水害避難体験譚

ヱビス琥珀

プロローグ

 僕は堤防道路を歩いていた。隣には額に汗を浮かべた妻、腕の中にはスヤスヤと眠る娘。昨日まで降り続いた雨が嘘のように、空は抜けるように青く、夏の名残を残した日差しが何の遠慮もなしに照りつけていた。ただでさえ狭い道の両脇には、浸水を逃れようと高台に揚げられた、ゆうに300台を超える自動車の列。それは物理的には僕らの行く手を阻んでいたのだけれど、見ようによってはまるでアーチのように、被災地を離れようとする僕らを祝福しているようでもあった。右側には轟々と濁流が流れ、左手には冠水した道路を避難所へと走る自衛隊の災害救助車両。頭上にはヘリが飛び交う音が響き続けていた。救助ヘリであるならば最大級の称賛を、報道ヘリならば最大級の侮蔑を。そんな祝福と呪詛を量子力学的に混ぜ合わせた念を飛ばす。を調べるのにどれだけ苦労したことか。こっちの欲しい情報はひとかけらも寄越しやしないんだ。


 これは僕の個人的な水害体験談だ。


 川の堤防を破壊して10を超える命を奪い、住宅の全壊100弱、半壊7000棟、一部破損400棟、床上浸水2500棟、床下浸水13000棟という被害をもたらした大水害。僕はその日たまたま、本当にたまたま早い段階で避難していた。だけど僕はその時、『これは危険だ』なんてほとんど感じていなかった。昨今テレビでは早い段階で危機感を持てと叫んでいるけれど、この平和ボケした現代日本じゃそいつは極めて難しい。だいたいって、自分達も言ってるじゃないか。



 だから僕はこう思う。必要なのは「早めの避難こそが社会の役に立つ」という義務感と、そこから生じるロールプレイだ、と。



 そう。僕はその日、『命を守るための行動』だなんて、これっぽっちも考えてやしなかった。いや、だんだんとその状況にのめり込んでいったのかもしれないけれど。少なくとも避難を始めた動機はあまり真っ当なものとは言えなかったし、と、まるでシミュレーション・ゲームをするかのように行動を決めていた。模範的な避難者の演技ロールプレイをし続けようとした。そしてその結果、自己採点での最終的な評価はA−エーマイナスだ。


 命の危険なんてこれっぽっちも感じないうちに水害をやり過ごす。常にリスクを回避しながら行動する。それが現代、我々に求められているS評価のプレイングだ。そんな高度なリザルトが求められるようになったのは、台風予測や高精度なハザードマップ等、提供される情報の質が大幅に向上したからだろう。地震だったら難しいけれど、水害ならばその予測精度は相当なものだ。事実、この水害の浸水域はハザードマップとぴたりと一致した。技術の進歩に合わせて、プレイヤーもより戦略的になることが求められている。本能に頼った避難が通用した時代は終わったのだ。次の機会なんかなければ良いけれど、もしも運悪く次の機会に出くわしたのなら、僕は今度こそS評価を狙って行きたい。あるいは他の誰かでも良い、ぜひともS評価をその手に掴んできて欲しい。きっとこれからもこの国では、至る所で同じような水害が起きるのだろうから。


 どうしても避難できない事情はあるだろう。少なくとも労働組合は特別警報をトリガーに有休取得を義務付けるべきだと思う。命は体裁よりも尊い。とにかく休みを取れる環境が必要だ。


 そして僕は、体育館での長期間生活を悪者に仕立てたい。あんなもの、まともな人間の暮らす場所とはとても言えない。緊急的な滞在ならともかく、ライフラインの止まった場所に何週間も居続けるなんてやっぱりちょっとおかしいんじゃないかと思う。復興のために離れちゃいけないなんていう同調圧力。思いやりは時に人を殺すのだ。そろそろ本格的に、緊急避難後の生活のことを考えても良いはずだ。だというのに世間の話題は初期の避難行動のことばかり。いい加減、次のステージに話を進めようじゃないか。初期避難なんて当たり前にできるようにならなきゃいけない。そして避難したその先の事を真剣に話し合うべきだ。被災した直後から現実的な問題がそれこそ洪水のように押し寄せてくる。それをひっくり返った脳味噌で判断するのは無理な話だ、正直なところ。平和を取り戻すための段取りは、平和なときに考えておかなければならない事柄だ。


 そのために僕は、僕の経験をここに記そうと思う。


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