第3-1話:あたし、やりますからね!
レース開催まで、残り2日を切った。
そして、レースの車検は明日に迫っていた。
このギリギリの期間で〔スーパーエイト〕はどうにか形となって、カワアイ工業高校チームへの復帰もテスト走行での安全チェックを残すばかりとなっていた。
チィ・フゥはなんとも言えない高揚感に包まれながら、自身で車体の最終チェックを行っていた。
脚部は以前よりも数センチ伸び、その分腹部のラジエーターを縮小することで、より伸びやかな加速を可能にする計算だ。その分冷却機構やオイルの循環をコンパクトにした分、エンジンの扱いがデリケートになっている。
しかし、連日テスト走行をしているアイとキョーコの様子を見れば、十分対応できるという確信もあった。
「アイちゃんとキョーコちゃん、仲直りしてるといいけど……」
チィの耳にもアイとキョーコの言い争いのことは入っていた。しかし、〔スーパーエイト〕の修理に追われて、結局二人に話す機会がなかった。
いや、もしあったとしても困惑して、余計に収拾がつかなくなっていただろう。
だから、彼女は二人が乗る〔スーパーエイト〕を完璧に仕上げるべきだと考えた。後ろめたさはあったが、マシーンにそれを組み込むわけにはいかない。
最高のマシーンでレースに挑んでもらえるようにするのが、メカニックマンとして最大の仕事なのだから。
「レースまであと少しだもの。ちゃんとしなくちゃ」
チィはそう呟いて、〔スーパーエイト〕の大腿部に走る配線をチェックしていく。それらは着生植物のように人工筋肉に半導体の根を食い込ませて、膝や股関節にあるモーターと連動して機能するものだ。
そして、その半導体のケーブル一本一本が別の電圧設定となっている。人間でいえば神経のようなものだ。このケーブル全てが集積回路となって人工筋肉の制御にも使われ、モーターからモーターへの電力伝達にも生かされる。
「あとは、テスト走行……」
チィは大腿部のカウルをはめ直して、一歩、二歩と下がる。
高い天井の照明が照らす〔スーパーエイト〕は丸いラインが特徴的だ。
鋼色を輝かせるたまごのような流線を描く腕周り。頭部の横顔もコミカルな線でまとまっている。足先に目を向ければ、同じような丸みのある脛当てや、大腿部のカウルが綺麗な脚線美を作っていた。
関節部はほとんど剥き身の状態で、動き重視となっている。
チィは少しキャップのつばをあげて、眩しい〔スーパーエイト〕の顔を見上げる。
「チィ先輩。準備大丈夫ですか?」
と、そこにエリー・エリーナが駆け寄ってきた。
「うん。ヤーヴェンさんたちは?」
「もうすぐ、来るみたいです。あ、マルーシャもペイント案が決まったみたいですよ。バルザック先生もやる気ですし、それにケイトレット先輩も––」
エリーの報告を聞いて、チィは小さく頷く。
それから、あげていたキャップのつばを下げてエリーを見る。
「そう……。本当にありがとう、エリーちゃん」
「いいえ、わたしはまだ細かい動きの補正もありますし……」
エリーが恥ずかしそうに顔を赤らめて、両手を忙しなく振る。
その様子にチィはホッとして、なぜだか目元が熱くなるのを感じた。
そして、その頬に涙が一筋流れた。流れ星のように輝くその雫はぽつりと彼女の細い顎からこぼれ落ちる。
「先輩……?」
「本当に、みんなが来てくれて嬉しいよ。また、一緒に走れる人が来てくれて、本当に……」
チィは湧き上がってくる喜びと切なさにまた涙が溢れた。
「チィ先輩。どうしたんですか?」
エリーはチィの手を取って、顔を覗き込んだ。
「何か悲しいことでも、思い出したんですか?」
「あ、うん。ごめんね。なんでもないよ。わたし、昔から泣き虫で嬉しくてもこうなの」
チィの顔は確かに嬉しそうに笑っていた。
エリーはその笑顔を知っている。本当に苦心して、本当に努力して、ようやく報われた人の微笑みだ。彼女は幾度となくその笑顔を見て来た。
同時に、悔しい思い出ばかりが募った。
「そんなに嬉しいこと、なんですか?」
だから、チィの気持ちを知りたいと思う。
冷ややかな言い方になったと自覚する間も無い。知りたいと言う嫉妬心がそんな意識を蹴飛ばしていた。
「え? それはみんなと一緒にできるからだよ」
「そういうのじゃないんです。チィ先輩はわたしよりもずっとオートアスリートのことを知っていて、メカニックとしての技術もすごいです。なのに、どうして自分を褒めようとしないんですか?」
エリーの言葉にチィは目を丸くした。握ってくれる手に力がこもり、震えているのが伝わってくる。
チィにしてみれば、まだまだ整備技術も経験も足りていないと思っていた。重要な部分はヤーヴェンたちの手を借りて、〔スーパーエイト〕の修理をしてきた。
だから、まだまだ実力が足りないと思い込んでいた。
いや、そう思い込むようにしたのだ。
すごいメカニックにならなければ、誰も認めてくれないと言い聞かせてきたのだから。
チィは自分の手を包む彼女の小さな手を見る。
綺麗な手だ。彼女はバレエを学んで、そのしなやかな動きは〔スーパーエイト〕にも引き継がれている。自信を持って欲しいと弱気な先輩ながら思う。
だが、きっと欲しいものを掴めなかったから、彼女の手は震えているのだろう。
「エリーちゃん。何か誤解してると思うけど、わたしは自分の技術にまだ自信があるわけじゃないの。だけど、責任は感じてる。それに、みんなが一緒っていうのは絶対嘘じゃない」
「どういう意味ですか?」
エリーは少し混乱した。
そんな彼女の手を今度はチィが握り返す。強く、暖かく包み、ぎゅっと力強く。
「エリーちゃんみたいに、今のわたしのことを受け入れてくれる人、少なかったから」
「そんな––ッ。そんなの、何かの間違えですよね?」
エリーの質問にチィは首を横に振った。
「小さい頃からこういう機械工学とかに興味があって、普通の子達がするようなお人形遊びもおしゃれも全然できなくて。それに、機械の話って女の子だったらあまり興味持たないでしょ? 男の子だって、変なやつだってね……?」
「それは、はい……。そう思います」
エリーはチィが引っ込み思案になった理由がわかった気がした。
自分の好きなことをわかってくれる人がいなかった。話しても聞いてもらえない。それでも、好きなことに嘘をつけない。
「逃げてたのかなって思っちゃう?」
「そ、そんなこと––、思いません! 先輩は好きなことを頑張ってきたんです。だから、この子も直って、みんなも先輩がすごい人だってわかるんですよ。わたしとは違って、一つのことに真剣だったから……」
エリーはひどく自分が惨めな気がして、言葉が続かなかった。
チィが『自分』を持っていることが眩しく思える。それは、ハルルやマルーシャ、そして、アイにも言えることだ。
彼女たちには才能がある。そして、大きな夢もある。
自分はその夢を貫くだけの才能も根性もなかった。
「エリーちゃんは前にバレエをしてたって言ってたね。そのことでみんなとは違うって考えてるの?」
チィの質問にエリーは小さく頷く。
幼少の頃からエリー・エリーナはバレエを習っていた。両親がエリーをプリマに、とバレエ学校に通わせたのが始まりだった。彼女も踊ることは好きで、日々踊り続けていた。
しかし、エリーは両親の願いを叶えられなかった。厳しい指導にも耐えて、練習に打ち込んでも、主演に選ばれない。それどころか、ステージに上がることすら稀というのが現実だった。
主演を務める子たちの才覚を見せつけられるたびに、両親の夢が果てしなく遠い場所にあると痛感させられた。
そのことが両親にもわかったのだろう。
エリーに対して、バレエをやめてもいいと提示したのだ。
娘がいつまでも一つのことに囚われて、将来何もできない人になって欲しくなかったのだ。
だが、それはエリー・エリーナからすれば、自分に見切りをつけろと言われているようなものだった。芽吹くことのない場所にいても無駄に終わる。これまで費やしてきた時間と成果を測れば、両親の提案も頷けた。
エリーはそれに従った。辛いことも嬉しかったことも、自分が続けたいと願う気持ちも押し殺した。
現実という言葉で『自分』を否定する。お金や時間、自分の才能。理由をつけて夢に背を向けたのだ。
チィはそんな彼女の背景を知らない。だから、彼女が思い悩む根幹を正確に理解することなどできるはずもない。
しかし、彼女が卑屈になる理由はないと確信していた。
「エリーちゃんがわたしを認めてくれるように、わたしも、みんなも、エリーちゃんが頑張ってることを知ってる。だから、こうして〔スーパーエイト〕が走れるまでになった」
チィは今一度〔スーパーエイト〕を振り仰いだ。
エリーもそれにつられて、駐機されているマシーンをみる。
「もし、報われたいから努力をしたのなら、こうして〔スーパーエイト〕が着実に形になってるのがその証明だよ。だけど……」
チィは一度言葉を区切って、はっきりと口にする。
「わたしにとって、友達と一緒にオートアスリートのレースに出ることが夢だったの。たった一台のマシーンだけど、たくさんの人が協力してくれた。チームのみんなも、応援してくれる人たちも、そして、代々この子〔スーパーエイト〕と一緒に走ってきた先輩たちがいたから、できたことなんだよ。みんながいてくれるから、わたしは頑張ってこれたんだよ、きっと」
「チィ先輩……」
エリーは熱のこもった彼女の言葉に胸が震えた。
チィは引っ込み思案で、自己主張がほとんどない。それだけに、言葉よりも行動で示す人だった。人が少なくなっても〔スーパーエイト〕の修理を続けていたのも、信頼する人がそばにいたからだろう。
リンのように人を引っ張る力はなくても、チームのみんなを一番後ろから見守って背中を押してくれるような人なのだ。
優しく不器用なチィを、エリーは心から尊敬する。
「レースまであとちょっと。エリーちゃん、頑張ろうっ」
「はい、先輩!」
エリーは元気に応える。
卑屈になっていた自分が馬鹿馬鹿しく思えた。みんな、それぞれに足りないところを自覚している。それでも、ひたむきに〔スーパーエイト〕と向き合っている。
今できることを精一杯、全力でぶつかっていく。難しいと尻込みするよりも、失敗を恐れるよりも、挑戦しなければ良いも悪いもわからないのだから。
だから、エリーも過去の自分を憂うのをやめようと思った。
ここまで積み重ねてきた自分のできること全部を〔スーパーエイト〕に注ぎ込む。
一人で〔スーパーエイト〕が出来上がったのではない。
チームのみんな、それを応援して手助けしてくれる人たちが集まってできている。
そう思うと、〔スーパーエイト〕が誇らしげに見えて、胸の内が熱くなる。
チームが掲げた目標であるレースに勝つこと。それはゴールではない。
チームのみんながもっと先を目指している。エリーもまたその目指すものがなんなのか、少しわかった気がした。
「それじゃあ、わたし、先にテストコースに行ってます」
「うん。わかった。みんなにすぐ〔スーパーエイト〕を持ってくって伝えておいて」
エリーは返事をして、元気に格納庫を駆け出した。
* * *
暗い宇宙を繋ぐワープトンネルは、点と点を一瞬にして繋ぐものではない。あくまでも空間の圧縮によって、距離を縮めた別の空間を作っている。
時間の流れも、物体の質量でさえ変化して、光のような瞬きの中に存在する。
その中を渡航する宇宙船は、ラグビーボールに羽がついたようなリフティングボディの船体で流れていた。
それに乗船している人たちは席について目的地の到着を待つ。サラリーマン風の人もいれば、小学生の姿もある。今や宇宙渡航などは、人々の生活の一部である。
そして、そこに溶け込んでいるソフィ・ルルはエコノミークラスの席で小さくあくびして、愛用のケータイでメールを打ち込んでいた。
「まぁ、こんなものかな」
ソフィは文面を確認して、送信ボタンを押した。
ワープ航行中でも通信機器の電波制限はない。欠点といえば、送信相手への到着が遅れることだろうか。通信ができても、その状態はあまりいいものではない。
「ふぅ。疲れた……」
ソフィがため息をついた途端、ケータイが震えた。
「ん? ケイトレットから」
ソフィはけだるけに呟き、シートベルトを外す。
それから通話ボタンを押して、腰を浮かせる。羽織っている制服のブレザーがふわりと広がる。
「もしもし?」
「……もしもし、ソフィ?」
「何か用、ケイトレット」
ソフィはケータイを耳に当てながら、浮遊する体をひねって空いる手でシートを掴む。
船内は無重力状態で、体を固定しなければ物体は軽々と浮かんでしまう。
「……ん? もしもし?」
ケイトレットの返事が少し間を置いてきた。
「やっぱり、エコノミーは通信環境は良くない」
ソフィはそう呟いて体を押し出す。後部ドアへと流れ、通路に出る。狭い通路は担っており、化粧室の個室が並んでいる。
「もしもし、ちょっと待って」
ソフィは手近な空いている手近な個室に入る。
入ればすぐにフレグランスの強い香りが鼻をつき、左手には化粧台がある。洗面器と蛇口はビニールのような膜で半球状に包まれている。側にはタオルや掃除機のような吸引機まである。
鏡には通信状態が良好であるアイコンが点滅している。
「お待たせ」
「あ、なに? まだ、こっちにくる途中?」
ケイトレットの疲れた声に、ソフィは「そうよ」と返しながらドアの鍵を閉めた。
それから、洗面台の下に隠れているポールに足を引っ掛けてバランスをとる。
「呆れた。今日は〔スーパーエイト〕のテスト走行があるのよ? いつ頃来れるの?」
「お昼にはつくわよ。わたしの家、遠いの知ってるでしょう?」
「なら、早く出る努力をしてください」
ケイトレットの小言に適当に返事をしつつ、ソフィは洗面台に手を伸ばす。
彼女の指先はビニールのような膜を突き破って、するりと洗面台に滑り込む。それを感知した蛇口のセンサーが水を出す。無重力の中では水はふわふわと浮いてしまうものだが、洗面台の吸引装置が作動し、強制的に落としていく。
指先で揺れるその流水の冷たさと手を吸い寄せる撫でるような吸引機の風を、ソフィは暇つぶしにしていた。
「そう怒らない。プログラムのデバックだって大変なんだから。昨日も夜遅くて、疲れちゃった」
「それには感謝しています。こちらでも、確認してマシーンに反映しました」
「なら、話すことなんてないんじゃないの?」
ソフィには、ケイトレットが電話をかけてくる理由などソフトウェアのことだと思っていた。
しかし、受話器の向こうからケイトレットの気難しそうな唸り声が聞こえてきた。
「今日は、そういう案件ではありません」
「じゃぁ何? 今日のテストくらい、わたしが顔を出さなくたってできるでしょう?」
「あたしも出れないんですよ。課題の山で」
「やめちゃえば?」
「それができれば苦労しないんです」
ケイトレットの返しにソフィは「真面目ね」と素っ気なく反応する。
「先生さんもいるし、大丈夫よ」
「そうでしょうけど……。はぁ」
ソフィもケイトレットに合わせてため息をつく。
「つまらない電話よこさないで。友達いないからって」
「余計なお世話です」とケイトレットがぶっきらぼうにいう。
それから、少し会話が途切れた。
何を思い悩んでいるのだろうか、とソフィはケータイを横目に見ながら言葉を待つ。他人に対して、そこまで深く干渉する気はなかったし、これで途切れるならそれまでのことだ。
「一つ、確認したいことがございまして」
と、ケイトレットが重々しく切り出す。
「あら、何?」
「アイのことですが……。あなたからの調査報告、本当なんですか?」
ソフィはなんだ、と肩を上下させて肯定する。
「ええ。あの子のおばあさんに会いに行ったし、近所でも少し聞き込みをしてきたから、まぁ概ねあってると思うけど?」
「このことを他に知っている人はいるんですか?」
ケイトレットの質問に、ソフィは眼を細める。
「さぁ? どうだろ? アイちゃんくらいじゃないの?」
「本人は、それは知ってるでしょうよ。知ってて、オートアスリートをやってるんですからね」
「なら、いいんじゃない?」
ソフィは洗面台から手を引っ込めて、濡れた指先をタオルで拭く。
「それとも、何か危ないことでもあるの?」
「論理的ではありませんが、そうです」
「あなたの勘?」
そんなところです、とケイトレットが真面目に答える。
その返答に思わずソフィは吹き出してしまった。
「フフッ、生真面目なケイトレットさん。あなたともあろう人が、情に絆されたのかな?」
「あなたはどうなのですか? アイのことを調べて、何も思わないの?」
「おもしろいとは少し思ったよ。本当に健気な子ね。けど、わたしはああいう生き方はしたくないな」
ソフィは冗談で言う。
いつもならケイトレットがふざけるなと叱りつけるところだ。しかし、電話の向こうの彼女も否定できないようだった。
真面目なケイトレット・リーファンだ。ソフィほど考えが柔軟ではない。人の過去を暴いて、その重さを処理できないのかもしれない。
それが人間であるべき共感なのだ。
「ま、知ってしまったからには、そのことをどう使うかはあなたに任せるよ」
「ソフィ……。アイのことはどうするんですか?」
「好きにさせれば。あの子もチームの一員だし。必要だと思ったら、動くよ」
じゃあね、とソフィは通話ボタンを切った。
「あの子自身の問題だろうしね。それに、話しちゃったしね」
ソフィはそう言って、唇をケータイの画面で覆った。
* * *
〔オーステン〕でテストコースを走るアイ・シマカワは焦っていた。
ストレートでの加速が伸びない。フルスロットルで走らせているというのに、体を軋ませるほどの負荷がほとんど来ないのだ。
荒波に揉まれた小舟にいるような荒々しさもなく、シートは遊覧船にでも揺られるような小さな振動しか感じない。
それが不安だ。どっちの足で踏み込んでいるのか、胸元にある液晶パネルが映す小さな画面でしか確認できない。
そして、近づいて来る右コーナーを睨みつけながら、ブレーキとシフトダウンを行う。その手順をアイは一瞬躊躇った。
〔オーステン〕は長い脚部で目一杯に頭部を低くして、突き出すようにして走っていた。そこから、背中を引いてつま先を前に滑らせる。
前に出ていた上半身が足元をすくわれたように後ろに引っ張られ、滑る右脚部が前に出た。その重心の入れ替えに、スピードがガクッと落ちる。
ゴウッとエンジンの荒く咳き込んだ音と、モトスパイクの擦り切れる高音が響いた。
「むぐぐ……ッ!」
アイはシートで、腰をコースの内側に落とし、肩をモニタにぶつける勢いで車体を傾けさせる。
ブレーキで速度を削り、アクセルワークでエンジンの呼吸を整える。
〔オーステン〕は車体を少し傾けて、急減速しながらコーナーをクリアしていく。そのひざ関節から火花が飛び散っていた。
そのオレンジの火の粉がサーキットに転がって、跳ねて、消える。
その様子を眺めるエリー・エリーナは神妙な顔で〔オーステン〕のことを思う。チィと別れて、すぐにテストコースに来てみれば、アイが一人でずっと走っている。
エリーはアイの体が心配で、早く戻ってくることを祈った。傷だらけの体ならなおのことだ。
「なんだか、苦しそうな走り方してますよ。リン先輩」
エリーは双眼鏡を下ろして、ピットに設営された屋根だけのテントにいるリン・ブレックスにいう。
彼女はハルル・モードと神妙な顔で話し込んでおり、テントの日陰にはふてくされたようにアウトドアチェアに座るキョーコ・スコルがいる。
「リッター6.5のマシーンでさ、アイみたいな走り方をずーっとさせてたら、モトスパイクが潰れちゃうよ? 困るだよなー」
「かれこれ、1時間か……」
ハルルの間延びした質問に、リンはキャンプテーブルにあるノートパソコンを見ながら神妙な顔をするばかりであった。
ノートパソコンには、アイとキョーコの〔オーステン〕でのタイムレコードが表示されている。テストコースの周回レコードに加えて、コースをいくつかのセッションに分けた区間タイムも計測されている。
区間タイムはチーム全員で持ち場について、ひとりひとりストップウォッチを片手に計ったのだ。アナログな計測方法であったが、それぞれがマシーンの速さや轟音に慣れるための練習も兼ねていた。
そして、二人のタイム差は火を見るよりも明らかだった。
アイがキョーコに喧嘩を売るようなことを言った自信も頷けるほどだ。
「アイは速い……」
リンがポツリと呟くと、耳ざとくキョーコはそれを切ってムッと口を尖らせた。
そして、徐々に〔オーステン〕の苦しげなエンジン音が響いてきた。
「リン先輩!」とエリーは声を張って呼びかける。
「え? なに?」
「あのマシーン、胸のライトがチカチカしてますよ!」
ハルルが真っ先にテントを飛び出す。
リンもテーブルに置いてある無線機に手を伸ばした。
「アイ、状況を説明して! 聞こえてるでしょう!」
しかし、無線からの返答はない。
「また、知らんぷりをして!」
リンも杖をつきながら遅ればせに、テントを出る。その横に不安そうにエリーがついた。
「どうなってるんですか?」
「ハザードを出してるってことはマシーントラブルかも」
「そんなッ! 大丈夫なんですか?」
エリーはリンをサポートしながら、ピットレーンを超えてハルルのいるピットスタンドに急いだ。
スタンドでは、拡声器がありハルルがその電源を入れてマイクを手にしていた。その乱暴な手つきに、一緒においていた水の入ったボトルが落ちる。
「アイ、ピットに戻れ! 言う事聞かないと〔スーパーエイト〕に乗せないから!」
「なんで……」
ハルルの声に、エリーは呟きながらスタンドで身を乗り出すようにしてメインストレートに入ってくる〔オーステン〕を見た。
胸部のライト部分、オレンジ色のハザードランプが一定間隔で点滅している。が、脚部は地面を蹴って走っていた。本来なら減速をかけて、モトスパイクのモーター出力だけで走るものだ。
そうしないのは、〔オーステン〕のシステムエラーではなく、アイの意固地に走ろうとする姿勢そのものだ。ハザードランプがついているのは、むしろマシーンの正常な自動警告システムの働きだ。
リンとハルルはそれを瞬時に理解していた。
「かしてッ」とリンはハルルからマイクを奪うようにして掴む。
ハルルもその乱暴な所作に一瞬あっけにとられたが、すぐに明け渡す。
「いい加減にしろ! マシーンを壊す気か!? コッチに来い!!」
リンの怒鳴り声に拡声器がハウリングし、ハルルとエリーは思わず顔をしかめて耳を塞いだ。
普段は落ち着き払っている三年の先輩が、本気怒る気迫にエリーたちは震え上がった。
その気迫が伝わったのだろう。
〔オーステン〕は減速をかけて、ゆっくりとピットレーンへ軌道を変えていく。
「まったく……」
リンは戻って来る〔オーステン〕を目で追いながら、マイクをハルルに突き返す。
それをハルルが呆然と受け取ると、リンが杖を乱暴につきながらマシーンの元へ歩いて行く。
そして、リンと入れ替わるようにしてハルルの横にエリーがついた。
「おっかない顔してたよ」
ハルルはげんなりとした顔でいった。
「そうだね……。行こう」
エリーはハルルを促すが、彼女は首を横に振った。
「やめておく。前にも言ったじゃん。アイは無神経すぎるって」
「だからって、まぁ……」
「少し考えを改めさせた方がいいんだよ。それができるって、リン先輩くらいじゃん」
ハルルの言う通りだ、とエリーも思った。
アイは直情的な子だ、とチームの中で広がっていた。それもネガティブな側面が目立つようになり、協調性のない無鉄砲な一年生だと思われている。
「そうだけど、〔スーパーエイト〕だってもうすぐ来るんだよ? キョーコ先輩も黙ったままで、このままだとよくないよ」
「それはもうアイ次第でしょ。これ、持ってったげて」
ハルルが地面に落ちたボトル拾って、エリーに渡す。
エリーはそれを受け取りながら、ハルルのドライな対応にムッとして、〔オーステン〕の方へ歩き出す。
カツン、カツンと鉄を叩く音が聞こえる。エンジンが冷えて、膨張していた金属が元に戻る音だ。エンジンを切ったはずの〔オーステン〕が苦しみを訴えるように、喘いでいるようだった。
「なんて無茶な走り方をしたの!」
エリーは〔オーステン〕の前で怒鳴るリンを見た。
〔オーステン〕に近づくほどに、肌で異常なまでの熱気を感じ、さらに目に見える湯気となって立ち上っているのがわかる。
その背部ハッチが開いて、レーシングスーツとヘルメットを着込んだアイが姿を見せる。疲れているのだろう遅い足取りで、湯気をかき分けるようにして車体の肩から腕を伝って地面に降りてきた。
「見なさい! こんなになる走りをさせたら、マシーンが壊れるでしょ? あなただって」
リンは〔オーステン〕を指差して、ゆっくりと歩み寄ってくるアイを睨んだ。
エリーはリンの隣につきながら、ヘルメットを取りながら近づいてくるアイを心配そうに見ていた。
「…………ごめんなさい、気づかなくて」
ヘルメットを取ったアイは俯いて、消え入るよな声で言う。滝のように汗を流し、うっすらと頭からは湯気が出ている。相当、疲れているのだろうとエリーは思った。
その声はリンの耳には届いていないようで、怖い顔をしていた。
「だけど、あたし、大丈夫だもん」
アイは振り絞るように言って顔を上げる。
その鋭い目つきにエリーは震えた。何かに取り憑かれたような眼光は尋常ではない。
リンはそれでも気圧されることはなかった。それどころか、一層険しい顔で睨み返していた。
「大丈夫って……。フラフラじゃない」
「いつもの、ことです。大丈夫です……。〔スーパーエイト〕のテストもいけます」
アイは頑として認めようとはしなかった。
エリーは心配でボトルをぎゅっと両手で握りながら、一歩前に出る。
「アイちゃん、疲れてるならそういっていいんだよ? 少しは自分の体を大事にしないと」
アイは少しエリーの方を向いたが、すぐにかぶりを振った。
「プロのライダーだったら、お父さんだったら、このくらいへっちゃらだもん。だから……」
「あなたはそのお父さんでも、まして、プロでもないのよ」
リンの言葉に、アイは目を見開いて髪を逆立てる。
「だから、なるんです! 絶対、なるって決めたんです。死ぬ思いをして、ここまでやって––––、それでレースに出れなくなったら、生きてる意味ないんだ!」
彼女の悲痛な声が響き渡る。
エリーと遠巻きに見ていたハルルも驚いて固まってしまう。
「そこまでいうの……」
リンは複雑な面持ちで呟く。
と、ここまで黙っていたキョーコが椅子から立ち上がり、リンの元に歩み寄る。
「だったら、好きにやらせてもいいじゃないッスか、先輩?」
「キョーコ、それ本気で言ってるの?」
リンはキョーコがまだ僻んでいるから、そのようなことを言うのだと思った。
「キョーコだって十分できてる。同じチームで比べてどうするの?」
「それじゃ納得いかないのが、こいつなんスよ。自分が一番じゃなきゃ安心できやしない」
キョーコはそうだろ、とアイに一瞥をくれる。
陽の下の彼女は一層色白で輝いて見える。赤い瞳もピンクダイヤモンドのように神秘的に映える。そこに薄暗い色などない。
チームの仲間よりも前に一人のライダーとして、彼女はアイたちの前に出てきたのだ。
アイにはそうした仁義などわからない。ただ追い詰められた獣のように、その瞳を睨むばかりであった。
「大丈夫だって言うんならテストをやってみればいいッス。こいつが納得するやり方をさせてやりましょう、先輩」
「どうしたの、キョーコ? らしくないわ」
「い、一応、アタシも先輩ッスから。それだけッス」
リンはキョーコの真意が読めなかった。
ただ、少し前はふてくされてアイとはろくに口も聞かない態度だった。まだ『遅い』と言われたことを根に持っているのだろうか。
「あたし、やりますからね!」
アイは口を尖らせて、リンに進言する。
こうなってはアイの暴走を止めることはできそうにない。しかし、現状の彼女が〔スーパーエイト〕を走らせた時にどんなことが起きるのか。
リンは自身の事故の経験から最悪の事態ばかりが頭の中で繰り返されていた。
止めなければならない。そんな強迫観念が付きまとい、彼女の心はざわついて落ち着かない。
しかし、そうしている合間にも〔スーパーエイト〕がテストコースに運び込まれるのであった。
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