第2-7話:それはいけないのでは?

 キョーコには、オートアスリートに特別な思い入れがあったわけではない。


 ただ自分の恩人であるリン・ブレックスがそのライダーであったからに過ぎない。知り合う以前には、対してオートアスリートに関心もなかった。


 しかし、今はどうだろうと自問しているキョーコである。


 テストサーキットでオートバイと然程変わらないモトスパイクを走らせながら、首筋を刺すような冷たい風を感じる。


 リンがチームの陣頭指揮を取ることになれば、キョーコは〔スーパーエイト〕の正式なライダーとして活動しなければならない。リンに変わって、〔スーパーエイト〕に乗ってレースに勝利しなければならない。


 そのことに緊張はあったが、追い込まれるほどの不快感はなかった。


 やんなきゃな、と漠然とした使命感があるばかりだ。


 怪我で乗れないリンの代わりに頑張らなければいけない。それが彼女に対する恩返しになるのなら、嫌がる理由はない。


 代わりに、オートアスリートへの情熱にイマイチ火がつかない。


 握るハンドルやステップはまだ固く感じられた。


 それでも、コーナーが迫ってくれば、身に染み付いたシフトダウンの手順を素早くこなして減速。体全体で車体を傾けて、タイトなコーナーを低速で抜ける。


 立ち上がりの加速は静かで、伸びやかだった。全身で感じる振動も小さく、柔らかい。


「仕上がりはまぁ、いいか」


 キョーコは口の中で言いながら、S字コーナーに目を向ける。


 と、背後から迫ってくる気配を感じた。正確には、サイドミラーにちらっと映り込んだ同じモトスパイクを見たからだ。


「またか……」


 キョーコは辟易しながら、S字コーナーを抜けて行く。


 その後ろを追随するモトスパイクは荒々しく、車体を左右に振って限界までアクセルを開け続けていた。


 互いの距離がまた縮まる。


 最終コーナーに続くストレートで二台のモトスパイクはラストスパートをかける。バチバチと両輪のハブモーターから静電気がほとばしる。


 一呼吸の間には、コーナーの入口が迫る。


「––––っ!」


 キョーコは両輪のブレーキを一瞬かけた。それだけで、スピードに乗っているマシーンから振り落とされそうな負荷が襲いかかってくる。


 リアタイヤがわずかに浮き上がる。地面との間はわずか紙一枚入る程度の、ほんの些細な隙間だ。それだけで、身の毛もよだつほどの恐怖感があった。


 床が抜けたようなわずかな浮遊感に、体がギョッとするような感覚。


 ピリッと静電気が足元を走った。思いっきり走れるサーキットでしか味わえないスリルが、キョーコを刺激する。


 次には体をコーナーの内側に投げ出す気持ちで姿勢をずらし、浮いたリアタイヤを外側に投げ出す。


 そして、アクセルを絞りながら最短でコーナーを曲がっていく。リアタイヤがわずかに空転し、わずかに逆ハンドルカウンターを当てたフロントがバランスをとる。


 スライド走行は慣れているつもりだが、オートアスリートの時ほど手応えがなくてキョーコは少し苦手だった。


 そんな彼女の不安に圧をかけるようにして、後続が密着するように同じスライド走行で詰め寄ってきた。


「また、アイのヤツは––」


 キョーコは左後ろからくるプレッシャーに奥歯を噛みしめる。


 車体がすでにぶつかっているのではないか、と錯覚してしまうほど車間が詰まっている気がしてならなかった。


 それは追ってきたモトスパイクのライダー、アイの攻めの姿勢そのものである。


 二人の車両がコーナー出口で、外に流れて行く。


 キョーコとアイの車両の間隔が開く。両者の差は車体半分。


 アイはグッと体をモトスパイクに押し付けて、アクセルを徐々に絞る。見えない空気の壁が前から体を押さえつけ、ステップにかけた足に集約される。


 そのアクセルワークの差が、キョーコとアイの位置を入れ替える。


 アイのモトスパイクがわずかに前に出て、二人の車両はメインストレートを全速力で駆け抜ける。


 コントロールラインに迫る二台をピットレーンにいるハルルが神妙な顔で見ていた。


 二台のモトスパイクがコントロールラインを超える。冷たい風が追いかけて、ハルルの短い髪を撫でた。


「よっと。どれどれ……」


 ハルルは器用に両手に持ったストップウォッチのボタンを押した。そして、タイムを見たときに、ふっと張り詰めていた息を吐いた。


「なんというか、アイってば容赦ないんだから」


 左手のストップウォッチは2分49秒09を示し、キョーコのベストタイムとなっていた。


 そして、右手のストップウォッチはアイの記録、2分30秒05が刻まれている。しかも、ベストタイムではない。


「何回調整すればいいのかなー」


 ハルルは幾度となくピットインしてくるアイに合わせて、モトスパイクのセッティングを変えていた。


 その度に、タイムにばらつきは出てきたが、それでも数週もすればキョーコを追い抜いてしまう。


「アイも、張り切り過じゃないかな?」


 ハルルはそう言いながら、しばらく見守っているとキョーコが先に戻ってきた。


「ちょーし、どうですかー?」

「どうもこうもねぇよ」


 ハルルの出迎えにキョーコがため息をつきながら言う。


 ヘルメットを取って、スーツに入れていた髪を出すと、不愉快そうに堅い表情をしていた。息は少し上がっていたが、すぐにその呼吸も整える。


「アイちゃんに負けたの、悔しいんだ」

「そんなんじゃねぇよ……」


 キョーコは強がったが、ハルルの言う通りだ。


 伊達に元プロライダーの娘だと吹聴している訳ではなさそうだ。それだけ、アイにはオートアスリートに対する強い信念があるのだろうとも思う。


 キョーコが悔しいと思うのは、技術で負けて、さらには気構えでも負けていると思い知らされるからだ。


「悔しいんだ」と茶化してハルルが続ける。

「コイツのっ、コイツの調子を気にしろよ」


 キョーコはモトスパイクから降りて、液晶コンソールを操作する。そうして、自立したモトスパイクの横に立って、腕を組んでそっぽを向いてしまう。


 キョーコの下手な話題すり替えにハルルは微笑みながら、キョーコの乗っていたモトスパイクに触れる。ハンドルや液晶モニタを確かめると、次には屈んでタイヤの減り具合を確かめる。


 テストライダーを務めていただけあって、モトスパイクに大きな負担はなかった。しっかりとスタンドもなしに自立しているのだから、マシーンのマネジメントは申し分ない。


 逆を返せば、本気ではなかったのではないかと疑問に思ってしまうのも、フィッター志望のハルルの見地だ。


「よく走ってたじゃん。何か不満なところでもあったん?」

「不満ってほどのことは別に……。よく、仕上げてある感じがするような気が、しないでもないというか……」


 モゴモゴと尻すぼみになるキョーコの声に、ハルルは思わずため息が出る。


「ハッキリしてよー」

「っるせぇ。実際にマシーンに履かせてみねぇとわかんねぇんだよ」


 それよりも、とキョーコは無理矢理話を切って、膝を抱えて見上げてくる後輩を見た。


「アイのバイク、何回調整した?」

「5回くらいかな。キョーコ先輩を追い抜いて、一周したらピットに来てたから」

「チッ。んな頻繁にすることかよ」

「まぁ、調整段階だし、色々試したかったんだと思うよ?」

「理由になるかよ」


 キョーコも屈んで、モトスパイクの影に隠れるようにしてハルルの視線に合わせる。


「神経質なライダーだったら、苦労すんのはお前らだぞ? 履き潰して時間食うようになったら目も当てられねぇ」

「いいじゃん。別に悪気があって注文つける訳でもないし。大雑把は大雑把で困る」

「お前やチィ先輩ならどうとでもできんだろうが、ケイトレットはストレスで胃に穴が開だろうし、ミミリアにはネチっこく言われる決まってる。あと、あのエリーとかいう初心者だって苦労すんぜ?」


 そんなキョーコに対して、ハルルは感嘆していた。


「へぇ、意外と人のこと見てるんだ。友達いなさそうなのに」

「余計なお世話だ」


 キョーコは生意気な後輩の頭に手を乗せて、乱暴に髪を撫で回す。


「やーめーてー」

「ちったぁ周りを見ろって。わーったな?」


 ハルルはキョーコの手をどうにか払いのけて、「わかった」と返事する。そして、その目は横で立つモトスパイクに向けていた。


「本気で走れないんだ、この人」


 唇を震わせて、キョーコをそんな風に評価した。


 周りの目を気にして自制するように気をつけているのだ。それがマシーンを扱う上でも現れるのだから、色白の先輩は繊細な人だとハルルは思った。


 同時に自分の腕がまだ認められてないのだ、と悔しくもある。


 テストライダーに気を使われていては、最高のコンディションに仕上げられるはずもない。妥協したセッティングで走らせることになるのだから。


 ハルルがモトスパイクに熱意を持っているのは、ライダーやメカニックを足元で支えられるからだ。そして、本気で走れるように安心して踏み出せるスパイクに仕上げることに、フィッターとしての喜びがあると思う。


 それがまだ遠い理想のように思えて、膝を抱える腕に力がこもる。


 と、アイの乗るモトスパイクのエンジン音が近づいてくるのが、彼女たちの耳に届いた。


「んなわけで、コイツのセッティングはアイの奴に合わせておけよ」

「い、いいけど、キョーコ先輩扱えるの?」


 手櫛で髪を整えながら、ハルルが問いかける。


「そのほうが手っ取り早いだろ?」


 キョーコは立ち上がって、すぐ横に止まるアイと彼女のモトスパイクを見た。


 スムーズに停車して、アイがモトスパイクから降りる。その足が一瞬ふらついたように見えたが、彼女はすぐに立ち直ってヘルメットを取る。


 汗で濡れた短い髪に、リンゴのように赤い頬。疲れ切った息遣いは、苦しげだった。


「どうした? 疲れたのか?」

「え、えへへ。ちょっと、張り切り過ぎちゃいました」


 アイは笑顔で答えて、ばつが悪そうに頰を指先で掻く。


 キョーコはそういうアイの元に回り込む。それから、腰を折って顔を覗き込むように睨みつける。


「張り切り過ぎた? この後、〔オーステン〕でのテスト走行あんのわかってんのか?」

「もちろんですよ! やりましょう!」


 それを聞いたアイはけろっとしてみせて、胸の前で両腕を構える。興奮して鼻の穴を広げ、目を爛々と輝かせていた。


 が、キョーコはその目の色を怪訝そうに口元を歪めて、顔を離した。


「少し休んでろ」

「なんでですか? さっきはちょっと気が抜けただけです」

「体調管理もライダーの仕事だ。自分のコンディションに嘘をついても、ロクなことになんねぇよ」

「大丈夫ですっ! やれます!」

「ダメだ。調子乗ってると痛いめみんぞ」


 キョーコが諭すも、アイは駄々っ子のように「大丈夫です」、「やります」と連呼する。


 その甲高い声にいよいよキョーコも苛立って、声を荒げる。


「人の迷惑なんだよ!」


 それでもアイは怯まなかった。それどころか、意固地になって頑としてその場から動こうともしない。


 キョーコは昔の自分を見ているような気がして、腹の底が煮え繰り返る思いだった。自分を通すために、他のものを認めようとしない強情さ。


「チッ。ムカつく」

「なんなんですか? なんなんですか、その言い草!」

「ムカつくってんだよ! 人の話を聞けっての!」

「聞いてますもん!」


 ここまでくるとキョーコの頭にも血が上って、足で貧乏ゆすりをはじめてしまう。


 その様子をモトスパイクの影からひょっこりと顔だけ出して見ていたハルルも、二人の険悪な雰囲気に苦い表情が浮き出てくる。


「うわっ。これはちょっとヤバイかも」


 ハルルも仲裁しようと腰をあげるが、アイが声を張り上げる。


「だいたい、ちょっと疲れた顔したらテスト走行できないなんておかしいです! 本番ならこれくらいでへこたれたりしません!」

「今はそうじゃねぇだろ。テストで無茶して、レース当日に倒れられたら終いだろが」

「ならないもんっ!」

「どこにそんな保証があんだよ」


 キョーコの質問に、アイは胸をそらしていう。


「そんなのないですよ? ならないようにしますもん、絶対」

「だから、そういうガキみてぇなことをペラペラ言うんじゃねぇ」

「先輩の保証だの、なんだのって言う方がよっぽど弱腰じゃないですか?」


 それに、とアイは続ける。


「キョーコ先輩、モトスパイクでの走り遅いです! オートアスリートならもっと速く走れるんですか? あんなんじゃ、レースで勝てませんよ!」


 その一言にキョーコも頭の血管が切れそうなほど顔を真っ赤にして、握り拳を作る。


 アイはその言葉がどれほどキョーコのプライドを傷つけたのか、理解できていなかった。テスト走行で何度も追い抜いた。それが彼女の実力の全てなら、レースで勝つことなどできない。


 オートアスリートは実力がすべての世界だとアイは考えている。


 だからこそ、努力をして、全力でぶつかっていかなければならない。結果が伴わなくとも、オートアスリートで走る限りには全身全霊で駆けていく。


 その姿を多くの人たちが待ち望んでいるのだから。


「テメェ……ッ!」


 キョーコが唸る。


 いよいよ二人の険悪な空気が熱を帯びて、危険な雰囲気が濃くなっていく。いつキョーコの鉄拳が繰り出されてもおかしくない状況だ。


 その状況に背筋が震え上がったハルルが、勢いよく立ち上がって努めていつもの調子でいう。


「まぁまぁ、二人とも。こっちで調整する時間とかあるから、その間は休んでてよ。ね?」


 そんなハルルにキョーコが怒りのこもった目を向けて、アイも不愉快そうな視線を向ける。


 ハルルは冷や汗を流して、頭の後ろに両手を回す。


「アイも疲れてないなら、〔オーステン〕にこれを履かせるの手伝ってよ。そうすれば、ほら、早くできるでしょ?」

「それもそうだね。時間がないんだもん」


 と、アイはふっと肩肘の力を抜いて一人頷く。


 対して、キョーコは不機嫌顔のままレーシングスーツのポケットに手を突っ込んで、彼女たちに背を向けて歩き出す。


「先輩、どこいくの?」

「便所……」と質問するハルルにそれだけ言って、キョーコは振り返りもせずに事務所の方へ歩いていく。


 ハルルはようやく緊張が解けて、肩を落とす。重く、気だるい感覚ばかりが体にのしかかる。


「あぁ、しんどい。キョーコ先輩も子どもじゃないんだから……」

「本当だよ。失礼しちゃうよね」

「アイもだよ」


 ふくれっ面のアイにハルルは面倒そうにツッコミを入れる。


「このことは、ボクからリン先輩たちに言っておく」

「別にいいよ。自分で言うし」

「少しは反省してってこと」

「何を?」


 アイはハルルの言い分がわからず、きょとんとした顔をしていた。


 これにはハルルもお手上げで、がっくりと肩を落とす。


「田舎育ちって、アイみたいなのばっかりなの?」

「どうだろ? みんな、あたしのことバカにしてたし。変な子だって言ってたから、違うんだよ、きっと」


 アイはあっけらかんと言って、何気なく空を見上げる。


 昼下がりの空に薄い雲が流れていく。この場所からでは、何億光年離れた第5恒星系の緑色など見えるはずがない。


 恋しいとは思えわない。が、遠い星に来ても、自分を理解してくれる人がいないことが虚しかった。


 リン・ブレックスと会った時のことの繰り返しで、アイの胸中に暗澹とした気持ちが燻る。


 ハルルは背の低いアイを不審に思いながら、適当に返事をして作業に入った。


「自覚ないんじゃないかな、アレは」


 モトスパイクのハンドルを握りながら、ハルルは聞こえないようにぼやく。


            *      *      *


「つーかーれーたー」


 ミミリア・ミラッソは通学かばんと一緒にトートバックも担ぎ直しながら、バスに乗り込む。


「第2ステージの交通許可証をなんで、直接取りに行かなきゃならないわけ」


 そう愚痴ると、どっと疲れが押し寄せる。


 ミミリアは参加するオートアスリートレースの第2ステージ、俗にオフロードコースが解放される地域に足を運んでいた。そこは南半球にある鬱蒼としたジャングル地帯で、運営本部も駅からバスで1時間もする場所にあった。


「バスは電車より時間かかるし、汗はべとつくし、最悪」


 ミミリアは文句を垂れながらも、仕事は全うしてきた。


 オフロードコースは一般道をレース開催中はコースとして取り扱うのだが、走るためにも申請や許可が必要になってくる。


 それら必要事項の提出ができなければ、たとえ〔スーパーエイト〕が直ってもレースに出場することもできない。


 ミミリアは大変だと思いながらも、責任のある仕事だと自負もしていた。少し、学生らしくないとも思う。


 周りを見れば、仕事を終えたサラリーマンやOLがすでに車内におり、車窓の向こうは暮れなずむオレンジの空と黒い雲がポツポツと散らばっている。


「席空いてないの? きっつー」


 ミミリアはふて腐れて、人の隙間を縫って空いているスペースを探す。


 と、窓際の一人席に見覚えのある制服を着た女子がいた。


「なんだ、一年生の」


 確かマルーシャ・ベルックだったか。


 ミミリアは自身の記憶を手繰り寄せながら、彼女の横に立つ。


 マルーシャはジッとスケッチブックを睨みつけ、使い込んだ鉛筆の先で描きかけのデッサンを叩いていた。集中しているのか、周囲のことなどまるで気にかけてもいない。


 たとえドアが閉まり、発車の揺れで人々が揺れ動こうとも、彼女だけは微動だにせずジッと機械のように鉛筆の先を叩き続ける。


「マルーシャ、だよね?」


 ミミリアは少し悪いなと思いながら、彼女に話しかける。


 それでも彼女は反応しない。


「んー。ねぇ、何してるの?」


 ミミリアは再度声をかけて、顔を近づける。


 すると、マルーシャから墨汁の独特な匂いが漂ってきた。それを異臭だとは思わなかったが、同年代の女の子からする匂いではないだろう。


「おーい」と耳元で呼びかけると、ようやく気づいたようにマルーシャが顔を上げる。


 リアクションは薄く、長い睫毛を揺らすようにゆっくりと瞬きをする。


「あぁ、ミミリアさん」

「あぁって……。すごい集中して、デザインしてたみたいだけど?」


 ミミリアはつり革を掴んで、上体を引き上げる。


 そんな彼女と膝下のスケッチブックを見比べて、クスクスと笑う。


「まぁ、からかって。だって、ほら、ちっとも進んでいませんもの」


 マルーシャはデッサンを見やすい角度でミミリアに示しながら言う。


 その発言にミミリアは疑問符で頭がいっぱいになる。


「何を言ってるの? マルーシャ、ずっとデッサンを睨んでたけど?」

「睨む? よく覚えていませんけれども……」


 マルーシャはそう言って、スケッチブックを膝の上に下ろす。それから、あっと何かを思い出したように口を開いて、ひどく残念そうにため息までつく。


「まさか、ボーッとしてただけ? 何故に?」

「色々と考え事をしてしまうと、つい手元がおろそかになってしまうものですから。先ほどまで、反省文を書いていたもので」

「反省文って、まさか授業の?」


 ミミリアが恐る恐る問いかけると、マルーシャは少し恥ずかしそうに頷く。


 これを聞いて、ミミリアは思わずがっくりと頭を垂れた。


「冗談でしょ?」

「授業中にこちらのデザインのことを考えていたら、先生に怒られまして。それで反省文を書くことになったのですが、居残りで書けなかったので、家で書いてこいと」

「居残りしてたのかー。それで、こんな時間に……」


 ミミリアは腕時計を見て、ため息をつく。時刻はもうすぐ午後6時を迎えようとしている。


 カワアイ工業高校からミミリアが乗った駅前のバス停までそれほど距離はない。そう考えると、かなりギリギリまで居残りをしていたのだろうと想像できた。


「大変だった––」


 後輩の気苦労に同情するところで、ミミリアはふと思い出す。


 彼女の頭に入っているカワアイ工業高校オートアスリートチームのスケジュールが鮮明に浮かび上がって、記憶がハッキリとするほどにミミリアは血相を変えていく。


「––って! マルーシャ、今日デザイン原案提出じゃないの!?」

「だから、こうして考えあぐねいているのです。しかし、反省文も……、困りました……」


 そう言って、マルーシャはぽかんと口を開いたまま、考え込んでしまった。


 ミミリアは頭の中でぐるぐるとスケジュールを思い出しながら、ネイルで彩られた指先を指折り数え始める。


「明日にはケータリングの発注。夜にはタイヤ発注。ああ、確か二日後にはレース運営への申請もしないと。あと、運搬費の算出とこれまでの修理費を学校に提出して、あぁ……。やっぱりデザインは今日中に形にしてもらわないと、今後に支障が––」


 ミミリアはリップグロスで艶やかに光る唇を引っ込めて、やきもきしながらマルーシャを見た。


 迷っている時間はなかった。打開策を練っている余裕もないのだ。


「マルーシャ、今日中に絶対完成させて!」

「はぁ、それは大変困りました。反省文も明日提出なので……」

「そんなのあたしが代わりに書いてあげる! だから、こっちを先に終わらせて」


 ミミリアは早口で言って、マルーシャの両肩を掴んだ。


 リアクションの薄いマルーシャでも、目を大きくしてパチクリと瞼を瞬かせる。


「それはいけないのでは?」

「大丈夫! 反省文を書かされるのは慣れたものよ。チームのためよ」

「チーム……。あぁ、わたくし、そのことを忘れてしまっていたなんて」


 マルーシャが反省したように俯く。


 慌てていたミミリアも彼女のしおれた姿に少し意表を突かれ、冷静さを取り戻す。マイペースで、物事を同時にこなすのが苦手なマルーシャ・ベルック。その性格のために、あまりチームに協調するような感じはこれまで見受けられなかった。


 しかし、深刻に考えるほどのことでもないだろう、とミミリアは思っていた。


「そこまでテンション下がる必要なくない? マルーシャは大きい仕事をしてる。あたしにできるのは、事務仕事くらいだしさ」


 ミミリアは技師としてチームの中でも一番未熟だろう。そう思って、広報や営業事務を引き受けてできることをしている。


 マルーシャのような特別なことができる訳ではないのだから、と思うのだ。


「しかし……」

「自覚できただけマシだし。デザインさえ完成すれば、問題なしなわけ」

「お心遣い感謝します。なにぶん、こうした交際には疎いもので」

「あ、そうなんだ」とミミリアは口にして、ちょっと意外と心のうちに付け足す。


 上品なお嬢様な雰囲気もあって、妙な説得力もあった。


 世話が焼けるかも、ととりとめもないことを思いながらミミリアは通学カバンの中を漁る。


「肩肘張らないで、あたしにでも頼りなって」

 

 そして、カバンからチョコレートの菓子箱を取り出す。


 それの開け口を開けて、マルーシャの前で軽く振ってみせる。手を出して、という合図だ。


 マルーシャもすっと丁寧に両手を差し出す。


 ミミリアはなんとも気品と礼節を大事にする後輩に笑いかけながら、飴玉のように丸いチョコレートを2、3粒渡した。


「疲れた時は甘いものってね」

「ありがとうございます」


 マルーシャがお礼を言っている間に、ミミリアも一粒手のひらに出してすぐに口へ放り込んだ。


 年が一つしか違わない彼女がマルーシャには、すごく大人びて見えた。


「ん? 何かついてる?」

「いいえ。なんでも、ありません」


 マルーシャは外を見ながら、チョコレートを一粒つまんで口に運ぶ。


 甘く転がるチョコレートの味にホッとする。


「そう? それじゃ、カッコイイデザインをパパッとお願いね」

「カッコイイをパパッとですか?」


 マルーシャはミミリアの注文を聞いて、改めて彼女を見た。


 ミミリアは明るい声音で話す。


「そうそう。あたし、オートアスリートのデザインとよくわかんないけど……、ほら、アイとか、チィ先輩が話してるの聞いてみなよ。結構盛り上がってるじゃん。なんか、ヒーローみたいなのがいいなって言ってた気がする」

「なるほど……」


 そこでマルーシャは一人納得して、自然とスケッチブックに転がっていた鉛筆を掴んでいた。


「キョーちゃんにも聞いてみてよ。ムスッとしてるけど、そういう趣味の人と喋るの好きなんだよ」


 嬉々としてチームメイトのことを話すミミリアに、マルーシャも思わず笑みが溢れる。


「ミミリアさんはお人好し、ですね」


 そう言われて、ミミリアもくすくすと自虐するように笑った。


「本当にそう。あたしも物好きだと思うよ」

「どうして、でしょうか?」

「それが聞いてよ。キョーちゃんいるでしょ? あたし、小学校の頃からの幼馴染なわけ」


 機嫌をよくしたミミリアがマルーシャにいう。


 それをマルーシャは相槌を打って、話に耳を傾ける。


「それでほら、見た目があんな感じじゃない。そういうコンプレックスを男子ってわかってないから、色々と面白半分にからかってさ」

「キョーコさん、かわいそう……」

「ところが、頭に血が上りやすくて手が先に出るタイプだったから、片っ端から、それはもうマジに殴りかかって喧嘩ばっかり。それが中学3年まで続いてたんだよ。信じられる? あたし、いっつもキョーちゃんについて回って喧嘩しないように言って聞かせてたんだけど、これがリン先輩に会うまでやめなかったんだから」

「それはまた血気盛んですこと」


 マルーシャはキョーコの武勇伝を一言で済ませてしまう。


「それを止めたリンさんもすごい人なのですね」

「そそ。どんな手を使ったのか知らないけど……」


 ミミリアとしては、この苦労性をわかってくれる人がいないものだから、こうして喋って発散しないと本当にキョーコや他の人を恨みそうで怖い。


「リン先輩の前では我慢できるけど、他の1年生となんか会った時にプッツンしなければいいんだけどね」

「キョーコさんもそこまで子どもではないと、思います」

「それはどうだろ?」


 ミミリアは目を細めていう。


「リンさんもいます。だから、心配しなくてもよろしいかと」

「ま、それもそうだね」


 深く考え込んでも、今に始まったことではない。


 ミミリアは気持ちを切り替えて、今後のことを改めて思い起こす。と、一つ重要なことを思い出す。


「それよか、そうそう、マルーシャ一つお願いがあるんだけど、いい?」

「急ぎでなければ、何なりと」


 マルーシャはそういって、ミミリアも、もちろんと力強く頷く。


「今週中でいいから、あたしの衣装のデザインもお願い!」

「衣装……? あぁ」


 マルーシャは一瞬戸惑ったが、ミミリアの立場を思い出して納得する。


「わかりました。やれるだけ、やってみます」

「ありがとー!」とミミリアは両手を合わせてウィンクする。

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