第3-4話:みんなと一緒に、スタートしよう
ヤーヴェン整備工場の格納庫に収容された〔スーパーエイト〕はチェーンに吊るされていた。まるで磔の聖人像のように、そこに集まる人の嘆きを無機質な肌に浴びる。
「どうする? ねぇ、どうするの?」
重々しい空気が漂う中で、ミミリアは腰に手を当てて呆れた目で集まっている人たちの意見を確認する。
「どーしよーもないって」
「誠に残念ですが……、ここが引き時かと」
そういうのはモトスパイクに腰掛けるハルルとマルーシャ。いつも通りの口調には、悔しさよりも諦めに近いニュアンスが含まれていた。
「え、え? それは……、えっと」
おどおどするチィにエリーが割って入る。
「まだ決まったわけじゃないでしょ? ねぇ、社長さん」
話を振られたヤーヴェンも気難しい顔をして、腕を組む。
「できなくはない……」
「だったら----」
エリーが食い入るように言った。
ヤーヴェンの返答にチィもわずかな希望を抱く。祈るように目をつぶる。目を開ける頃にはきっといい結果が返ってくると思った。
しかし、そんな甘い考えを抱いているのは、彼女くらいのものだった。
誰もが〔スーパーエイト〕を目にしては苦い表情をする。エリーでさえ、この状況の悪さを痛感していた。
かつて、バレエへの道を諦めた時と似ている。だからこそ、エリー・エリーナは今度こそ諦めたくなかった。
たっぷりの間をおいて、ヤーヴェンが口を開く。
「だが、時間がな。制御系やら何やら、特に胸部のカウルを作っている時間がない」
ヤーヴェンの答えにエリーたちはもちろん、ここまで手伝ってきた整備工場のスタッフも落胆するしかなかった。
「それと、転倒の原因をわかっているか?」
その問いかけに、チィが目を開く。そして、おずおずと口を開く。
「車体の計算ミスがありました。わたしが見落としていて」
「お前だけのミスか?」
「その、つもりです」
「それだけか?」
詰問するヤーヴェンに、チィは完全に萎縮しきって小さく頷くことしかできなかった。
その反応には、ヤーヴェンも盛大にため息をつく。
その様子を黙って見ていたキョーコが不機嫌そうにいう。
「先輩、いい加減にそういうのはナシにしましょう。理屈で言えば、問題はデザインと動きにも原因はあるんスから」
「……わたくしのデザインに問題が?」
マルーシャが眉根を寄せて、キョーコを睨みつける。
〔スーパーエイト〕のデザインに、彼女は自信があった。ノスタルジックなデザインになったものの、その空力特性には気をつけたつもりだ。
「空洞実験では問題はなかったし、それはないんじゃない? モトスパイクとの擦り合わせだってうまくできたと思う」
そういうのはハルルである。一番マルーシャとともに作業する時間があった彼女だけあって、デザインの長所短所をよく理解しているつもりだ。
これには一緒に立ち会っていたスタッフの数名が首を頷いた。彼らも大きな転倒につながるようなミスをした覚えはない。
その反応を見て、チィがビクビクと怯えながら、何かに責め立てられるように早口にいう。
「マルーシャちゃんのデザインはすっごく良かったよ。実験は確かに大丈夫、だったよ。だから、そのまま走っても大丈夫だって、わたし思ったから、手直しは必要ないって判断、したの……」
「はっきりとおっしゃってください」
取り繕うチィにマルーシャが凛とした声でいう。
チィに全員の視線が集まる。憐憫、憤怒、不信。目にいっぱいの涙をためて、口が戦慄く。
様々な目に見つめられて、彼女の臆病な心は今にも押しつぶされてしまいそうだった。
そこに助け舟を出したのは、ヤーヴェンだった。
「言っただろ、計算ミスがあった。そいつは総合的な面での食い違いがあったってことだ」
「食い違い?」
エリーにはさっぱりな話であった。
チィにしても、マルーシャにしても自分の仕事をきっちりとこなしたはずだ。そこにどんな齟齬があるというのか。
しかし、その考えこそが信頼という言葉で飾った怠惰である。
そしてそれこそ、カワアイ工業高校が抱える落とし穴的な欠点だ。
ヤーヴェンは一度メンバーを見渡して、眉をひそめる。意味を理解しているだろうチィとキョーコは神妙な表情で回答を待ち、マルーシャやハルル、エリー、そしてミミリアはきょとんとしている。
「根底的な部分だ。技術や知識云々よりも『どうしてマシーンが安全かつ速く走れるのか』考えたこと、あるか?」
「それは試験を重ねて、欠点を直しているからです」
マルーシャが即答する。
オートアスリートが組み上がって、その一回で完璧に仕上がるとは誰も思っていない。欠点を探り、改善をしてようやく安定した走行が可能となる。
そう考えた時、ミミリアはふと疑問に思う。
「それって事前に少しはわかりそうじゃない? こうしたら、こうなっちゃう的な」
マルーシャは口を固く閉ざして、目を背けた。
ハルルもばつが悪そうに指先で頰を掻く。
ミミリアが不審そうにチィに目を向けると、彼女も不安げに目を泳がせるばかりだった。
「ちょっと、ちょっと、なんなのこの反応。キョーちゃんはどうなの?」
「ミミの言う通りだと思うよ。わかってて、こういう有様になったんだから」
「無責任の言い草!」
ミミリアは無愛想なキョーコに怒鳴りつける。
それから、もう一度意気消沈するメンバーを見渡したが、怒る気力は抜け落ちるばかりだった。
それは同時に自分がチームのことを知らなかったと痛感させられることであった。ミミリアの受け持ちはもっぱら外に出て、チームの運営に欠かせないスポンサーやメーカーとの打ち合わせが主だったし、レースが近くなればその登録申請や書類整理に奔走することにもなった。
ミミリアも肩を落として途方にくれだしたその時、足音が二つ響いてきた。
「あら? 随分と落ち込んでるじゃない?」
「ソフィ先輩、それにケイトレット先輩も」
そういったのはエリーで、その声に弾かれるようにして他のメンバーも格納庫の出入り口に立つソフィとケイトレットを見た。
ソフィは澄まし顔でメンバーを見渡し、損傷した〔スーパーエイト〕を目にすると、肩を上下させた。
「どうする、ケイ?」
そう聞かれたケイトレットはため息をついて、メガネの位置を直す。目元にはクマが浮き上がっていた。
「どうするって……。まぁ、ミミリアから聞いていたよりはなんとか」
「ほんと、慌ててきて損しちゃった」
ソフィの言葉に、ミミリアはムッと口元を尖らせる。
「このままだとレース欠場かもしれないのよ?」
「それ、キョーコが決めたの?」
ソフィは流し目にキョーコを見た。
「ソフィ先輩もやる気ないんですか?」
エリーが突っかかると、金髪の少女は意外そうに目を見開いた。
「エリーちゃんがそういうのは意外ね。けど、わたしはキョーコの決定に従うつもりよ。いつもそうしてきたし」
その答えはソフィの真意であった。
「またそういう……」
ミミリアもソフィと付き合って長いが、彼女の考えをよくわかっていない。
だが、それがキョーコへの期待の現れであることはなんとなく察した。
そして、キョーコもその感触がわからないほど鈍感ではない。
「やれるだけ、やるしかねぇだろ」
キョーコが重い腰をあげていう。
「リン先輩と------、あたしら自身、それとあの一年坊のためにもコイツを直そう」
「直すと申されましても今の私の技量では……」
マルーシャが弱気にいう。
ここからカウルの再計算からデザインの修正を行ったとして、レースまでに間に合わせる自信がない。自分の実力を知っているからこそ、作業時間の大まかな逆算をしてしまい、結論付けてしまう。
と、ソフィが事も無げにいう。
「奥に転がってるパーツでもあてがっちゃえば」
「それができれば苦労はありません。そんなことしたら、全体のバランスが------」
「計算はあたしがやります」
マルーシャの弱音をケイトレットが遮った。
そして、期待と不安に満ちたメンバーの視線を受けた彼女がスクールバックから一冊の紙束を取り出した。
「昔の〔スーパーエイト〕の設計図と計算表です。これでもう一度車体バランスを再計算して、近似値のパーツを使いましょう。理論上は可能ですよね?」
ケイトレットの質問にヤーヴェンは渋い顔をする。
「できるぞ。しかし、古い車種だ。データが古いと厳しい」
「厳しくても、あたしらにはチャンスなんだ」
キョーコが突っぱねて、覚悟を決める。
「だから、その、お願い------、します! 力を貸して、くだ、さい……」
たどたどしい敬語でキョーコがヤーヴェンたちに頭を下げる。
その姿を見て、他のメンバーは悔しさに胸が締め付けられる。不甲斐ない自分への憤りから自問する。厳しい、無理かもしれないことを眼の前にして、それを言い訳にしていいのだろうか。
特にチィは胸の前でぎゅっと拳を握りしめる。いつも優柔不断だった。リンや他の人が決めたことを鵜呑みにしていた。人を否定することは、自分が否定されることだと考えているからだ。でも、ここでもしヤーヴェンが否定したら、それに従うのか。まだ、レースに出られるかもしれないのに、自分を否定できるのか。
「お、お願いします!」
チィが振り絞るようにして、帽子を取って頭を下げる。
それに続くようにして、エリー、マルーシャ、ハルルも続く。
彼女たちにとっては初めてのレース。オートアスリートのいろはもまだ表面的にしかわかっていない。
しかし、彼女たちは自分たちの仕事に人一倍の責任を感じていた。
先輩たちがレースのために動き回っているのを見ては、自分の不満や不安をぶつけることはできない。その線引きがアイを危険に晒した。
「わからないことだらけでご迷惑かもしれません。面倒をかけると思います。どうか……」
エリーの言葉に、今度は2年生のミミリアとケイトレットがばつが悪そうに視線をそらす。
「どうしたの?」
「そういえばわたしらって、先輩だったよね」
「少し、自覚が足りなかったです」
ミミリアとケイトレットの反省に、ソフィは素知らぬ顔でいう。
「そ。頑張りなー」
「ソフィもやんのよ。わかってるでしょ!」
ミミリアが怒鳴ると、ソフィはそれをスルーしてヤーヴェンの横につく。
「というわけで、徹夜作業手伝ってくれると助かるわけなんだけど、平気ですか?」
「……いいだろう。バルザックにはそっちから連絡してくれ」
もちろんです、とソフィは返事をして飄々と格納庫の奥へと歩いていく。
そして、ヤーヴェンが社員たちを見渡していう。
「お前ら、残業代ははずんでやる。その代わり、マシーンを仕上げろ!」
対して、整備員たちの意気軒昂な返事が響き渡り、キョーコたちも頭を上げて続いた。
「まずは壊れた箇所の取り外しだ。チーフメカニックは指示を出せ」
「は、はい!」
チィはヤーヴェンの声にびっくりしながらも、急いで帽子をかぶり集まるメカニックたちを見渡す。
それから、指示を出そうと目を泳がせていると待ったの声が入った。
「ちょっと待った。あたしから、一ついいッスか?」
キョーコだ。
彼女は驚くチィやエリーたち、ヤーヴェンたちを見渡す。その中で、一人訳知り顔でソフィが彼女たちの輪から一歩下がって見ている。
そうして、注目が集まる中キョーコは息を整える。
「アイのこと、なんだけどよ。その、あたしがいうのも、アレなんだけど」
「ま、まさか、ライダーから外してとかじゃ------」
「違うッス!」
力強く否定するキョーコに、質問したチィが「そうだよね」とモゴモゴと口の中でいう。
「あたしが言いたいのは、アイツに合わせて〔スーパーエイト〕をセッティングにしてやって欲しいッス」
これを聞いてエリーたちは目を丸くした。
「ちょっと、何よ。喧嘩してたんじゃないの?」
ミミリアがそういうと、キョーコは顔を真っ赤にして目を伏せる。
「してたけどよ……。アイツがレースに必死になってる理由を聞いちまったら、なんつーか……、そう、気が変わった」
その曖昧な答えに、何それ、と首をかしげるミミリアだが、隣にいるケイトレットが真剣な表情で小さく頷いているのに気づいた。
「ケイは何か知ってるでしょ?」
「一応は……」
その反応にミミリアはそれ以上追求しなかった。
その代わりに、エリーが疑問を投げかける。
「アイちゃん、何かあったんですか? その、昔に……」
「ん。ああ……。ここだけの話にしてくれよ」
キョーコはその上でもう一度全員を見渡す。
「納得がいかねぇとこも、あるかもしれねぇけど、アイツを信じて欲しい」
そうして、キョーコは自分の意思で自分が知った“アイ・シマカワ”の過去をこの場にいる全員と共有した。
* * *
夕日が地平線の向こうに沈もうとしている。
その日暮れをアイは虚ろな目で眺めていた。定規のメモリのように並ぶ牧地の柵が並び、その影が彼女たちが乗る小さなバスの車体を滑っていく。
「ええ。ありがとう。こっちは大丈夫。軽い鞭打ち症だって、お医者さんが……」
アイの隣では、暗がりの中でケータイで話し込むリンがいる。
彼女はアイとは逆に真っ暗な地平線を眺め、車窓に映る自分のやつれた表情に眼を細める。目元は赤く晴れて、唇もかさついている。
受話器の向こうから聞こえてくるガヤガヤ声とケイトレットの報告に、相槌を打ってはもやもやとした気持ちが膨らんでくる。
そうして、気持ちが曇ったまま電話を切った。
「誰からの電話だい?」
運転席に座るバルザックがバックミラーを一瞥しながら言う。
「ケイトレットからです。〔スーパーエイト〕の復旧作業を始めたそうです」
リンは複雑な表情を浮かべて答える。膝元のケータイを強く握り、嬉しさとは裏腹に頭の中では後悔ばかりが渦巻く。
みんなに迷惑をかけてしまった。自分がしっかりとアイを抑えることができれば、もっとうまくできたのではないか。
ここで終わってしまえば、楽になれるのではないか。そんな後ろめたい考えが浮かんでくる自分が許せない。
だが、リン・ブレックスにそれを超える妙案が出るわけでも、精神力も残ってはいない。
会話が途切れてしばらくすると、バルザックが言う。
「そうか。よかったじゃないか」
「よかった?」
リンはバルザックの能天気な発言に苛立った。
「この状況がよかったって言うんですか? 復旧作業だって間に合うかどうか……」
顔を上げて、バックミラーに映るバルザックの静かな目を見た。
すっと前だけを見る瞳に迷いはない。運転をしているのだから当然なのだが、そこには静かな余裕がある。
「そうだ。これがレース本番だったなら、それこそ取り返しのつかないことになっていた」
「それは、そうですけど……」
バルザックの言葉に、リンは口どもってしまう。
自分がレースでクラッシュしてしまったことを言っているのだと思った。当てつけだ、と反論する勇気も出ない。言い逃れできないことだ。
その様子にバルザックの青い瞳がちらりとリンを捉えた。
「リンくん、それにアイくん。レース前の失敗など当たり前だ。むしろ、これまで失敗がなかった方が珍しかったくらいだ」
バルザックの語り口に、リンは緊張する。
かつてはワークスチームのメカニックとして活躍した彼の経験からくる言葉だ。しかし、それは洗練された知識と技術を持ったスタッフが揃っていたから、レース前日のトラブルも解決できたに違いない、とリンは思う。
自分たちは未熟者。知識も技術もバルザックの半分にも満たない。
「だけど、取り返せない失敗かもしれません」
なるほど、とバルザックは鼻で笑った。しかし、すぐに険しい表情に変わる。
「それは、取り返そうとし続けた人間がいうことだ。アイくんのようにな」
初老のメカニックの目が威嚇する。
リンは目を背け、ふと隣に座るアイを見た。
彼女の横顔。右目を跨ぐ縦一線の傷跡とその機械仕掛けの瞳からわずかに、ほんのわずかに放つ微細な発光色が夕日の影で暗くなったアイ・シマカワの目に映る。
彼女はサイボーグ手術を受けている。病院に引率した際、リンはそのことを聞いた。確信を得た気分ではあった。彼女がプロになると公言できる自信が、これだと腑に落ちる。
しかし、それは事情を知らない人の見解だ。
「この子が、ですか? だって、その、人工臓器とかを使っているんですよ」
リンはバックミラーのバルザックに向かって、思わず口走ってしまう。
「先輩もそういうんですね、やっぱり……」
リンは背筋が凍りつくようなアイの声を聞いた。
元気にはしゃぎ回るあの明るさは微塵もない。ゆっくりとアイに顔を向ければ、影になっている彼女の横顔は得体の知れないものに感じられた。
人の形をした別のもの。サイボーグという言葉が脳に直結するがゆえに、黒曜石のような無機質で冷たいものに映った。
「人工臓器を体に入れることは決して楽な道じゃない。プロライダーとて安易にすることでもない」
バルザックが静かに補足する。
「でも、そうした方が限界を超えられるって……。でも、そんなの、自分の力じゃないって思いませんか?」
リンはスカートの裾を強く握りしめながら問いかける。
バルザックは高い鼻先を指先で少し掻き、ハンドルを握りなおす。
「それは安易な考え方だよ。いくら技術がよくても、人の体はそんなに便利にできていない」
少し間が空く。
その沈黙の間、リンは思い出していた。
掛かりつけの医者から聞いた人工臓器と義足についての説明。例えば、足の場合は、義足に付け替えただけでわずか2週間のリハビリで歩くことが可能になると言われた。施術も難しくない。まさに、パーツを取り替えるだけで『元に戻る』というような話ぶりだった。
ライダーに早く復帰するなら、その手段が最速だとも。
しかし、それは本当だろうか?
リンが疑問に行き着いたとき、バルザックが口を開いた。
「失ったものを機械で代用する。本来なら異物として処理しなければならない大きなものを受け入れるのを体はそう簡単に理解できない。そうでなくても、我々の祖先はそういうことを続けて、現代の我々の血に残していった」
「人類学は先生の担当教科ではないはずです」
「そうだな。しかし、サイボーグ工学では人体と機械の関わりを論ずるとき、避けては通れないテーマだ」
バルザックはフロントガラスの向こうに見える紫の空とまばらに光る地平線の町明かりを見据える。
途方もない人類の歴史が断片的に語られようとも、故郷の星を巣立ち、自分たちが何千、何万、何億光年も離れた星で生活しようとした進化の歴史は脈々と流れる血が覚えている。
宇宙に、あるいは数々の惑星に適応するため、人々は自らの体を改造し続けた。人工臓器や義手などではない、もっとマクロな世界からの改革。あらゆる細胞を変貌させ、長い時間活動できるように改良を重ねてきた。
しかし、先の世代を変異させる結果になってしまった。歴史的著述は残っていない。だが、人間の平均寿命は年々低下していることが、この世界では認知され、証明されている。
あらゆる病を完治できたとしても、人は半世紀生きるのがやっとになっているのだ。
その体に機械の臓器や四肢を与えることは簡単であっても、受け入れるためには相性が生じる。それほどにこの時代を生きる人たちの個体差は顕著だった。
「先生のおっしゃりたいことはわかる、つもりです」
リンは考えるより先に口が動いていた。
もし、彼のいうことをすべて鵜呑みにしてしまえば、リン・ブレックスはただの臆病者ということになる。レースに復帰する気力のない、惰性でオートアスリートに関わる怠惰な人間になってしまう。
それを認めるのが怖かった。昔のように走れない自分に残っているのは、そういう否定的な考えと動かない足。そうだ。踏み出す一歩さえ、前に行く足さえいうことを聞かなければ自分のせいにならない。
そんなリンの考えを見透かしたように、バルザックの青い瞳が光った。
「それなら、僕が歴史学を語る必要はないな。だが、自分の弱さを見ないで、他人の強さを誹謗するのはやめろ」
バルザックの強い語気にリンが、俯くように頷こうとする。
すると、アイの冷めた声がした。
「いいんもん。慣れてるもん」
リンはしかし、その声が寂しげに聞こえた。氷のように冷たい声。まるで感情を押し殺すような、息苦しい印象がある。
「みんな、そう……。あたしの夢も、頑張りも、みんな機械のおかげだから楽だって。お父さんとお母さんがレーサーだから、七光りだって……」
「アイ……」
リンは顔を上げて、ゆっくりとアイを見直した。
「体の半分が機械だと、みんなとは違うってあたしも思う。だけど、みんなと一緒で笑ったり、泣いたりするんだよ」
アイの頬に夕立のような涙が流れる。
義眼を潤ませて、ポロポロと大粒の雫が溢れていく。
「けど、あたし、みんなにひどい事しちゃった……。頑張って直した〔スーパーエイト〕、ダメにしちゃった……」
ごめんね、と続く言葉が引きつって、掠れて、途切れる。
泣いちゃダメだ、とアイはライダースーツの袖で涙を拭う。彼女は知っている。泣いて謝って何かを変えることはできない、と。
だから、顔を上げて行動し続ける。それが唯一、何かを変える手段であると信じている。
「……アイちゃんはどうして、プロライダーになりたいの?」
アイの信条を理解した訳ではない。
しかし、オートアスリートから一歩下がっているリンとは違い、アイは最前線を行こうとしている。どんな世間の逆風に晒されても、自分の夢を追い続ける。
そんな姿が羨ましく、同時に嫉妬さえ覚える。そこまでさせる理由はなんなのか。
すると、アイは呼吸を整えて振り返りながら答える。
「もう一回、お父さんとお母さんにレースに出てもらうためです。あたしのせいで、レースを引退したちゃったから……。あたしが事故に合わなければ、今だってお父さんはトップだったはずだもん」
その言葉を聞いて、リンも彼女の父親、シンジロウ・シマカワ選手を思い出す。
彼は好成績を収めながら、『レースが怖くなった』という理由で引退した指折りのトップライダー。アイが直接の原因だとは聞いたことはない。
しかし、娘がサイボーグ手術を受けなければならないほどの大事故に巻き込まれてしまったのなら、それもオートアスリートのレースだったなら、怖くなったというのもわかる気がした。
「そう……。そうだったの」
リンはアイが自分だけのために走ろうとしているのではない、と知った。
しかし、『誰かのために走る』ことは決して安易なことではない。そのことをアイは覚悟して、ここまできた。それでも、心は潰れかけている。
心に掲げた夢のひと旗の大きさと揺らす強い風に、彼女の小さな体がそれを重荷に感じ始めているのではないか?
リンは知っている。
誰かの期待や誰かの思いを背負って走ることの意味。責任。そして、恐怖。
いや、恐怖を植え付ける人の好意があるのだろうか。あるとすれば、誰にも頼れない独りよがりな不安が、自分に恐怖を呼び込むだけだ。
しかし、アイは違う。
「あたしはこんな自分だってトップで走れるってことを証明して、お父さんとお母さんを元気にしたい。挑戦し続ければ、叶わないことはないって!」
彼女にとって逆境はチャンス。これより退がる道も、落ちる場所もない。あとは前に進むか、上に這い上がるかの二択でしかないのだ。
アイの胸に宿る勇気に、リンは心でくすぶっていた不安や恐怖が薄れていく気がした。
暗い過去があろうとも、失敗があろうとも、彼女は前を向く。そして、踏み出すことを諦めない。
自分の夢がたとえどんなに重い旗印であっても、強い風にさらされようとも、そのすべてを力に変えて、はためくのだ。
波打つ音が大きな彼女の声となり、掲げた印が小さな少女の信念。
父親に、母親に、そして、多くの人に勇気と喜びを届けるために。
リンはやっとアイが持っている強さがわかった気がした。胸の内に響く言葉となって、目に焼きつく姿となって、卑屈な自分を焚きつける。
「だから、信じるんだ。あたしは、あたしがしてきたこと全部!」
アイは公言する。
リンはそういう彼女に感化されながらも、ふっと短く息を吐く。それは冷静さを失わないようにするガス抜きのようなものだ。
「いい夢だと思う。だけど、同じくらい信じてもらいたいものがあるの」
リンの言葉にアイは少し瞠目する。
その双眸には情熱が宿っている。しかし、それだけだ。獲物を前にした獣のような一つの物事に執着する危うさがありありと見える。
バルザックもアイの凶暴さをわかっている。それを手懐ける方法もないわけではない。しかし、彼の立場から今その助言をするのは憚られる。
なぜなら、それはリン・ブレックスがレースと本気で向き合うチャンスでもあるからだ。
だから、その答えをリンに委ねる。
「わたしや、みんなを信じてほしい」
リンはまっすぐにアイをみて言う。誠実な想い。
これまで重荷と感じていたチームからの期待。それは時に自分を苦しめた。同時に自信がなかったから、受け止めることもできなかっただけなのだ。
成功の保証、失敗の回避をたった一人の力でできるわけがない。
「今回のトラブルで、みんなショックを受けてる。だけど、今、〔スーパーエイト〕
修理をしている。みんなもレースにでたいのよ」
「そんなの、初めから知ってます」
そんなことはアイも百も承知だ。
最初はただ単位のために入ってきただけだったかもしれない。だが、それなら初めから望みの薄いマシーンの修理に力を注ぐはずがない。
みんな、何かを求めている。明確な目標かもしれない、当てもない目的かもしれない。
それでも、求めるものがあるとアイは信じたい。そういうメンバーだから、自分の大きな目標を理解してくれていると思っていた。
しかし、それは違うとリンは首を横に振った。
「ううん。もっと、アイのことをみんなに伝えてあげて。キョーコはちょっと駄々をこねるかもしれないけど、あの子だって根は真面目だから、わかってくれるよ、きっと」
リンはすっと腰をずらして、暗い影からわずかな光が差し込むアイのそばに座りなおす。
地平線に沈む夕日が宝石のような最後の輝きを放つ。
「ずっと、頑張ってきたんだから。今度はみんなと一緒に、スタートしよう」
アイはリンの自信に満ちた顔に、差し伸べられた手に全身が震えた。
かつて、エースライダーと呼ばれたリン・ブレックス。そして、アイが敬愛し、目標とし、追いつきたいと願うその人の風格を感じた。
「お父さん……」
シンジロウ・シマカワ、アイの父親である。
逆境の中にあったチームを引っ張り、母とともにプロの世界で輝いた大きな憧れが、アイの中で鮮明によみがえる。
そうだ。まだ、スタートラインにも立っていないではないか。
勝ち負け以前の問題。チームメイトとの絆を信じられずして、レースの世界に入れるはずがない。
胸の奥で渦巻いていた激情がすっと引いていく。
輝く夕日が姿を隠し、あたりが暗くなる。
しかし、彼女が持つ大きな情熱は消えてはいない。純粋ゆえに幼稚。直情のために正道。アイは無垢だかこそ、その感情のコントロールが未熟だ。
それを抑え込む術を知らないからこそ、導きが必要だった。それが今までは、心の依り代にしていた夢である。
その夢も言い訳になって、いよいよ自制がきかない危うさが出ていたのだ。夜道で明かりを見失ったような不安が彼女を支配しかけていた。
だが、アイは見つけた。
だから、恐る恐る手を伸ばす。
それに応えて、リンの両手がその小さな手を包む。柔らかい。温かい。
「大丈夫。アイちゃんは強い子だから」
リンは諭して、ぎゅっとアイの手を強く握る。
初めて会った時、きつく当たってしまったことを思い出す。満面の笑みで、オートアスリートは楽しいと言った。そこに悪意など微塵もなく、心の底から好きなのだと今ならわかる。
そして、自分を元気付けようとしてくれたことも。だから信じたい。
アイ・シマカワの可能性を。
「一緒にレース頑張ろう」
アイも強く手を握られて、リンの強い思いを感じた気がした。だから信じたい。
リン・ブレックスの強い思いを。そして、キョーコたち、チームのみんなを。
「はい。頑張ります。よろしくお願いしますっ」
アイは目を輝かせて、元気に返答する。が、途端に首筋に痛みが走り、髪の毛が逆立つ。
リンは強く握り返してくるアイの手と表情を見て慌てる。
「大丈夫!? ああ、ちゃんと安静にして」
その様子をバックミラーで確認しつつ、バルザックはほっとして頰を緩める。
そして、マイクロバスのヘッドライトを付ける。仄暗い一本道に落ちる光とともに、地平線にポツポツと民家の明かりがつき始める。
* * *
格納庫の中では、重々しい音が地鳴りのように響き続けていた。
あたかも、胎児が脈打つような力強い音だ。巨大な金型をセットしたプレス機がゆっくりと降りて、カウルとなる素材に圧力をかけていく。
形を与えられたカウルはすぐさま切断機のある別部署に数人の手で運ばれていく。
「最終成形が済んだ予備はすぐに運べ! 時間ないぞ! 塗装作業も急がせろ」
陣頭指揮を執るのはヤーヴェンである。
彼は社員の動きに目を光らせながらも、メインとなる〔スーパーエイト〕の整備状況にも気を配っていた。
天井のクレーンに支えられ、シャシーむき出しのマシーンの周りには足場が組まれ、狭そうにメカニックマンたちが各所の修繕、補修を行ている。
「メカニックチーフの。動かせるか?」
「もう少し待ってください。新しいねじ穴を作りますから」
そういうのは、直立する〔スーパーエイト〕の右脇腹近くの足場で体半分を投げ出して寝そべるチィが少し体を起こしてヤーヴェンに言った。
頭のヘッドライト頼りに複雑に入り組んだインナースペースに手を入れて、ねじ切れてしまったダンパーのねじ穴を修理していた。
「やっぱり、エンジンが重かったんだ。もっときつくしないと……」
「やっぱ、胸が大きいと大変ですよね。チーフもそうでしょ?」
「うん。そうだね。ソフィちゃん、14のめがねレンチとって」
チィのそばでしゃがむソフィは工具箱から支持されたレンチを手にして、作業に没頭する彼女に手渡す。
「冗談も通じないんだもの」
「おい。ソフィ、先輩の邪魔すんじゃねぇぞ! それよりもケイを手伝ってやれよ!」
と、ソフィが顔を上げると、〔スーパーエイト〕の背部にあるシートでキョーコがいた。しかし、天井の明るい光に黒い影にしか見えず、ソフィは目を細めて手で影を作る。
「エリーちゃんとの仕事だもの。あたしの出る幕はないのよね」
「そうなのかよ?」
そういうキョーコは訝しんでいるようだったが、ソフィは肩を上下させてはぐらかす。そして、背後に顔を向けてみせた。
「モーションの最終調整なんだからさ」
その視線の先ではコンベアをローラースケートで疾走するエリーの姿があった。姿勢を低くして、息苦しそうに短い呼吸を繰り返す。
その様子を傍で観察するケイトレットは手元のタブレット端末とエリーとを見比べて決断する。
「コンベア、止めてください。エリー、休憩!」
そういうと、コンベアの動作が徐々に速度を落とし、エリーもまたスローダウンしつつ背筋を上げていく。
ケイトレットは足音に置いていたボトルとタオルを手に取って、まだ動いているコンベアに飛び乗った。つんのめりながら、エリーの隣について並走する。
「お疲れさま。いいデータが取れました」
「あ、ありがとうございます」
エリーはタオルとボトルを受け取りながら、ケイトレットのタブレットを見た。
そこには2本の波形が並んでいる。重なるどころかまるで反比例するようにその波形は真逆の反応を示していた。
「あの、本当にこれで大丈夫ですか?」
「もちろんです、と」
ケイトレットは止まるコンベアに驚きつつ、ずれた眼鏡の位置を直す。
「これで無茶をしても、パフォーマンスで抑制させます」
「できるんですか?」
「オートアスリートだって、フォームが崩れればいくらエンジンを回したって速くは走れませんよ。ベストな回転数で、最適なギアで走る。マラソンと同じです」
「ああ。理屈はなるほど、です?」
エリーは説明を聞いても、いまいちピンと来なかった。
その辺りはケイトレットも察して、ボサボサの髪を掻く。
「要するに、速度を上げすぎると、自動的に下手なフォームで走るようになる、と言うことです。限界性能以上のペースで走らせることができるアイの運転を抑えるためには、こうでもしないと無理にでも回してスパートをかけ続けるでしょうから」
ケイトレットの説明に、エリーはボトルを口にしながら目をパチクリさせる。
「なんですか?」
ケイトレットが疲れ切った目を向ける。
「いえ。ケイトレット先輩、アイちゃんに怒っているのかと」
「まさか。ああいうタイプは怒るだけ疲れるだけです。頭で理解するよりも先に体で覚えてしまう、そういう子でしょうから。キョーコはキョーコで話せばわかるお人好しですから、なんとかなります」
なるほど、とエリーは口元をほころばせる。一見、合理的な解決法を口にしているようで、キョーコやアイのことを思って設定しているのだ。
「わー! もうこんな時間じゃん。ヤバいって!」
エリーとケイトレットの背後、制服姿で通学カバンにトートバックを肩にかけたミミリアが血相を変えて走り抜ける。
そして、格納庫を出る手前、モトスパイクの修繕をしているハルルのもとに駆け寄る。
「ハルル、これとこれとこれと、あとこれも、車検項目ちゃんとチェックしてよ」
ミミリアはトートバックからファイルを取り出して、ハルルに押し付ける。
ハルルは渋々といった様子で受け取りながら、じっと彼女を見る。
「わかったけど、先輩どこ行くん?」
「それはもう色々! あれ取り入って、予約してたエステいって-----、ところでマルーシャは?」
ファイルの中身をのぞき見していたハルルは、ちらりと格納庫の外を見て指さす。
ちょうど、別部署から戻ってきたマルーシャが来たのだ。
ミミリアもその挙動をすぐに理解して、笑顔を作って振り返る。
「マルーシャぁ、あああ!?」
彼女の目に映ったのは鮮やかな赤色に染まった作業着を着たマルーシャだった。口元には工業用のマスク、目には保護メガネ、おまけに鼻をつくシンナーの臭いを漂わせている。
「なにか……?」
マルーシャは立ち止まってマイペースな口調で驚くミミリアに言う。
ミミリアはあっけにとられながらも、言いたいことを整理する。
「ああ、その、衣装の件ありがとっていうのと……、どしたのそのカッコ」
「はい。外装の塗装作業をしていまして。いい色だと思いませんか?」
そういって、作業服を引っ張り上げて、飛び散った赤い塗料を見せた。
ミミリアは嫌な言葉が浮かんだが、それらを飲み込んで息をつく。
「あー。そういうこと。うん、いいんじゃない?」
「ありがとうございます。ミミリアさんの衣装に合わせて、いい仕上がりになるかと」
そういわれて、ミミリアは少し納得した。
彼女がこれから取りに行くものを思い出せば、その赤色は鮮やかで煌びやかな色合いだと思えた。
「そうだね。さっすが、マルーシャ、えらい!」
「持ちつ持たれつ、です」
そうこうしているうちに、リンたちを乗せたミニバスが整備工場に帰ってきた。
そして、降りてきたリンとアイは格納庫の明るさと活気に吸い込まれるようにして合流を果たしたのだった。
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