一章:異貌都市 3


「おい、大丈夫か?」転んだトーリに向かって、心配そうに手を差し伸べてきた相手の手は、熊のような毛むくじゃらの腕だった。

「急に飛び出してきてんじゃねーよ!」路地から飛び出してきたトーリに驚いてそう叫ぶ男の顔は、蜥蜴に似ていた。

「ちょっと~、気を付けてよね」そう言って眉を顰めた女性の下半身は、蛇の胴体そのものだった。

(なんだなんだなんだ、なにがどうなってるんだ!)

 何もかもが可笑しかった。

 出会う人々は、等しく『人』と呼んでいいのか判らない異形ばかり。

 まともな人間は誰一人おらず、みんな身体の何処かしらが人ならざる者だった。時には全身が動物そのもののような人すらいた。そんな人たちと出会うたびに悲鳴を上げてその場を逃げるように走り去ることを繰り返した。


 闇雲に、あてもなく、暗がりの路地を走り抜けて――。


 ようやく足を止めた頃にはもう、自分が何処から走ってきたのか判らなくなっていた。いや、最初から、自分が何処にいたのかなんて、判っていなかったけれでも。

 壁に手をつき項垂れて、肩で息をしながら額の汗を手で拭う。

 乱れた呼吸を整えようとし、咳き込んでしまった。

 それでもどうにか呼吸を整えて――どうするべきか考えてみて、何も思いつかず途方に暮れる。

 此処が何処かは判らないけど、少なくとも電脳都市――シティ・キョウトではないことは確かだった。景観も、雰囲気も、人並みも、そのすべてが、あの電脳都市とは似ても似つかない。そして此処が電脳都市でない以上、ログアウトすることもできない。それはつまり、現実への期間も叶わない――ということを意味していた。


「くっそぅ……何がどうなってる。僕、どうしてしまったんだよ……」


 ガシガシと髪を掻き回しながら悪態を零していると、不意に――




「――ねぇ、そこの君。気分が悪いのかな。大丈夫かい?」




 そう呼びかけてきたのは、何処か澄んだ旋律のような声。

 声は、頭上からだった。

 慌てて見上げ、その姿を視線に捉える。

 頭上。おそらくは展望になっているのであろう場所の、落下防止用の手摺の上に腰かけている少女が一人。

 蜂蜜色ハニーブロンドの髪に翡翠エメラルドの瞳を持つ、まだ幼さの残る顔立ちをした少女だった。少女の全身をすっぽりと覆うのは、漆黒の長外套。頭には機械装飾の施されたトップハットを被っていた。


 奇妙な――奇妙な少女だった。


 だけど、これまで出会ったどんな『人』たちよりも、少女ははっきりとした『人間』だった。

 その事実に驚いた。驚いてしまった。

(人が……いた?)

 この異貌の地を訪れて、漸く出会った人間の姿に思わず涙ぐんでしまいそうになり、込み上げてくるものを必死に押し留めるトーリに対し、


「迷い人かな? こんな辺鄙なところにまで、誰かが迷い込んでくるのは珍しい」


 そう言って、少女は手摺からこちらへと飛び降りてきた。

 高さは、目測五メートルほどだ。小柄な少女が飛び降りるには、聊か高さがある。

 だが、少女はそんな高低差などものともせず、軽やかな足取りで着地した。

 そしてトーリを見上げる――少女の背丈は、トーリの胸元程度しかなかった――と、頭に被っていた帽子を手に取って一礼する。


「初めまして、名も知らぬ少年ミスター・ノーボディ。こんな寂れた展望広場へようこそ。此処はノスタルギア上層のはずれ。テルムズの河に程近い場所で、今は私のホームになっているがね」

「……ホーム?」


そうともイェス」思わず聞き返した言葉に、少女は鷹揚に頷いた。


「この都市で、街の風景を眺めようという人間はまずいない。少なくとも、私は此処でそれなりに長く過ごしているけど……私以外の者がこの場所を訪れたのは、君が初めてだよ」


「――だから、珍しいと言ったんだ」帽子を被り直しながらにこりと微笑む。

 その笑みに、何処か安心感を覚えた。

 それは意図せずこの異貌の地を訪れてから、初めての感慨だった。

 不安や焦燥に駆られていた思考や身体が落ち着きを取り戻すの感じ、トーリは数秒、深呼吸をして――



「……何者でもない誰かノーボディじゃないよ」



 そう言って、トーリは名乗る。


「僕はトーリ。それが、僕の名前だ」

「ふふ」


 すると、少女の笑みが深まった。

 楽しそうに。

 嬉しそうに。

 そういう笑みを浮かべ――そして、少女は再び頭の上の帽子を外して一礼した。


「失礼したね、ミスター・トーリ。名乗るのが遅れた。私はアゼレアだよ」


 言って、少女は――アゼレアが右手を差し出した。


「ミスターはいらないよ。こちらこそよろしく、アゼレア」


 そう応じながら、少女の――アゼレアの手を取り握手を交わす。握った手をアゼレアは思い切り上下に振って満面の笑みを浮かべた。


「それでトーリ、君は一体全体どうしてこんな場所にやって来たんだい? 迷子か何かかな?」

「迷子……とは少し違うかな」


 そう返しながら顰め面になる。

 迷子というのは正しいだろう。ただし、道が判らなくなった――なんていう単純なものではない。自分が何処から来たのか。そしてどうすれば元の電脳都市ばしょに戻れるのか、皆目見当がつかないのだ。

 そのことを目の前の少女に言ったところで、おそらく意味が通じないだろう。何せこの都市、走り回りながら見ていたけど、電脳に縁ありそうなものが一つも見当たらなかったのだ。

 建物はすべて鋼鉄の建造物ばかりであり、都市の各地で無数に蒸気を吐き出し、とめどなく稼働しているのは、蒸気機関である。それは何も都市の動力としてだけの話ではなく、移動手段である四輪駆動車ガーニーのような乗り物から路面電車のような乗り物に至るまで、そのすべてが蒸気で動いており、電脳いう言葉とは縁遠い技術のものばかりだった。

 それでいて、技術レベルはトーリが知る歴史上――即ち産業革命時代に発達し広まったあの蒸気機関文明の技術力を、遥かに上回っているように感じられた。

 ちぐはぐな都市だ。

 非現実的な都市だ。

 こんな場所は、地球上のどこを探したって存在しない。

 空には排煙を交えた暗雲。レイヤーフィールドと呼ばれている人口大気層は影も形もなく、その存在すら感じさせない空模様に今もなお慄然としてしまいそうになる。

 それでも思考停止に陥りそうな頭を必死に動かして、トーリは目の前の少女に尋ねることにした。


「あの……さ。変なこと訊いてもいいかい?」

「初めて出会った婦女子レディに、どんな質問をする気なのかな? トーリ」


「そういう意味じゃないよ……」からかうように言うアゼレアの言葉に半眼になりつつ、トーリは躊躇いながらも言葉を続けた。


「えーと……此処――この都市って、何て名前なのか?」


 そう尋ねると、アゼレアの表情が険しいものになる。まるで正気を失った人間を遠巻きに見るような視線と共に、少女は言った。


「……君、大丈夫かい? そんな一般常識以下のことを何故尋ねるのかな? もしかして違法薬物に手を出してる? それとも遺伝変貌症ゲノム・シンドロームで脳がイカてしまったのかな?」

「どっちでもない……と、思うよ。たぶん」


 思わず語意がしりすぼんでしまう。

 正直な話、自分が何処まで正常なのかなんて考えたら、正気じゃないと思って仕方がない状況なのだ。今は。

 トーリにとって、今の状況は何処までも未知の領分だ。

 自分の知り得る常識が何一つ通用しないとなれば、トーリでなくとも誰かに尋ねてみたくもなるものである。


 ――此処は何処か? と。


 勿論、そんなトーリの心情など知る由もないアゼレアは、訝しげに眉を顰めて問う。


「まさかとは思うけど……記憶喪失なんてベタなことは言わないよね」


 トーリは慌てて頭を振る。


「いや、そんなことは言わない。言わないよ。だけど、その……説明に困るというか、やんごとない事情があるというか……正直な話、僕には何が起きているのかさっぱりでさ」

「そっくりそのまま同じ科白を返させてもらうよ、トーリ。そんな風に説明された私も、君が何を言いたいのかさっぱり判らない」


 勿論アゼレアに指摘されずとも、そんなことはトーリ自身が一番痛烈に理解していることである。

 ああ、ホント――どう説明したものか。

 トーリは、目の前で眉を顰める少女にどう説明するかほとほと困って頭を抱えた。その時だった。



 ――ギギィ、、、……。



 何かが軋む音が何処からか聞こえてきて、同時にアゼレアの顔に警戒の色が宿る。


「これは……拙いな」

「……どうしたの?」


 小さく不穏な科白を零す少女の様子に、トーリもまた周囲を警戒しながらそう尋ねる。だが、少女は答えない。

 そして、少女の代わりに答える者がいた。



『――GRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR!』



 声。咆哮。

 それは聞きなれた、怪物の呻き声クリッター・ヴォイス

(そんな……莫迦な!?)

 信じられなかった。

 何故あの声がこの場所で聞こえるのか。あれは電脳都市でのみ耳にするはずの声。電脳の恩恵が存在しないこの異貌の地では、絶対に聞こえるはずのない咆哮(こえ)。


「これは……大変だね。エネミーが来る……!」


 アゼレアが漏らした言葉。

 それはトーリには耳慣れない言葉だった。

 トーリは訝しげに眉を顰めながら、少女に問う。


「……エネミー?」


 問いに、アゼレアが不敵に笑みながら頷いた。


「そうさ。エネミー――鋼鉄の怪物エネミー・オブ・クロームだ」


 エネミー・オブ・クローム。鋼鉄の怪物と、少女が口にしたのと同時。

 ――ゴウッ、と空気の壁を突き破って。

 ――ズンッ、と大地を激しく震わせて。

 それは、姿を現した。



 ――異形が、空から舞い降りる。



 茫然とするトーリの前に、怪物が一匹。

 ギギギ……金属の軋む音と共に、あの電脳の怪物を髣髴させる赫い瞳がこちらを捉え、同時にトーリもまた、その姿を視線に捉える。

 現れたそれは、まごうことなき異形だった。

 この世界の住人たちのような、人と獣の入り混じったような――そういう意味との異形とはまた異なる、真の意味での怪物。

 全身を鋼鉄で覆っている?

 否。

 それは、鋼鉄でできているのだと理解する。全身くまなく、あますことなく、その異形の身体、いや――この怪物こそが鋼鉄クロームそのもの!

 長く分厚い四肢。

 外殻に覆われた身体。

 そして身体の到る個所から濛々と噴き出る蒸気を吐き出すノズル。

 獣のように這いながら、それでいて面立ちは何処か人間を思わせる無貌。



 ――そのすべてが鋼鉄クロームでできていた。



(ああ……なるほど!)

 強く、そしてはっきりと理解し、認識する。

 名の通りだ。

 まさしく、今トーリの眼前に聳え立っている異形の怪物は、エネミー・オブ・クローム――鋼鉄の怪物の名に相応しい存在だった。

 鋼鉄クローム蒸気機関エンジンでできた怪物モンスターが、赫眼を爛々と輝かせてトーリたちを見下ろし、



『――GRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRRR!』



 けたたましい轟哮を以て相対する!

 その声を間近に耳にしたトーリの体を突き抜ける衝撃。骨を軋ませ、魂を凍わすような恐慌齎す怪物の雄叫びを前に、白衣の少年は呆然と立ち尽くすしかできなかった。

(……あ、え?)

 声に出すこともできずに立ち尽くす己の有様を、まるで他人事のように感じるトーリ。

 ――何故、自分の身体は動かないのか?

 ――何故、自分は立ち竦んでいるのか?

 己に問う。

 答えは、なかった。

 代わりに、ゆっくりと自分に迫り寄る怪物の影が頭上に広がり――














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