八章:三元融界の果て 6
[《攻撃》――
[《攻撃》――失敗。 [《攻撃》――失敗。 [《攻撃》――失敗。
[《攻撃》――失敗。 [《攻撃》――失敗。 [《攻撃》――失敗。
[《攻撃》――失敗。 [《攻撃》――失敗。 [《攻撃》――失敗。
《電脳視界》に無数に表示されるエラー。無視。攻撃の手は緩めない。むしろ一層勢いを増して、九角はプログラムを走らせる。
周囲には《電脳義体》グレンデルと同質量の個人情報を有した『
絨毯爆撃さながらにエイダ・ラブレスに叩き込まれる解体術式は、しかして彼女に毛ほどのダメージを負わせられない。
流石は超大型演算機関のマザーシステム。たった一機で近畿と周辺地域すべての電脳情報を統制するだけのことはある。これだけのクラッキング攻撃もものともせずに処理する様は見事の一語に尽きた。
だが、それは予想の範囲内。むしろ予定調和といえた。この結果は、実証する前から判り切っていた結末である。
エイダにとっても。九角にとっても。
『理解しかねます』
数多の攻撃を無表情に処理しながら、エイダが言う。
『何故、このような無意味なことをするのですか? 貴方はそれを理解しているはずです。ミスター・九角。電脳戦では、人間の身である貴方に勝ち目はないはずです』
「まったく以てその通りだよ、ミス・エイダ。本当にその通りだ。電脳そのものである貴女相手に、人間の身である俺が勝つ手段などない」
九角は仮面の奥でにやりと笑い、含みのある言葉を返す。
そう。九角はこのような方法でエイダに勝てるとは思っていない。
これは、ただの確認だ。
彼女の演算処理能力がどれほどのものなのかを確かめる、そのための
『……どういう意味ですか?』
僅かに、躊躇するように。
エイダは、そう訊ねてきた。訊ねてきてしまった。
――王手。
心の中で、そうほくそ笑んで。
「いやなに。気になることがあったんだ。一つ、質問したい。よろしいかな――ミス・エイダ」
『はい。なんなりと。ミスター・九角』
何処か機械的な返事を返すエイダに向けて、九角は一石を投じた。
「貴女は――
彼女の
『なん、ですって?』
「難しいことだったかな? ミス・エイダ。俺はこう訊ねたんだ。貴女は――本当にエイダ・ラブレス本人なのか、と」
『何が……言いたいのですか?』
怯えたように。憶するように。エイダが――エイダであるかもしれない存在が、声を震わせているように、問う。問うて、返してくる。
「なに……ふと疑問に思っただけだ。誰がどうやって、貴女をエイダ・ラブレス・バイロンだと証明できるか、と」
人は、自分だけで自己証明することはできない。
世界でもし、自分以外のすべての人類――いや、生命が絶えたとして。
そこに一人取り残されたとき、人は果たして、自分が今本当に此処にいるのだと、証明できるだろうか。
答えは、否――だと九角は思っている。
――
様々な翻訳の果てに今ではそう伝わるその言葉。コギト命題は今も様々に論じられている。確かに、自分という存在への存在証明を疑っている――その疑問を抱くという時点で自己の存在証明は可能かもしれない。
しかし、だ。
自分は確かに存在しているのだろう。だけど、それが何者であるかまでは、証明できるだろうか。
人は、他者を通じて自分という存在を確立させる。誰かと関わることで、その誰かにとっての『
『自己』と『個人』。
似ているようでこれらは全く異なるものだ。
己一人を以てしても証明は可能な『自己』に対し、他者と関わることでようやく形になる一『個人』。
目の前の女性――エイダ・ラブレスは、自分をエイダ・ラブレスと思うことはできるだろう。そう、名乗ることもできるだろう。「私はエイダ・ラブレスだ」と、声を上げて周囲に訴えることはできる。だけど、それを――誰が証明するのか? 証明、できるのか?
「貴女が如何に、己をエイダ・ラブレスと名乗ろうとも、誰も貴女を証明することはできない。二〇〇年以上の故人。古き時代の現代に亡き人。姿形も、口調も、趣味趣向も、最早情報としてしか残らないエイダ・ラブレスの姿を、真に知る者はもう誰もこの世にいない。誰も本物の――十九世紀半ばに生まれ、三十四歳という若さで亡くなったエイダ・ラブレスを、知りはしない。
ならば、どうやって証明する? 貴女がエイダ・ラブレスだと、誰が保証する?」
勿論、こんなものははったりだ。言い掛かりだ。ただの言葉遊び。確たる証拠も何もないのは、九角の言及も同じことだ。
支神九角は、エイダ・ラブレス本人がどんな人物であるかなど、知るわけもないのだ。だから肯定することはできないけど、だからといって否定することだってできない。
だけど、
『そ、それは……』
その言葉だけで、エイダは困惑した。空虚だった瞳に怯えと困惑を湛えて、彼女は頭を抱えてその場に膝をつく。
脆く、儚いその姿。自分という存在を正面から否定され、しかもその証明をできる人間は誰もいないという指摘で容易に怯えを宿すその様子に同情を覚える。
だけど、躊躇いはない。
追い打ちをかけるように、九角はプログラムを起動させる。
「――さっき、少しだけ中枢機関に接続したときだ。階差機関を通じて貴女の
『いいえ。いいえ。違う……違う! 違う違う違う違う! 私は、私は――』
エイダの言動に異変が生じ始めた。自己肯定の失敗か。それとも構築情報に異常がきたしたか……どちらにしても、九角にとっては都合がいい。
「そういえば……貴女は言ったな。自分はエイダ・ラブレスが自身を情報化して書き残したマトリクスだと。だが、果たして本当にそうなのか? 実は逆――ということも考えられないか? 例えば、マター・リ=エイダのメンタルモデルが、たまたまエイダ・ラブレスの書いた中途半端なプログラムを
『やめて……やめてやめてやめて。私は、私はエイダ。私は間違いなくエイダ――』
矢次に追い討つ九角の言葉。
それを聞いて、自らに言い聞かせるように言葉を繰り返すエイダ。
「もう一度訊ねよう。ミス・エイダ――いいや、ミス・
言葉を武器に――彼女を壊す、杭を打ち込む。
途端に、
『私は、エイダ……エイダ……エイダ・ラブレ……ラブレ……レレレレレレレレレレレレレレレレレレレレレ――』
彼女は、自己を崩壊させる!
『――此処は、此処は、ロンドンでは、ない? では此処は? これは何? わわわ私の目に映っているこれは何? 光? 光の……檻?』
光――それは電脳空間を形作る電子の
彼女はもう防がない。
彼女はもう攻めてこない。
最早エイダ・ラブレスにしろ、マター・リ=エイダにしろ、その機能は、自己証明の迷路を解き明かすことだけに注がれた。
『眩しい……ああ……これは、何? 私? 私自身――ああ、そうだ。
私には判る。
私には判る。
私には、判る。
――私!』
壊れた古い蓄音機のように言葉繰り返す、エイダの姿を冷ややかに眺めて、
「――解体術式、起動。プログラム《ブレードランナー》」
[プログラム選択]
[――解体術式《ブレードランナー》起動]
解体術式が起動する。右腕――高密度電脳情報を宿した機械義手が、眩いばかりの稲光を纏う。
――《ブレードランナー》。それは九角が《ニューロマンサー》へ独自の改良を加えたものだ。《ニューロマンサー》はあらゆる防壁をすり抜け、あらゆる情報を超高速度で読み解く解析ツール。
それに対し《ブレードランナー》は、その《ニューロマンサー》に解析能力を
つまり、このプログラムは――ハッキング対象に侵入し、あらゆる防壁をすり抜け、あらゆる情報を凄まじい速度で破壊する、完全な攻撃用プログラム。
《ニューロマンサー》の防壁突破能力を有した、いわば最悪のコンピューターウィルス。
それを対クリッター用に用いたものが解体術式《ブレードランナー》。
一瞬で相手のファイアウォールを突き破り、構築情報を貫いて、その電脳核を引き抜く――グレンデルの右手の正体が、それだ。
迸る光芒は肥大化し、気付けば九角自身より巨大な光の爪をその右手に纏った九角が、その光の腕を頭上高く掲げて、エイダに――そしてその背後にある超大型演算機関たる階差機関へと、
「――さあ、幕引きだ」
言葉と共に。
掲げた右腕、振り下ろす。
そして――
――
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