第2-6話:なんとか、頑張ります

 着替え終わったエリー・エリーナが格納庫に戻ると、鬼の形相でケイトレット・リーファンが歩き回っていた。


「あの、先輩……」


 エリーが恐る恐る近づいて話しかけると、ケイトレットは大股でしかも早歩きで近づいて来た。迫るほどに彼女から溢れる怒気に、エリーは足が竦んでしまった。


「ソフィ、知りませんか!!」

「い、いいえ。見てないです。本当ですっ」

「あの子はまったくっ! もう!!」


 ケイトレットはエリーの前で立ち止まり、行き場のない怒りにたまらず髪を掻き毟る。


「あの、出かけちゃったんですか?」


 エリーはゆっくりと横這いに荷物置き場のほうへ移動する。


 ケイトレットは苛立ったまま、駐機されている〔スーパーエイト〕の背中を恨めしそうに睨みつける。


「知りません! わたしがプログラムの成形を必死でしていたというのに、一言も……」


 血反吐でも吐き散らさんばかりに喉を唸らせるケイトレットに注意を払いながら、自分のカバンに手を伸ばし、ケータイを取り出す。


 このままケイトレットと二人きりでは、気が滅入ってしまいそうだ。


 誰でもいいからこの場に来て欲しくて、メールを打とうとケータイを開く。すると、そこにメール受信の通知があり、送信者の名前に血の気が引いた。


「あの、先輩。ソフィ先輩からメールが……」

「なんて来てますか!?」


 ケイトレットは声を荒げて振り返る。


 エリーはびくりと肩を震わせて、恐る恐るメールの文面を確認する。その文面を見て思わず小首を傾げる。


「えっと……。『あの取材の約束が取れたからちょっと出かけてきます』だそうです」


 エリーは文面にはまだ『ケイトレットと話すの面倒くさいし、それに察しがいいからこれだけ言っといて。』とあり、ますます怪しくなってきた。


 ケイトレットの怒りようを思うと、彼女たちはウマが合わないというのか、犬猿の仲というべきか、はたから見ていて不安になってくる。


 このようなメールでは、ケイトレットをさらに怒らせるだけだと思った。


 しかし、大声で怒鳴るものと予想していたが、ケイトレットは以外にも眉間にしわを寄せたまま、深いため息をつく。


「取材? 取材ですか……。それなら急用だと、一言言ってくれればいいのに」

「あの取材って?」


 冷静さを取り戻しただろうケイトレットはメガネの位置を直して、頭に手を置いて口を開く。


「アイのことで少し……。気になることが、あるものですから」


 言葉を選ぶような話し方だった。


 エリーは実直なケイトレットらしくない言い回しを不思議に思った。


「アイちゃんが何かしたんですか?」

「色々と不思議な子ですから。あの子も言ってますが、元プロレーサーのシンジロウ・シマカワの娘というのもどうにも……」

「アイちゃんが嘘をついているってことですか?」


 エリーはこればかりは先輩といえど、見過ごせない話だと思った。


 チームメイトを疑った目で見るのは嫌なものだ。そうした目が、どれほど辛いのかもエリー・エリーナはよく知っていた。


 ケイトレットは食ってかかる後輩に驚きつつも、理性的にいう。


「少なくとも何か秘密を抱えているのは明白です。彼女に聞いても、話してはくれませんし。そういう他人の秘密を探るのがソフィは好きですから、任せているだけです」


 秘密という言葉に、エリーはアイの傷だらけの体が思い浮かんだ。


「後ろめたいものではないと思います」

「そうあって欲しいから、今回ばかりはソフィの行動に協力しているだけです。三年の先輩たちはこういうこと好きではないし、できないでしょう? 適材適所ということです」


 ケイトレットも、チームのことを思って動いているのだ。


 ここまでとんとん拍子でマシーンの復旧が続いている。それはメンバーの頑張りがあってこそだと、ケイトレット自身は確信している。


 それでも、アイ・シマカワには目を光らせておく必要がある。整備不足の〔スーパーエイト〕で飛び出していった突発事項がまた起きてしまっては困る。


 加えて、アイを止めようともしなかった自分にも嫌悪感を覚えた。だから、少しでもリスクを軽減するためにも、アイのことをよく知らなければならないと考えた末の結果だ。


 しかし、エリーにしてみれば、ケイトレットの考え方にどうしても賛同できなかった。


「先輩が不安なのはわかりますけど……、だからってコソコソしてるのは、アイちゃんも気分悪いと思います」

「時間がないんですっ」


 ケイトレットが感情任せに怒鳴りつける。


 エリーはびっくりして肩をすぼませて、上目遣いにケイトレットの顔色を伺う。


 ケイトレットも、彼女の様子に「しまった」と、奥歯を噛み締めて首を振る。苛立ちを抑え、声量に気をつけながら口を開く。


「こういう性格ですから、仲良くなろうとも思わないでしょう?」


 エリーは否定しようとしたが、言葉に詰まった。


 感情的になりやすいために、彼女は努めて論理的に考えようとする。ただ否定するだけでは、彼女は納得しない。納得しようとは思わないだろう。


 お互い話が途切れて黙り込む。


 口を先に開いたのはケイトレットだった。


「ごめんなさい。忘れてください。エリーはエリーの仕事を全うしてください」

「遅れてごめんね」


 そこに杖をついて、リン・ブレックスがやってきた。


「こっちは順調?」


 それに対して、すぐにケイトレットが気持ちを切り替えた。


「問題ありです」


 早口で、少し語気の強い彼女の声だ。いつもの声だった。


 エリーはケイトレットに申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、リンを迎える。


「問題って? あら、エリーちゃん。そのアクタースーツ似合ってるわ」


 リンはエリーの姿を見て、楽しげに言う。


「あ、ありがとうございます……」


 エリーは改めて自分のきているモーションアクター用のスーツを見た。ウェットスーツのような素材で骨格をなぞるようにラインが引いてある。


 ケイトレットも横目に見て、少しばつが悪そうに髪を掻く。


「それで問題ですが……」

「あぁ、ごめんね。何だったかな?」

「シートに乗ってもらう予定だったソフィが別件で外に出ています。代わりに制御できる人が必要です」


 ケイトレットの言葉に、リンの顔がこわばった。


「誰かが〔スーパーエイト〕に乗らないとダメなんですか?」


 エリーの素朴な疑問にケイトレットは真面目に答える。


「アクセルやギアシフトをするのに、少し。あとは随時更新される車体情報を見てもらう必要があります。あたしの方からはモーションアクターのあなたと〔スーパーエイト〕の動きを可能な限り同調させることで手一杯ですから」


 そして、ケイトレットは改めてリンを見た。


「アイもキョーコも、ハルルもモトスパイクの調整に出てます」


 淡々と状況報告が彼女の口から流れる。それは暗に彼女にしかできないと言っているのも同じだ。


 それを察せないほどリンも呆けてはいない。どうにかチームに貢献できそうなことがあるのなら、と胸に手を当てて、深呼吸をする。


「わたしが乗るよ」

「先輩、大丈夫なんですか!?」


 エリーは驚いた。


 リンが事故で足を痛めてしまったことは知っていた。補助装置があるとはいえ、運転ができるのだろうか。それ以上に、怖くはないのだろうか、と心配になった。


「簡単な操作なら、多分。ヤーヴェンさんもこの作業には付き添ってくれるんでしょう?」


「はい」とケイトレットが返答する。


「だったら、ヤーヴェンさんに頼みましょう? リン先輩が無理することないですよ」

「心配してくれて、ありがとう。けど、やっぱりわたしたちの力じゃないと」


 リンの瞳が揺れているのを、エリーは見逃さなかった。


 それでも、彼女の意思は固まっているようだった。たとえ、不安に胸が張り裂けそうでも勇気を振り絞って立ち向かおうとしているのだ。


「申し訳ないから……」


 リンは座り込んでいる〔スーパーエイト〕に目を向ける。


 エンジンに火も入ってない冷たい鉄の塊。むき出しの骨格やカウルもない顔はまだマシーンとしての華もない。そうしてしまった責任がある。


 だからせめてもの罪滅ぼしに、と彼女は考えていた。


「では、すぐに準備します」


 ケイトレットは彼女のそうした心情を察して、電算室の方へ足を向ける。


「本当に大丈夫ですか?」

「エリーちゃんには迷惑かけないようにするから、お願い」


 エリーは歩き出すリンを引き留めることができず、彼女の背中を見ているしかできなかった。


           *     *     *


 レーシングスーツや整備用のつなぎも全て洗濯中ということで、仕方なしにリンは学校指定のジャージを着て、テストを行わなければならなかった。


 準備が進められ、ヤーヴェンを含めて整備工場のスタッフも数人手伝いに来てくれている。スタッフの人たちはあくまでも車体やモーションアクターのエリーのサポートであり、ケイトレットのプログラム作業などには手を課す様子はない。


 すでに〔スーパーエイト〕はアイドリング状態。車体を支えるハーネスのチェーンが震え、空気が震撼しているのを感じる。


 リンは聞きなれた〔スーパーエイト〕のエンジン音を聞きながら、背部にあるコックピットへ向かって、感覚の鈍っている足で歩いていく。タラップの手すりを掴んで、重たい足を必死にあげる。


 神経麻痺だけが原因でない。半年ぶりに乗ろうという緊張と不安がそうさせるのだ。


「腹でも痛いんじゃないのか?」


〔スーパーエイト〕のハッチの淵でヤーヴェンが手を差し出す。彼の声はエンジン音が響く中でもよく聞こえた。


「そうじゃないです。少し緊張してるだけです」


 リンはその手をとって引っ張り上げてもらいながら、一度淵にお尻をのせる。その硬い感触があることが救いのような気がした。


「少し変わってませんか?」


 ロールケージを掴んで、リンは声を張りながらコックピットの中を見渡す。


 半年前に乗っていた時とは雰囲気が違っているような気がした。大きなスクリーンの浴槽にバイクの胴体が支柱一つで支えられている。レイアウトは変わらないが、全体を支えるロールケージの位置や鋭い直線的なデザインになった天蓋部分などは、クラシカルな〔スーパーエイト〕本来の設計ではない。


「そっちの一年生のアイデアだ。スクリーンも新調してある」

「シートも新しい……」


 リンは恐る恐るシートの方へ手を伸ばし、ハンドルを掴む。あとは勢いに任せてお尻をシートに運び、弾むようにして位置を調整する。その度に、シートの支柱が沈んでは浮き上がる。


「大丈夫か?」


 ヤーヴェンがリンに顔を近づけて怪訝そうに尋ねた。


「少し不自由なだけです。つま先は動いてくれます」


 リンは手で足を運んでシートに跨り、つま先でシフトペダルを操作してみせた。しかし、軽快とは程遠い力んだようなアップダウン操作だ。


 それからハンドルをしっかりと握りしめて、体を左右に倒す。すると、シートも体に合わせて傾く。


 オートバイの操縦方法がそのままシートに組み込まれている証拠だ。


「ちょっと軽すぎませんか?」


 リンはシートを傾ける時の感触をいった。


「お前がテストをするというから、調整しておいた。足に体重、乗せられないだろ?」

「そ、そうでした。ありがとうございます」


 ヤーヴェンはそんな状態で大丈夫かと訝しんだが、リンの真剣な顔を見てはいう気にはなれなかった。


「そうか……」


 目の前の少女がかつて凄腕のライダーとして名を馳せていたことは、バルザックから聞いていた。そして、彼女の迷いも。


 リンがお尻の位置を直しているのを見て、ヤーヴェンはハンドルにあるタッチパネルに手を伸ばす。


「シートのクッションはこれで調整できる。行けそうか?」


 リンはシートに空気が入り、座り心地が変わるのを感じながら、重い足をステップにかける。


「なんとか、頑張ります」

「……そうか」


 ヤーヴェンは口の端を歪めながら、手に持っていた無線機のついたハーネスをリンに差し出す。


「無線と測定器だ」

「どうも」とリンは受け取り、慣れた手つきでハーネスに腕を通す。

「無茶はするなよ? レーシングスーツじゃないんだからな」


 ヤーヴェンは最後にリンの背中を叩いて、コックピットから離れる。


「やるぞ!」


 リンがイヤホン型の通信機をつけながら、ヤーヴェンの声を聞いた。


 それで気を引き締めて、グローブを引っ張り、ハンドルを握りなおす。


 コンソールを操作すれば、ハッチが閉じてスクリーンが展開する。四方の確認を行う中で、横手でスタンバイするエリーの姿が見えた。


 ハーネスをつけて、履いているローラースケートのつま先で床を叩く。彼女のいる床はオートウォークとなっている。俗にいう歩く歩道のようなもので、それがバレーコートほどの大きさで敷き詰められている。


〔スーパーエイト〕の駐機されている床も同じ仕組みで、彼女の立っているものの数倍の面積を持っている。


「先輩、エリー。準備はいい?」


 無線からケイトレットの声が聞こえて、リンはハーネスの留め具をしめつつイヤホンを押さえる。


「大丈夫よ。そっちは?」

「こちらも、大丈夫です」


 エリーがきょろきょろと電算室と〔スーパーエイト〕を交互に見やる。


 リンはハンドルを握り、胸をシートに押さえつけるようにして姿勢を低くする。それから、まだ緊張しているエリーを横目に見ながらいう。


「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。気楽にね」

「は、はい。頑張ります」

「先輩、いつでもどうぞ」


 エリーのこわばった声が心配であったが、ケイトレットの淡々とした業務連絡を受けてはリンも自分の仕事を優先した。


 アクセルを絞る。一度、二度、三度と絞る量を変えながら、タコメーターの針を確認する。


 ドッと全身が震え上がるような鼓動と爆音がこだました。操縦席の狭い空間に詰まった空気がリンの肌をチクチクと突き刺す。


「よし。大丈夫、大丈夫……」


 リンは自分に言い聞かせながら、ハンドルのボタンを押してゆっくりとクラッチをつなげていく。


 すると、〔スーパーエイト〕の目がつき、左右をぎこちなく確認する。頭部に集まった各センサーが周辺情報を洗い出しているのだ。


「この子の隣でやるんですか?」


 エリーは防音を兼ねているヘッドフォンを強く耳に押し当てながら、〔スーパーエイト〕の挙動を見守る。


 マシーンの排気筒から吹き出す熱風がすぐにも格納庫内の室温を上げた気がした。おまけにエンジンの轟音に混じってアクチュエーターの超電導モーターの高音が重なって、胃の底が揺さぶられる気分であった。


 いよいよ、〔スーパーエイト〕が足腰に力を入れて、車体を支えるハーネスのチェーンを掴む。そこからは腕部の力で車体を引っ張り上げながら、ゆっくりと立ち上がっていく。


「チェーンを巻いて、手伝ってやれ。オートウォークも準備いいな?」


 ヤーヴェンは立ち上がっていく〔スーパーエイト〕の背後を通って、電算室の方へ足を進める。


 途中、呆然と〔スーパーエイト〕を見上げるエリーが目に入り、無線機に怒鳴った。


「モーションアクターの! ぼーっとするな!」

「は、はい! すみません!」

「位置につけ。ばみり––って言ってもわからないか」

「立ち位置の目印です、よね? わかります」


 そういってエリーはオートウォークの中央線上にあるバツ印に立った。


 ヤーヴェンは彼女の動きを肯定しつつ、初心者だと聞かされていたために少し驚いた。


「よく知ってたな」

「バレエで少し……」

「なるほどな」とヤーヴェンは納得して、電算室のドアを開ける。


 そこにはいくつものモニタに囲まれて、データ解析から収拾の準備をするケイトレットがいた。


「プログラマー、そっちは?」

「いつでもいいですよ。〔スーパーエイト〕も位置につきました」

「よぉし! やるぞ!」


 やーヴェンが無線機に吠えると、手伝いをしてくれる整備工場のスタッフの野太い声もまた無線機のスピーカーを震わせる。


「こういうノリは苦手なんですけどね……」


 電算室に入るケイトレットはマイクを手で覆いながらぼやき、モニタに入ってくる情報に目を走らせる。


 そして、一呼吸置いてキーボードに細い指先をのせる。


「オートウォーク、始動します。リン先輩はギアを上げて、オートで走らせてみてください」

「わ、わたしは……」


 ケイトレットの指示にエリーが不安げに進言する。


 すると、足元が揺れてゆっくりと床のベルトが後ろへ流れていく。


「エリーはウォーミングアップです。ローラースケートの経験、ほとんどないんでしょう?」

「わ、わかりました。頑張って、みます」


 エリーは動き出した床にドギマギしながら、ゆっくりとローラースケートを履いた足を滑らせる。天井から垂れるハーネスに引っ張られる感じに、動きがぎこちなくなってしまう。


 背筋を伸ばし、つま先からすっとまっすぐに足を押し出す。それで滑ることは一応できていた。


 そして、横を見れば〔スーパーエイト〕が腰を沈めて、モトスパイクの車輪のみで滑走している。エンジン音は凄まじい轟音を響かせているが、速度は決して早くない。せいぜい時速60キロ前後だろう。


 その様子を見て、顔を歪めたのはヤーヴェンだった。


「これはヤバイな。特に––」


 ヤーヴェンの視線は踊るように滑るエリーに向けられた。


〔スーパーエイト〕に関しては、メカニックマンとして改善案を見繕うことはすぐにでもできる。


 しかし、モーションアクターに関しては彼も専門外である。


 エリーの体幹や挙動の滑らかさは、ダンサーやプリマとしての素質を十分に持っているだろう。だが、アスリートとしては難点だらけだ。


 オートアスリートは競争だ。求められるのは最高時速を叩き出すスプリンターの動きと、長距離を走るランナーとしてのバランス感覚、そして、どんなコーナーも制するスピードスケーターの重心制御だ。


 その全てを今のエリーに要求したところで、いっぺんにこなせるはずもない。どんな一流アスリートでも、オートアスリートで必要な要素を一人で100%引き出せる者はいないだろう。


 足場が違う。使う筋肉も呼吸も違う。だから、マシーンそれぞれに得手不得手が出てくる。


 しかし、このままでは無難にまとまったこぎれいな走りをするマシーンで終わってしまう。


 ヤーヴェンは少し悩んでため息を飲み込み、無線に呼びかける。


「マシーンは次のギアにあげて、走行姿勢をとってみせろ。モーションはその走りをよく見ておけ」


 それが最善策だと彼は判断した。


「まだデータ不十分です」


 そこに、ケイトレットの声が響いた。


「十分だ。時間もないんだろ? さっさとしろ」


 ヤーヴェンは頭ごなしに言って、リンを急かした。


「わかりました。この––っ」


〔スーパーエイト〕のシートに跨るリンはアクセルを開けながら、シフトペダルにかけているつま先に集中する。


 足全体の感覚が鈍い。目一杯の力を込めて、足先をちょんと動かす。


 その先が問題であった。


 ギアが上がる。しかし、という足からの反応が薄過ぎた。


 金属の擦れる甲高い音とともに、胸を打つようにシートが弾んだ。


「んっ。回転が足りてない」


 リンはタコメーターを一瞥して、一気に落ち込んでいく針先に呻いた。


〔スーパーエイト〕の膝が沈む。それをハーネスが無理矢理に支えて、転倒を防止する。


 リンの視界に高速で流れる床が目に入った。その瞬間、事故のことが脳裏を駆け抜けた。爆発しそうなほど心臓の鼓動が大きくなった。


 しかし、それよりも早く彼女の手がクラッチとアクセルでエンジンとギアボックスとの齟齬を修正して、安定させる。


〔スーパーエイト〕も足腰に力を込めると、腕を振ってその長い脚部で走り出す。大股で床を蹴り、わずかに上体を屈ませる。


「リン先輩! 大丈夫ですか!?」


 隣で見ていたエリーが叫んだ。


「な、なんとか……。ごめんね。大丈夫。テストは続けられるから」


 リンはかぶりを振って、息を整える。頭が急に沸騰したように熱くなり、汗がどっと吹き出してきた。


 その身体データは彼女が身につけている装置によって、ケイトレットが見ているモニタに反映されていた。


「心肺機能は許容範囲内。やっぱり半年前のように冷静ではいられませんか」


 リンの状態は軽いパニック状態にあったが、徐々に平常心になりつつある。


 五体満足であったなら、マシーンの操作ミスで一喜一憂することもなかっただろう。


 ケイトレットは髪を掻きながら、このまま止めるべきかと悩んだ。


「なら、もう一段上げろ。モーションは、〔スーパーエイト〕の動きをマネろ。電算室いいな?」


 悩んでいるケイトレットの元にヤーヴェンの声が響いた。


「わかりましたっ。できるんですね?」

「なにイラついてるんだ! 文句あるのか?」


 ケイトレットのヒステリックな喋り方に、ヤーヴェンが怒鳴る。


「イラついていません。こういう喋り方なんです! 仕事はしますよ」

「……そういうことにしてやる。だが、俺に舐めた態度は二度とするな。いいな?」


 わかりました、とケイトレットは返事をしながら、自分の仕事に打ち込む。


 プライドの高い人だ、と内心怒りを覚えながらその矛先をタイピングで発散する。素早い指先の動きで、ソフトを起動して〔スーパーエイト〕とエリーの動きの同期と修正プログラムをパソコンのスペックを最大限に活かした並列処理でこなしていく。


 ケイトレットからの指示が途絶えたのを察して、リンは横手のモニタに映るエリーを見た。


「エリーちゃん、よろしくね」

「は、はい。頑張ります……」


 エリーはリンの声にハッとなって、ステップが乱れる。しかし、すぐに体勢を立て直すと優雅な挙動で走り出していた。


 リンは彼女が初めてのことばかりで緊張しているものだと思った。


「リラックして、ね? ゆっくりで行こう」

「はい。頑張ります」


 エリーがインコのように同じ言葉を繰り返す。


 と、そんな彼女に〔スーパーエイト〕がちらりと頭部を向ける。そのセンサーアイの表示がウィンクをして、マニピュレーターもグッと親指を上げる。


「よし! 頑張ろう!」


 無線から聞こえるリンの優しい声。


 機械がむき出しのマシーンでありながら、エリーにはその表情が柔らかくあたたかみがあると思った。人が乗っているのもあるだろう。人に似ているからというもあるかもしれない。


 だが、それ以上に一緒の目的に向かっている一体感が心地よい。


「はい!」とエリーの声にも嬉々とした明るさが戻ってきた。


 大きな機械のアスリートと小さな人のサポーターは走る。一挙手一投足を気にしながら、レースに通じるフォームを模索していった。


 


 

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