飼い主登録
人間、死んだ人間の声を真っ先に忘れると聞いたことがある。その通り、私も祖父の声は忘れてしまっていた。畑仕事で荒れた手も、乗せてもらった一輪車も、祖父が毎朝作ってくれた味噌汁のレシピも、覚えているのに。悲しくはなかったが、何となく、寂しさはあった。
しかし、私はこの司祭の声に確かに祖父の面影を見た。
「それじゃあ、祭壇の前に行こうか」
差し出された手は、節くれだって荒れている。親指の爪は土で汚れ、四角く分厚く、硬くなっていた。懐かしさを感じるしわくちゃな手に引かれ、ほんの数歩、祖父と散歩をした。
「じゃあ、祭壇に猫を置いて」
言われた通り、大理石の台の上にナナシを置く。相変わらず、退屈そうだ。
「では、首にこれを」
組紐、だろうか。赤い紐に鈴が通された物を首にかけられた。長さはそんなになく、なさがら首輪のようだった。
「では、その猫との約束事を神に教えなさい」
約束事?転生の条件だろうか。それなら朗読を聞かせることだ。マリア像のような物を見上げ、朗読です、と告げる。そしてナナシにふと目線を落とし、目を見開いた。そこに猫のシルエットは無く、台の上いっぱいの檸檬が並んでいた。
お姉さんと司祭さんの姿は何処にもなく、辺りを見回したが此処は確かに礼拝堂の中だ。
『おや、どうしたんだい』
背後からの声に勢いよく振り返ると、祭壇に腰掛け檸檬を幾つか手元で弄んでいる人物がいた。ギリシア神話の神を連想させる服装に長く細い髪の彼・・・いや、彼女だろうか。とにかく性別が分からない。「おや、どうしたんだい」。私は先ほど、確かにそう聞いた。しっかりと声を聞いたはずなのに、既にどのような声だったか忘れている。何より、逆光で顔が見えない。
『驚かせてしまったかな?』
二言目で、この人物が男性であることに気付けた。今度は、はっきりとした音になっていたのだ。
「・・・だれ」
『この世界の神だよ。特に生命とかを司っているね』
「その檸檬は?ナナシは何処?」
『何処って・・・ここにいるじゃないか』
そう言って、神は祭壇上の檸檬を指し示した。
『この檸檬たちは、この世界に存在する猫の数と同じでね、君の場合かなり特殊だから、試練を乗り越えて貰わないといけないんだ。ごめんね』
「試練って、何をすれば良いの」
『簡単さ。この檸檬の中から、君の檸檬を探し出してごらん』
祭壇から降りた神は私の背後に回り込み、肩に手を置いて一緒に祭壇を覗き込んでいる。檸檬、黄色く楕円を描く、果実。ダメだ、全部同じに見えてくる。人が真剣に悩んでいるというのに、神は首にかかった鈴を鳴らしたり不揃いな髪を弄んだりと気ままにしている。
「・・・えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始おさえつけていた」
『うん?』
「焦燥といおうか、嫌悪といおうか」
私は焦っているのだろうか。それとも意地の悪いこの神に嫌気がさしているのだろうか。はたまた、この事態に何も言わないナナシに憤っているのか。今の気持ちは、梶井基次郎の「檸檬」の書き出しにぴったり当てはまる。
「その店には珍しい檸檬が出ていたのだ」
その一節と共に、ある檸檬を拾い上げた。
『・・・それで良いのかい?』
「はい、この檸檬は、ナナシそっくりなんで」
ふふ、っと息が首にかかる。くすぐったい。
『うん、その通り。大正解。おめでとう、君をこの世界に歓迎するよ、レモンちゃん』
細く繊細な指に目を覆われる。手の中の檸檬がどんどん重たくなっていく。落とさない様に両手で支え、ふっと指が消えたので目を開けば、手の中には檸檬みたいな色の毛並みと濃い緑色の瞳の猫がいた。
「おかえりなさい」
司祭の言葉で、ようやく意識がはっきりとした。
右鎖骨に、檸檬の木をモチーフとした赤い刺青がある。これが猫の飼い主である証だそうだ。おしゃれ。
帰り道、馬に揺られていると、ナナシによく分かったなと言われた。どうやら、全部見てたらしい。
『本当に当てるとは思わなかったぞ』
「え、当てなくても大丈夫だったの?」
『あぁ、当たらなくても、お前には俺の姿が今まで通りにしか見えないだけだ』
「ほぼ支障なしじゃん」
『あの神はいつも人を眺めて楽しんでるんだ。害はないが、厄介なのに好かれたな』
「うへぇ」
神様に好かれた、だなんて。まるでお伽噺のようだ。勘弁してほしい。
『ところで、なんであの檸檬が俺だと分かったんだ?』
「・・・あー、それはね」
脳裏に選んだ檸檬を描く。あれは、よく見れば他の檸檬と決定的に違った。
「あの檸檬、絵みたいだったの」
平面的で凹凸がないといおうか、質感がないといおうか。兎に角、あれは紛れもなく絵だった。
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