第2-5話:そ、そうなんだ。そうなんだ……
「テメェ、さっさと着替えろよ!」
「そんなに怒らないでください、先輩。洗濯物が終わったらやりますよ」
『ヤーヴェン整備工場』のロッカールーム。事務所の横に佇むそこは、シャワールームが併設されており、脱衣所にはずらりと洗濯機が並んでいる。普段は女性社員用の個人ロッカーであり、アイとキョーコは間借りしているのだ。
洗濯カゴいっぱいのバスタオルをアイは洗濯機に放り込んで、蓋を閉める。
キョーコはレーシングスーツの袖に手を通しながら、アイの様子を伺う。
「雑用だろ、それ」
「けど、やっといてって事務の人に言われましたもん」
「着替えてからにしろよな。今日はモトスパイクの調整なんだから」
「楽しみなんですね」
アイは笑って、洗濯機のボタンを押す。
すると、キョーコは白い肌を赤くして、レーシングスーツの下っ腹あたりにあるファスナーを一気にあげる。
「そんなんじゃねぇよ。時間が惜しいだけだって」
アイはそんな彼女の横を過ぎて、自分が借りているロッカーに向かう。
ロッカールームは縦長のロッカーが壁に並び、対面している。その間に足の短いベンチがあり、そこにはキョーコのヘルメットとグローブがある。
「だったら、早めに計測の準備しておいたほうがいいんじゃないですか? ハルルも遅くなるって聞きましたから」
「ハァ? 先輩にそういう準備させんのか?」
キョーコは不満げに眉を寄せている。
アイはそんな彼女にヘルメットとグローブを押し付けて、イタズラな笑みを浮かべる。
「そういって先輩がサボるんでしたら、リン先輩やチィ先輩に言いつけちゃいます。全然仕事しないんですーって」
その一言にキョーコは肩を震わせて、唇を曲げながらヘルメットとグローブを受け取る。先輩たちからの評判が落ちるのが怖いというより、初めての後輩にどう言い聞かせてやればいいのか、わからなかった。
彼女も2年生になって先輩の立場になったが、アイや他の1年生たちとの距離感が掴めないでいた。
「わーったよ。すぐに来いよ?」
「もちろんですっ」
アイは明るい笑みを見せる。
キョーコはその顔に邪念のようなものは感じられず、しぶしぶロッカールームを出ようとして、一度振り返る。
「すぐだぞ!」と念押しをして、キョーコは自分を見送る後輩に背を向けて出て行く。
「…………よし」
アイはキョーコの足音が遠ざかっていくのをしっかりと耳で確認してから、ふっと短く息を吐いた。
「さて、と」
アイはそそくさとロッカーを開けて、インナーやレーシングスーツを確認する。
それから素早く手慣れた手つきで制服を脱ぎ始める。彼女に焦りはなかった。とにかく平常心に、テスト走行に向けて気持ちを整えていく。
ウーウーと洗濯機の駆動音と水の弾ける音。その音色は心地よく、一定のリズムがアイの心音を落ち着ける。
と、脱いだ制服をハンガーにかけたところでドアノブがガチャッと音を立てた。
予期せぬ音にアイははたと我に帰る。とっさに仕切りのカーテンを見ると、着替えを抱えたエリーが顔を覗かせていた。
「アイちゃん、どうしたの? その……」
エリーは驚きから、アイの体から目が離せなかった。
アイの表情も固くこわばる。どうしても、着替えているところ見られたくない訳があった。
「あ、はは……。エリーこそどしたの?」
「え? キョーコ先輩に日傘を届けて、それでわたしも着替えで……」
アイは取り繕うように笑うも、エリーの目から驚きと困惑が消えることはなかった。。
「そうだよね」と小さく呟き、自分の体を今一度見た。
年頃の女の子とは思えない数々の傷跡や縫い跡が残る体。背骨に沿って走る縫い目や切り裂かれたかのような横腹の傷跡、お腹にも小さな傷が残っている。
医療技術が進んでいる彼女たちの世界にあって、傷跡を隠すことは難しい技術ではない。それがハッキリと肌に残っている光景を、エリーはこれまで知らなかった。見たことがなかった。
「傷のこと? そんなに驚かないでよ」
アイは明るい笑顔で言って、さっさとインナーを着込んだ。
「ちっちゃい時の怪我で残っちゃっただけだから」
「そ、そうなんだ。そうなんだ……」
エリーは自分に言い聞かせるように繰り返して、恐る恐るアイのもとに歩み寄る。
だが、レーシングスーツを着る彼女は不思議そうに首をかしげる。いつもの笑顔のまま。
そのことが余計にエリーの目の奥で、生々しい傷跡が浮かぶ。
「でも、やっぱり、アイちゃんも女の子だし、嫌じゃないの?」
「ううん……。ちょっとだけね」
アイはそういってブーツを履き、立ち上がる。
後ろめたい雰囲気はなかった。傷を見られたことへの不快感よりも、別のことに彼女は不安を抱いているようだった。
それをエリーが察するには、まだ関係と知識が浅かった。
「大変だよね。大きな怪我だと、人工内蔵とかにしてたりするものね」
その言葉にアイの表情がこわばり、グローブをする手に力がこもる。
「そうだね。定期検診を受けるのも面倒臭いよ。けど、そのおかげでライダーをやれる」
アイは立ち上がって、ヘルメットを抱える。
それから、エリーの肩を叩いて横切る。
「エリーも頑張って。応援してる!」
「うん。アイちゃんも」
エリーは振り返って、アイの背中を見送った。
その肩に残るアイの手の重さに心まで重くなる。本当は何か不安があるのではないだろうか、と想像が膨らんでいく。
何かを隠している。しかし、それを聞きだせるほど、エリーも勇気がない。
オートアスリートのプロライダーになるために前進する彼女を前にしては、エリー・エリーナという少女はあまりにも覚悟も才能もない。
エリーは自分の抱えているモーションアクター用のスーツを悔しげに強く抱きしめることしかできなかった。
* * *
テストコースのそばには、吹きさらしのピットがある。
「これ、使えるのかよ?」
キョーコは日傘を手に、レンタルしたマシーンの鎮座する姿を煽り見る。
レンタルマシーンの〔オーステン〕はシャシーもエンジンも改造されていない市販車である。脚部は〔スーパーエイト〕に比べれば短く、体も大きい。正面から見ると乗用車というよりトラックのような印象が強い。
パワーと重量はあるが、スピードを出す車両ではない。
「おまけに……」
キョーコは〔オーステン〕の装甲を撫でて、ザラザラした感触を覚える。
指先を擦り合わせれば、赤茶けた粉が落ちる。
「錆ついてる。市販のカウルならこうもなるだろうけどよ」
〔オーステン〕の装甲には無数の擦り傷があり、そこから錆が出ていた。運転には支障はないだろうが、キョーコは不安を覚える。
「これが整備工場の仕事かよ」
練習用に1台回してもらえるだけありがたいと思いたいが、仮にも整備工場のマシーンが錆びついているというのは、キョーコにとっては釈然としないことだ。
「どもども、お待たせー」
そこに制服姿のままのハルルが、二台のモトスパイクを連れ立って合流する。
「遅せぇぞ。何してたんだよ?」
「これの準備だよ。新品同様でしょ?」
「見てくれはな」
キョーコは足元にあるスタンドを手にして、二輪で自立するモトスパイクに近寄る。
モトスパイクは単体でも充電式の電気自動二輪車とほぼ同じ性能だ。何より、前後左右に取り付けられているセンサーによる動作認証や地形把握、加えて自立制御を備えた簡易AI技術を搭載している。モトロイドに近い設計思想だろう。
見た目はフルカウルのロード仕様バイクだ。違いがあるとすれば、エンジン部分がコンパクトになり、前輪を支えるフロントフォークと後輪を支えるスイングアームが傾斜をつけて車高を低くしている点だ。
「ロード仕様だけか?」
キョーコはスタンドを置いて、二台のモトスパイクを立て掛ける。
それに合わせて、ハルルがハンドルのアクセルを捻った。甲高いモーター音がなった。その音にハルルは頷いて、屈んで車体を念入りにチェックし始める。
「第2ステージ分は明日には上がりますよー。今日は、この子たちの調子を見ておきたいって」
「なるほど。で、フィッター志望としての見解は?」
「走ってみないことにはわからないかなぁーって」
ハルルの気の抜けた返事に、キョーコは肩を上下させる。
フィッターとは、モトスパイクを専門に扱う技術者のことだ。車体に適した整備をして、装着させる。人間でいえば、シューズフィッターのようなものだ。
モトスパイクだけを整備して入ればいいという訳でもなく、車体のコンディションやパフォーマンスを把握していなければならない。かといって、メカニカルな知識を総動員するものではない。
彼女はより動的にオートアスリートを観察して、その走りをより良い方向に導く。
「贅沢言ってらんねぇだろ。こいつ、借りるぞ」
キョーコは腰にぶら下がっているヘルメットを取って、一台のモトスパイクのシートに乗せる。そして、ヘルメットの側面からケーブを取り出して、ハンドルにある接続口に繋げた。
ハルルも一台目の点検を終えて、膝を伸ばす。モトスパイクを挟んで、キョーコと向かい合う。
「どうぞどうぞ。モーターとタイヤ、温めといてー」
「その間の抜けた喋り方、直せよな。こっちまで気が抜ける」
「気をつけますねー」
ハルルは爽やかに笑って、キョーコに手を伸ばす。
キョーコは口を尖らせて、日傘を渡す。それから、レーシングスーツに長い髪を仕舞い込んで、ヘルメットを被る。
「ウォームアップしてるうちに、そっちのマシーンの外装はずしておけよ? サビだらけとか、カッコがつかねぇ」
「へー、裸が好みなんだ」
「ちげぇよ、バカ!」
キョーコは乱暴にいうと、バイザーを下ろす。
バイザーには、モトスパイクのタコメーターやバッテリー残量を示すホログラムが表記されている。半透明とはいえ、目の前に計器類が浮かんでいるのはどうにも目移りしてしまう。
「メーターの光量、ちょっと高くねぇか?」
キョーコが不満げに言いつつ、モトスパイクに跨る。爪先立ちの状態で、ハンドルのグリップの握りを確かめる。
ハルルはその様子を横目に日傘の柄を肩にかけて、後ろに回り込む。
「普段、サングラスなんかしてるからでしょー」
「んなわけあるかよ。まぁ、軽く走ってくる」
「こっちの作業が終わったら、計測させてね。それじゃ、どうぞ」
ハルルがスタンドを取り外すと、浮かんでいた後輪が地面につく。
それに合わせて、キョーコはゆっくりと発進して行った。
コース長、2キロにも満たない短い道のり。ピット正面のメインストレートが最長の直線コースであり、残りは教習所のような手狭で教科書通りの道ばかり。ヘアピン、スプーン、S字のカーブを繋げて、メインストレートに繋げる。
「物足りねぇな、やっぱ」
ピットレーンを走りながら、キョーコはぼやく。ピットレーン・リミッターでいくらアクセルを開けても、速度は一定に保たれている。バイザーに映るタコメーターやリミッター作動中のランプが煩わしい。
だが、一度コースに出てしまえば、キョーコもハンドルにあるリミッターボタンを解除して、モトスパイクを加速させる。
だが、超電導モーターの駆動では静かで手応えが薄い。
キョーコの操るモトスパイクは軽々と時速200キロを叩き出し、傾斜のかかった第1コーナーを高速で走り抜けていく。
キョーコも体を投げ出す気持ちで車体を傾けさせて、クリアしていく。しかし、モトスパイクの軽さやエンジン音の小ささにキョーコは不安だった。
「軽いと、やりにくいんだよな」
車体よりも自分の方が重いのではないか、と思えるほどモトスパイクはよく傾く。力加減を間違えれば、即座に地面に体をぶつけることになる。
その加減を知るためのエンジン音も小さいと調子が掴みづらい。モーターの回転数が上限一杯に回っていても、その音はほとんど変わりない。これがオートアスリートなら爆音のようなエンジン音のリズムで回転数やコンディションを把握できるというのに。
それはピットにいるハルルも同じである。
「大丈夫かなー」
第1コーナーを過ぎたところで、キョーコの後ろ姿は見えなくなった。
テストコースとはいえ高低差やタイヤを積み重ねたバリケードなどの障害物があっては目で追いきれるものではない。
「コース見ててもつまらないし。さっさと、仕事しよ」
ハルルは日傘を畳んで、キョーコからの仕事に取り掛かろうとした。
「ハルルー! もう来てたのー!?」
快活な声にハルルは事務所の方に目を向ける。そこには駆け寄ってくるアイが見えた。
「うん。さっき来た」
「あれ? キョーコ先輩は?」
「先輩なら、これのウォームアップに出てるよ。それからこれのカウル外せってさ」
ハルルは〔オーステン〕を指差していう。
アイはダブダブのレーシングスーツの袖口をグッと引っ張りながら、残っているモトスパイクと〔オーステン〕を見比べる。
「わかった。ちゃっちゃか外そう! そしたら、あたしもウォームアップに出るから」
ハルルはそれを了解して、アイとともに作業に取り掛かった。
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