第1-5話:無理なんかするから

〔スーパーエイト〕は風を受けて、とにかく浅い呼吸を繰り返すようにエンジンを回し続ける。


 街角を曲がるのに車体を少し傾けただけで、ひざ関節から赤い静電気が溢れる。帯電テープが人工筋肉を締め上げているが、電圧で膨れた繊維に耐えきれず破れ始めていた。


 それでも〔スーパーエイト〕は閑静な住宅街を走る。


「アイちゃん、場所はわかりそう?」

「はい。大丈夫です!」


 シートに跨るアイはチィからの無線に返事をしながら、アクセルを開ける。そして、シフトギアを上げようとした。


 が、上げた瞬間、ガクンと視界が傾いた。シートが右に倒れる。警報が鳴った。


〔スーパーエイト〕の右膝が崩れて、危ういバランスで走る。車道の中央線を上半身が超える。


 アイは瞬時にギアを下げて、アクセルを調整。左のステップに体重をかけて、姿勢修正を行う。


 それで〔スーパーエイト〕の右脚部は踏ん張りを取り戻して、中腰の姿勢のままモトスパイクの駆動に任せて走る。


「よっと。それにしても、ソフィ先輩ってすごいです。誘拐犯の足取りをすぐに見つけちゃうなんて」

「そ、そうだね……。ちょっと謎だけど」


 チィの不安げな声をアイは不思議に思った。


「そうですか? 会った事ありませんけど、チィ先輩のチームメイトですもん。チィ先輩が信じる人なら大丈夫です」


 アイが素直にいうと、無線からは「ありがとう」とチィの言葉に詰まった返事がした。


 リンが誘拐されて不安で仕方ないのだとアイは思った。


「安心してください。あたしが何とかして、リン先輩を連れ帰ります!」

「何とかって?」

「何とかです!」


 アイの曖昧で、信念のこもった声。


 できるかどうかなどアイ自身もわからない。だが、『先輩を助けたい』という気持ちは本当だ。


 アクセルを捻る。


〔スーパーエイト〕が大きく吸気口の空気を吸い上げて、エンジンを回転させる。


 すると、カタカタと嫌な音がアイの耳に入ってくる。コンロッドか、スーパーチャージャーか、発電機のケースか。どこかしらに過負荷が掛かっている音だ。


 人間でいえば動悸も同じだ。このまま走り続ければ最悪、発動機とギアボックス、エンジンを含んだ動力機関に致命傷を負わせることになるかもしれない。


 そんなことは音を直に聞いているアイがよくわかっていた。


「何とか、します」


 アイの胸に伝わる今にも止まりそうな心音に、心を痛めながら思う。


 誰かを助けるために走るのなら、〔スーパーエイト〕も力を貸してくれるはずだ。身勝手な想像だとしても、そう信じたかった。


 アイはナビゲーションに従って、目の前に迫る十字路を左へ曲がる。


〔スーパーエイト〕は減速していたが、ガクンと膝から崩れて左腕部が道路についた。それを軸に、車輪の回転を利用して小回りに左折。左腕部の力でどうにか態勢を立て直し直進する。


 その瞳に光はなかった。だが、心臓と脚部はまだ折れてはいない。


「頑張って、お願い」


 機械に共感や感応、同情などない、と誰かは言うだろう。


 それでも、アイはこの〔スーパーエイト〕に感謝を忘れなかった。搭乗して、肌を重ねて思う。


 自分の気持ちが〔スーパーエイト〕に伝わっている。


 そして、〔スーパーエイト〕の苦しさと頑張りを感じる。そうできるようにしてくれた人たちのことも。


「リン先輩だってわかってるはずなんだ」


 リンの苦痛の顔。


 ガレージから走り出す直前の彼女は自責の念に駆られて、逃げ出したい人の表情をしていた。


 アイはそんな人の顔を見るのが嫌だった。


「だから、取り戻しに行くよ。だから、〔スーパーエイト〕頑張って!」


〔スーパーエイト〕のガタガタと伝わる振動が強くなる。


 それでも、マシーンは走る。自分の限界を越えようとするように。


       *      *      *


 街外れの静かなコンビニの前は、バイクの一団とオートアスリートがたった一台のサイドカーを包囲していた。


 その筆頭のオートアスリート〔シュバルツ・レパード〕が上体をひねって、背部ユニットをキョーコとリンに見えるようにした。


〔シュバルツ・レパード〕の嘲笑うようなアイドリング音が、不気味に聞こえてくる。


「誰……?」


 リンはキョーコに囁いたが、彼女の耳には届かなかった。


 キョーコの顔は見えなかったが、グッと力拳を作る彼女の仕草を見て胸がざわつく。


〔シュバルツ・レパード〕のハッチが開くと、乗っていたライダーが立ち上がった。レーシングスーツをきた長身の男で、フルフェイスのヘルメットを取れば、端正な顔立ちと攻撃的な明るい赤色の髪が露わになる。


「お前、この辺をうろうろしてるカワアイの奴だろ?」

「だったら、どうしたよ?」


 ライダーの質問に、キョーコはふてぶてしく答えてみせた。


 すると、ライダーの青年は青筋を立てて、キョーコを睨んだ。


「お前らんとこの集金活動、そろそろやめてくれないか? ほとんどチームとしての運営はしてないって聞くぜ?」


 キョーコは舌打ちして、貧乏揺すりを始める。


 リンはその様子を見て、思わずサイドカーから体を乗り出して彼女の袖を掴んだ。


「キョーコ、そんな挑発にならないの!」

「わかってるッス。問題ないッス」


 そうは言いながらも、キョーコの苛立ちは側から見ても明らかだ。


「悪いクセが出てる。他の人たちもなんなの?」


 リンは周囲を見渡しながら、サイドカーの淵を支えにどうにか地面に降り立つ。


 バイクに乗る人たちは、キョーコを恐れているのか静観を決め込んでいる。


 それよりも、リンには〔シュバルツ・レパード〕に乗るライダーの言う『集金活動』が気がかりだった。


「ちょっと事情がよくわからないのだけど、この子が何かしたの?」


 リンはライダーの青年に向かっていう。


 すると、ライダーの青年は一瞬煩わしそうな表情を見せたが、すぐに顔を色を変えてリンをまじまじと見つめた。


 確認する視線だった。彼の目が確信を得たように瞬いて、口元もわずかに緩んだ。


「リン・ブレックス、か。あの事故で怪我をしたと聞いていたが、その有様だともうレースは無理みたいだな」


 リンは悔しさに奥歯を噛みしめる。


「どうして、わたしのことを知ってるの?」

「有名人だからな。もっとも、そうなる前からオレはアンタがウザいと思ってたがよ」

「負け犬にしちゃあ、よく吠えるじゃねぇか? ハーマン・ヒューズ」


 青年、ハーマンの悪口にキョーコが苛立った声で割って入る。


 リンは覚えのない名前だっために、二人の顔を交互に見やった。


「実力じゃ勝ち目がねぇからって、アタシらのスポンサーに脅迫して回ってよ。何様のつもりだ?」


 キョーコの口から出てきた事柄に、リンは頭を殴られたような衝撃に足元がふらついた。


 キョーコが苛立ちを露わにするのも、今ならわかる。そんな卑怯な手を使って、チームを、それどころか応援してくれている人たちまで危害を加えるハーマンのやり口に、怒りがこみ上げてくる。


「イキがるなよ。二、三人吊るしたくらいで止まると思うか? それどころか、悪評がついてるらしいじゃねぇか?」


 ハーマンは突っぱねるように言って、キョーコを指差す。


 リンはハーマンとキョーコの顔を交互に見やる。二人の間でせめぎあう圧迫感。この感触をリンは知っていたから、キョーコに厳しい視線を向けた。


「キョーコ! あなた、また人を殴ったの?」

「っせぇ! 先に仕掛けてきたのは向こうだ。文句あるか!?」


 頭に血が上ったキョーコが振り返って、勢い任せに怒鳴った。


 しかし、その先でリンの真摯な眼差しに射すくめられる。水をかぶったようにキョーコから闘争心が消えていく。


 リンは何も言わず、視線を外すと足の補助装置の出力を調整して、サイドカーから離れる。


「先輩っ!」


 キョーコはリンを止めようとしたが、その手は途中で止まってしまった。


 ふらふらとどうにか足でリンは〔シュバルツ・レパード〕の前に出る。足が震える。内股になって、どうにか直立する。


 そんな彼女をキョーコは止められなかった。以前にも、同じような状況になったことがあった。その時の再現をしてしまっている。もうしないはずの過ちを繰り返してしまった。その自己嫌悪にキョーコは立ち止まってしまう。


 リンは頭で目一杯に足に力を入れる命令を下しながら、ハーマンを見上げる。彼の目が怒り一色であっても、リンは目を背けない。


「あなたの仲間を傷つけたこと、本当にごめんなさい」


 リンは頭を下げようと腰を折ったが、途端に膝が崩れて両膝をついてしまう。両手を地面につく。


 一瞬、ハーマンたちは呆気にとられたが、誰かが吹き出す。その笑いがハーマンたちの間に伝播して、次第に〔シュバルツ・レパード〕の平坦なエンジン音よりも甲高く大きくなった。


「どうした? そこまでの誠意はいらないんだけどよ!」


 ハーマンが心の底から笑いながらも、顔もあげられないリン・ブレックスに怒りを募らせていった。


「リン先輩……」


 自分が情けない、とキョーコはただ拳を握りしめる。


 リンのように相手に頭を下げることができない。当然だ。彼らはチームのスポンサーたちに危害を加えたのだ。それの報復をして、何が悪い。


「わたしのせいなんだから……、せいなんだけど……」


 リンは口の中でモゴモゴと不満を噛み砕く。


 事故さえ起こさなければ、こんなことにはならなかったはずだ。全部自分のせいだと言い聞かせれば、我慢できる。


 できるはずなのに、心臓は悔しさにねじ切れそうだった。この場を穏便に収めるために、この場で限りのことだと頭に言い聞かせても、感情の昂りは収まらない。


「わたしは……」


 目に涙が溢れてくる。足に力が入らない。悔しさに胸が張り裂けそうだった。


 もう立ち上がれないのか。こんなところで終わってしまうのか。


 自問する彼女の耳に、大きくなってくる音が聞こえてきた。叫び声のようなエンジン音。苦しげで、今にも壊れてしまいそうな危うさを持っていながら、不屈の力強さを肌で感じる。


「なんだ?」


 ハーマンが接近してくる音を警戒して、シートに収まりハッチを閉じる。


 彼の仲間のバイクたちも慌てて、エンジンをかけて散っていく。駐車場で動き出す彼らの動きは無軌道だ。


 そこにフレームむき出しの〔スーパーエイト〕が減速しながら進入して来た。


「ムムッ。リン先輩、見つけました。チィ先輩––、あれ? 無線が切れてる」


 アイは〔シュバルツ・レパード〕の側で膝をつくリンとそれに近づくフードの人影を確認する。それから、アクセルを慎重に開け、車体を慎重に進めながら、水温計と油温計を一瞥する。針が適正温度を超えていた。


「よく頑張ったね。偉いよ」


〔スーパーエイト〕は関節から熱風を吐き出しながら、リンに近づく。


 しかし、その行く手を〔シュバルツ・レパード〕が遮る。


 アイはブレーキをかけて、ギアをニュートラルに入れる。どうにか〔スーパーエイト〕を直立姿勢で停車する。


「何なんですか? もうっ」


 シートでヘルメットを脱ぎながら、アイはハッチを開ける。


 そして、ステップを踏んで立ち上がると、〔スーパーエイト〕の肩越しに〔シュバルツ・レパード〕を睨んだ。


「すみません。そこ、どいてくれませんか?」


 彼女の申し出に、無機質な赤い単眼は首を振るように横に揺れた。続いて、車体を捻って背部ユニットを見せるとハッチが開いた。


 ハーマンが姿を晒しながら、威嚇するようにして〔シュバルツ・レパード〕のアクセルを鳴らす。


「そのマシーン、〔スーパーエイト〕か?」

「そうですよ。悪いですけど、あたし、人を迎えに来たんです」


 アイはハーマンに言い放ち、〔シュバルツ・レパード〕の足元を見た。モトシューズが1メートルとない距離で、リンともう一人の人物に迫っていた。


 彼女にはハーマンの意図がわからなかった。このままでは、〔シュバルツ・レパード〕の足が2人を轢き殺してしまう。


 さらに悪いことには、リン・ブレックスがフードの人物が無理矢理に彼女を起こしてサイドカーの方に連れて行こうとしている。


「先輩、こっち来てくださいよ」


 キョーコがリンのお腹に手を回しながら、コンビニの方に引っ張る。


 リンは補助装置の出力を上げて、無理矢理に立ち上がった。


「先輩!?」とアイは慌てて叫んだ。

「そうかよ。そいつは悪いことをしたな。目も消えてる状態で」


 ハーマンは〔スーパーエイト〕の肩越しにわずかに見えたアイの制服を確認して、確信する。


 カワアイ工業高校の〔スーパーエイト」だ。それも満足に整備できていない、カウルもない裸同然のマシーンだ。もはや、レースに出れるだけの力などない。


「だが、念には念を入れる」


 ハーマンはシートに戻るなり、すぐにクラッチを繋げる。


 アイの注意はリン達に向けられている。〔スーパーエイト〕が動く気配など微塵もない。


〔シュバルツ・レパード〕がモトシューズのタイヤを回転させて移動する。ランニングでも始めるような軽いステップで、〔スーパーエイト〕の横を過ぎようとする。


 その手が迷いなく〔スーパーエイト〕の肩に伸びていく。


「アイちゃん、下がって––!」


 リンはキョーコを振りほどいて叫んだ。


 だが、次の瞬間〔シュバルツ・レパード〕のボディタッチが〔スーパーエイト〕の肩を弾く。


〔スーパーエイト〕が傾き出す。


 それをあざ笑うかのようにして、〔シュバルツ・レパード〕とバイクの一団は去っていく。


「うわわ、バランスが––」


 アイは慌てて、シートに戻ろうとした。


 今の〔スーパーエイト〕は自律均衡機能を持ってしても、自らバランスを保つことは難しい。システムが働かないのではなく、働けないほど車体の方が脆弱になっているのだ。


 ゆえに、〔スーパーエイト〕は咄嗟に脚部を入れ替えるようにして、バランスを保とうとする。交差するバイクの靴であるが、膝や股関節に十分な圧力が入らず、がっくりと崩れる。


 その衝撃はアイの小さな体を吹き飛ばすことなど容易であった。


 アイは視界にくるりと映り込んだ午前の青い空に目を見張った。浮遊感に全身が震え上がる。地面に引っ張られる感覚が体を強張らせる。


「––ッ!?」


 リンは倒れていく〔スーパーエイト〕から放り出されるアイを見て、腰にあるスイッチを押した。


 彼女の足に激痛が走ったと同時に、リンは全速力で走り出していた。


「リン先輩! クソッ」


 キョーコも遅れて、走り出す。


 リンの走力は桁違いに早く、倒れていく〔スーパーエイト〕の脇をあっという間に過ぎた。


 リンの瞳は落ちてくるアイの背中を捉えた。そして、落下地点を予測する。


「ここだ!」


 リンは腰を無理矢理にひねって、背面跳びの要領で跳んだ。


 迫ってくるアイの背中と〔スーパーエイト〕の暗い頭部。オートアスリートの車体が少女2人に覆いかぶさろうとしていた。


「間に合え––、アタシ!」


 キョーコも慌てて走るが、それよりも早く〔スーパーエイト〕の帯電テープが剥がれたボロボロの両腕が地面をついた。


 その衝撃にリンたちの体が弾んだ。


 リンはアイを抱きとめられたものの、抱きとめた痛みと足の激痛に顔を歪ませていた。


 だが、それ以上にリンは〔スーパーエイト〕の霞んで映る瞳から目を離せなかった。


「〔スーパーエイト〕……」


 アイも同じであった。


〔スーパーエイト〕の瞳は、機体の状態を伝えるためのサインライトだ。電子の砂嵐の中で光る警告の黄色の目は本物ではない。


 しかし、その目は苦しげな色をしていない。関節のモーターが悲鳴のような音を上げて、人工筋肉がぶちぶちと切れていこうとも、汗のようにマシーンの各所から冷水が漏れ出そうとも、危険信号の赤色の目を見せない。


 リンはそのノイズの激しい瞳に胸が震える。


 デジタルモニタが涙に潤んだように揺れ、吸入口とマフラーの今にも切れてしまいそうな呼吸と過剰な熱量で耐えられなくなった熱気が伝わってくる。


 こんな状態になってまでも走ってきた。まだ走れると訴えかけるように。


 大丈夫だ。早く逃げろ、と諭すようにマシーンの瞳が語りかけてくるような気がした。


「何やってんだ!」


 キョーコが〔スーパーエイト〕の左脇をくぐる。瞬間、〔スーパーエイト〕の左肩部が外れて、一気に崩れ出す。


「急げ! 長くは持たねぇぞ!」


  キョーコは惚けている二人の首根っこを掴むと、顔を真っ赤にしながら崩れていく〔スーパーエイト〕から離れる。


〔スーパーエイト〕の下敷きになる寸前に、3人は抜け出した。


〔スーパーエイト〕は倒れた。関節からは異様な湯気が立ち上り、焦げ付いた臭いが漂ってくる。


「チッ。レッカー呼ぶ羽目になっちまったじゃねぇか」


 キョーコはわずかに光っている〔スーパーエイト〕のサインアイを見て、胸が痛んだ。プツプツと光が消えていく様子が、眠りにつくようだった。


「無理なんかするから」


 キョーコはパーカーのポケットに震える手を入れて、〔スーパーエイト〕に近く。


「……バカ」


 そういって、ボロボロのフレームに弱々しい足蹴りを入れた。


 そして、アイは〔スーパーエイト〕を傷の入った右目にしっかりと焼き付ける。


「こんなところで終わりしないよ」


 彼女の熱のこもったつぶやきを、リンも聞き届けた。

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