どれくらいやばいんだろうねと鬼怒川の水位を調べてみると、昨夜から着々と上昇し、氾濫危険水域を超えていた。避難指示が出るわけだ。これが下がってきたら避難指示解除、晴れて自宅に帰還できるだろう。


しばらくすると娘が起きた。13時頃だったか。泣く。泣く。オムツ替えセット一式を持って先ほどの授乳ポイントへ。荷物番に戻ろうと腰を上げた時、くぐもった町内放送が聞こえてきた。……時間差であちこちから。何を言っているのか分からない。『……鬼怒……ミサ……で決壊…………東側……ミンは……』断片的な情報から『決壊』の2文字を拾い出す。ニュースサイトを見てみると、冗談では済まない状況になっていた。三坂地区で決壊、河川が氾濫。……犠牲者もいるのだろうか。避難できていればいいのだが。とはいえ30 km離れた場所の出来事であり、この時の私にとってはまだ他人事だった。

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