一章:異貌都市 4


「――莫迦、逃げるぞ!」


 叱声が飛ぶ。

 傍らに立っていたアゼレアが、今まさにエネミーに襲われそうになっていたトーリの手を取って走り出す。半ば忘我しかけていたトーリは、引かれるがまま後に続いた。

 細い路地を走り抜け、通りへと出る。突然飛び出してきた二人に驚く周囲に向け、アゼレアが必死の形相で声を張り上げた。


「逃げるんだ! エネミーが来るぞ!」


 それはまさに鶴の一声。

 アゼレアの発した言葉。エネミーという単語を耳にした瞬間の彼らの反応は早かった。

 最初に周囲に響いたのは誰のとも判らない悲鳴で、次の瞬間それは周囲に伝播していき、一呼吸もしないうちに、周囲は阿鼻叫喚に包まれる。

 老いも若いもこぞって悲鳴を上げ、周りの者を押し退けてその場から蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。


「トーリ、急いで!」

「あ、ああ!」


 再び手を引き走り出す少女に続き、トーリもまた走り出す。

 そこに、すさまじい破砕音が轟いた。

 走りながら振り返る。

 視線の先に姿を現したのは、無数に並んでいた掘立小屋のような家屋を幾つも踏み躙るクロームの怪物だ。

 目測にして、その体長およそ一〇メートルの異形が、どうやら逃げ遅れてへたり込む鼠顔の婦人へ向け、その長い腕を伸ばす。

 腕の先。

 まるで刃のような爪を宿した手が、目にも止まらぬ速さで夫人を襲う!

 鋭い爪が婦人の身体をまるで紙のように貫き、婦人は断末魔を上げる暇もなく絶命した。


「……なっ!?」


 容易く人を殺して見せた怪物の所業に言葉を失う。

 だが、それだけでエネミーは終わらなかった。

 エネミーは爪で突き刺し、動かなくなった婦人から興味を失ったように投げ捨てると、間近にいる人々を次々と襲い、切り裂き、喰らい、殺していく。

 まるで子供が公園の片隅で蟻を踏み潰しているような、そんな容易さと無遠慮さで。

 怪物が、クロームの腕を薙ぎ払う。

 ただそれだけで、何人もの人間が巻き込まれ、吹き飛ばされ、叩き付けられていく。


「……なんだよ……あれ……っ」


 苦渋を感じ、そしてそれ以上にエネミーがもたらす不条理に怒りを覚えて小さくそう零す。


「ははっ。まるでエネミーを初めて見たような口ぶりだね」


 走りながらトーリを見上げ、少女は苦笑気味にそう言った。


「見たようなっていうか、実際初めてだよ。あんな化け物に出会ったのは!」


 そう言ったものの、その言葉には語弊があった。実際に、エネミーなる化け物との遭遇はこれが初めてだ。が、巨躯の怪物との遭遇が初めてかといえば、そうではない。

 似て非なるものなら知っている。

 電脳の怪物。情報を喰らう異常情報体――クリッター。

 どうしても脳裏に過ぎるのはそれである。

 何処か似た気配を持ち、そして何より、聞き覚えのある咆哮を上げるエネミーの姿には、クリッターに共通するものが垣間見えるような気がした。

 しかし、齎している被害の甚大さは比ではないだろう。

 電脳データと人命では、そもそも天秤に乗せること自体間違っているかもしれない。

 そんなことを考えていると、アゼレアがトーリを振り返って苦笑する。


「出会ったことがないだって? 随分嘘が下手だね。そうでないなら、どんな平和な地区で育ったんだ、君は? あれを知らないとは、随分と幸せなことだ」

「皮肉してはへたっくそだね! それよりも訊くけど、あれがそうなのか!?」


 皮肉気に笑う少女に対して、トーリは声を上げて尋ねる。

 アゼレアが大仰に頷く。


「そうだよ。あれがエネミーというものだ。何処からともなく現れては、見境なく、そして気まぐれに人々を襲い、喰らい、殺していく……そして何事もなかったかのように姿を消す。後に残るのは、エネミーによって齎された凄惨で、惨たらしい死の山だけ……」


 そう説明したアゼレアは「まるで災害だよ……」と唾棄するように零す。その表情は言葉以上に憤慨を露わにし、彼女の胸中を物語っていた。

 しかしそれも一瞬こと。少女の険しい表情は霧散し、代わりにトーリへ向けて叱声を飛ばす。


「そして今は、その災害から逃げる以外の手がない……行こう!」

「あ、ああ……」


 曖昧に頷きながらアゼレアに続く。

 逃げ惑う人々の波を掻き分けて走り、時に振り返ってエネミーの姿を確認する。

 振り返るたびに、怪物の猛威が逃げ遅れた人々を襲っていた。

 老いも若いも例外なく。鋼鉄の異形がその長大な腕を薙ぎ払い、振り下ろし、あるいは異形の脚で踏み潰していく。



『――GRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR!』



 咆哮が轟いた。

 恐怖を齎す咆哮こえ

 それはまるで自らの行いを誇るかのような雄叫びが空気を震わせ、そしてその咆哮は逃げ惑う人々を震え上がらせる。

 そして、鋼鉄の無貌に宿るその赫い瞳が動き――トーリを見据えた。

 そう。見据えたのだ。はっきりと。

 振り返るトーリの視線と、エネミーの視線が交錯する。

 鋼鉄の怪物の視線が、射抜くようにトーリを見ていたのだ。

 まるで、獲物を捉えた捕食者プレデターのような眼光に、トーリの背筋が凍りつく。

(――まさか……)

 脳裏に過ぎった可能性。そして同時に走った悪寒。

 有り得ない。そういう思いとは裏腹に、有り得ると思う自分がいた。

 あの怪物の、エネミーの目的。


 ――奴には標的がいるのだ。その標的を殺すために、奴はやって来た。


 おそらくこの虐殺は、その副産物に過ぎない。本来エネミーが狙っている相手の、単なる巻き添えだ。

目の前で繰り広げられる理不尽に、トーリはふつふつと腹の底から怒りが込み上げてくるような感覚を覚える。

 駄目だ、このままじゃいけない!

 トーリは前を走るアゼレアに声を上げた。


「ごめん、アゼレア! 君は逃げろ!」


 そう言って、トーリは自分の手を摑む少女の手を振り払うと、彼女が走っていた咆哮とは別の路地へと飛び込んだ。


「ちょっ、こら、トーリ!?」


 背後から驚いた様子のアゼレアの声が聞こえてくる。トーリは足を止めずに脇道へ飛び込むと、全速力で走り出す。

 同時に何かが瓦解する音が聞こえ――それが近づいてくるのが判る。

 その音が近づいてくることで、トーリはやっぱりと納得する。確信する。

(――奴の狙いは……僕か!)

 背後。すさまじい破砕音と共に、寸前に駆け抜けた横の建物が吹き飛ぶ。

 何が起きたなんて、考えるまでもない。振り返ると、そこには鋼鉄でできた長大な爪腕が、建物を突き破って姿を見せていた。


 ――追って来たのだ。


 理由は判らないが、この鋼鉄の怪物がやって来た原因はトーリだった。


「くそっ!」


 悪態を零しながら、トーリは再び走り出す。

 エネミーの狙いが自分であるのならば、できるだけ人の多いところから離れなければ。

(――だけど、何処に?)

 するべきことは判っている。だけど、そもそもトーリはこの都市のことを知らない。右も左も判らないこの地では、何処に逃げれば人が少ないのかとか、どういう道筋で走ればいいのか、まるで見当がつかないのである。

 とりあえず引き付けることには成功している。だけど、このあとどうすればいいのだろう?

 《電脳視界サイバーヴィジョン》があれば、それこそすぐにでも地図情報をダウンロードして道案内機能ナビゲート・システムを起動するのに、この電脳の恩恵を得られないこの地では、それすらも叶わない。


「あーもう、なんて不便なんだ!」


 悪態を零して、同時に自分を奮い立たせる。

 足を止めるな。止めれば死ぬ。

 いや、それは判らない。自分は電脳の世界にいたはずだ。だけど、此処にある今の身体には、現実と相違ない実感がある。ならば、たとえ現実でないとしても、トーリ自身が自らの死を意識してしまった場合……最悪の事態に陥る可能性もあり得るのだから。

(そんなのはごめんだっ!)

 二十一時には響と約束もしている。

 何よりあんな怪物に殺されるなんてごめんだ。


 だから――今は全力で走れ!


 そう自らを鼓舞して。

 背後から追い縋る破壊の足音から逃れるために、トーリは道筋の判らない路地をただ闇雲に疾駆した。




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