一章:異貌都市 1




「……なんだ、これ?」


 最初、何が起きているのか判らなかった。

 目の前に広がる光景。いつもと変わらない電脳の世界が広がっている――そう、思っていたのに。

 今、トーリの目の前に広がっているのは、トーリが慣れ親しんでいた電脳都市ではなく、異形の――そう。一言でいうなら、そこはまさに、異形の地だった。

 暗く、冷たく、寂びれた雰囲気が蔓延していた場所だった。

 目の前に広がる光景は、あの電脳華やかりし都とはほど遠い、鋼鉄の街だった。

 ゴゥン……ゴゥン……という、所彼処より聞こえてくる重機械の駆動音。

 天高くに聳える無数の煙突から吐き出される排煙が空を覆い、水源は見るも無残に汚れきっていた。とても生活用水には使えないだろう。

 排煙が空気中にも蔓延しているのか、空気は酷く埃っぽくて咳き込んでしまう。身に纏う白のコートの肩には、すでに数ミリ単位で煤が積もっていた。

(……電脳都市、なわけないよな)

 一瞬だけ、そんなことを考える。

 クリッターが現れた時のように自動移転するバックグラウンド・サーバーかと訝しみもする。

 だが、そもそもバックグラウンド・サーバーは、侵入してきたクリッターに電脳都市の存在を誤認識させるためのものだ。当然、その景観や都市構築情報は電脳都市そのものと同位でなければならない。

 こんな電脳とはかけ離れた鋼鉄の街並みなど、用意するだけ無意味だ。

 故に、その可能性は廃止する。

 ならば、この都市はなんだろうか?


「くそっ。なにがどうなってるんだよ……」


 現状を把握しようとして《電脳視界サイバーヴィジョン》を確認しようとした――が、できかかった。


「……は?」


 もう一度、《電脳視界》を利用しようと意識する。

 しかし、応答はなかった。

 何時まで待っても、視界に電脳情報が表示されることはない。

 《電脳視界》は使用できなかった。

 そう。できないのだ。

 無意識のレベルで使用できるはずの《電脳視界》が、今は何処にもなかった。

 何処にもない。そう、存在しないのだ。《電脳視界》が。


「なん……で……」


 我知らずの内にそんな声を漏らす。


 ――《電脳視界》が存在しない。


 そのことを認識した瞬間、背中から厭な汗が流れるのを感じた。

 混乱が、思考を埋め尽くしていく。

(どう、いう……ことだ?)

 自問するが、当然答えはなかった。

 わけが判らなかった。

 自分は今、電脳都市に、シティ・キョウトにいるはずだ。

 いや、そうでなくとも。

 電脳端子を保有インプラントしているトーリは、常に何処にいたって電脳ネットと無線接続リンクしているはずだ。

 故に《電脳視界》が使えなくなる――なんてことはあり得ない。それこそ電脳ネットがシャットダウンしたというのなら話はまた別だが、それならそれで、非常事態メールによって通知が届くはず。

 まさに異常事態だった。

 咄嗟に立体画面を起動させようと指を眼前で手動作スクロールさせるが、これも反応がなかった。

 電脳都市に――ひいては電脳世界にいるのならば、絶対に機能するはずのものが一切使用できないなんて……。

そんなことが、あり得るのだろうか。

 疑問を抱くも、答えは出ない。

 どうする?

 どうしたらいい?

 混乱するトーリには、最早どうすることもできなかった。取り敢えず、この場を離脱するべきだ。

 そう考えて、電脳離脱ログアウトを試み――



「……そん、な……」



 ――それすらも、できなくて……。

 茫然と、その場に立ち尽くす。

 空を見上げて、途方に暮れる。

 ありえないことだった。

 電脳世界から離脱することができないなんて、前代未聞の大事件だろう。

 二十一世紀初頭の都市伝説じゃあるまいし、電脳の世界に意識が取り残されるなんてこと、あるわけがない!

 だから、


「なんで……なんで電脳離脱ができない! 有り得ない……だろうっ!」


 焦燥のままに声を荒げた。怒りにまかせて発した叫びは、無論誰に向けて放ったものではなく、ただ胸の内に渦巻く不安をどうにか吐き出すためだ。

(……落ちつけ。いや、落ちつけるわけがないけれど……それでも落ちつけ!)

 自分に言い聞かせるように、そう胸中で呟く。

 その程度で晴れる不安感ではないことは百も承知の上で。だけど、そうしなければ心の均衡が、平穏が保てなかった。

 額に伝った厭な汗を腕で拭い、その手で顔を覆った。

 その時の感触。

 額に触れた腕の――

 そう――硬質な、ゴツゴツとした手触りに、違和感。

(……?)

 顔に触れた自分の手。生身の腕でもなく、ましてや機械義手のそれとも異なる感触に眉を顰めた。

 そして何気なく、自分の左腕を見て――絶句する。


 ――左腕。


 現実における弥栄透莉の、生身の腕。

 電脳世界における機械義手の、左腕。

 あるべきはそのどちらか。

 しかし、

 トーリの左腕は、

 そのどちらでもなく――。

 代わりに生えていたのは、爬虫類のそれを彷彿させる、真っ黒な鱗に覆われた腕で――。



「う……うわあああああああああああ!?」


 

 思わず絶叫する。

 当然だ。

 自分の腕。なのに、見慣れない腕だ。

 黒い鱗に覆われた、鋭利な爪を持つ左腕が、そこにはあった。

 我が目を疑う。しかし、まぎれもない現実で、少なくとも腕の感覚は本物だった。ただ、皮膚の感触だけは、自分の知らないものだったが……。

 腕を動かすたびに、皮膚の鱗が擦れて小さく歪な音を鳴らす。鱗と鱗が擦れる感覚は、言葉に表し難かった。

(なん……だよ、これっ……!)

 何がどうなっているのか、考えがまとまらない。次々と降りかかる異常事態に対処するには、さすがに状況が混迷に過ぎた。

 とっさに、右手を見る。

 ――生身だった。

 トーリが知る、人間の腕だった。その右手に、異形の左腕で恐る恐る触れて――それが確かに人の肌の質感した、人の腕であることを確認し、トーリは安堵の吐息を零す。

 とん……と、背を壁に預ける。冷たいコンクリートの感触を背中に感じながら、ふと頭上を仰いでみれば。

 曇天が、広がっていた。

 真っ暗な灰色の雲が空を覆い、今が昼間なのか夜中なのかの判別もつかない空が、何処までも。

 何処か、レイヤーフィールドを髣髴させる空模様。だけど人口の大気層とは似ても似つかない分厚い雲の情景に、空笑いが零れた。


「……ああ、もう。何がどうなってるんだよ……」


 途方に暮れて口にした言葉。


「ん? おい、そこのー。何してんだ?」


 不意に、声がした。

 自分のものとは違う、野太い声。一瞬耳を疑って、だけど聞き間違いじゃないことを理解し――自分でも驚くような速さでその声のしたほうに目を向けた。

 影がいた。大きな影だ。

 暗がりのせいでうまく姿を捉えられないけど、それは確かに人影だった。


「……人?」


 間抜けな声を発しながら、トーリは縋るようにその声の主のもとへと向かった。

 助かった――そう思った。

 わけのわからない事態に陥って、初めて光明を見た気がした。


「おい、どうした? やけにふらついているじゃねーか?」


 こちらを心配するような声に、なぜか安心感を覚える。今なお混乱の渦中にあったトーリは、すがるような気持ちで声の主へと歩み寄る。

 街灯の光か。あるいは他の何かかは判らないが、わずかに声の主を――大柄な男性らしき人物を照らす光があった。

 薄暗闇の中での光は眩く、暗がりに慣れていたトーリはわずかに目を細める。

 そして、光に照らされた男の姿を見て――息を呑んだ。

 呆気に取られ、間抜けに口をあんぐりと開いて――言葉を、失う。

 立っていた、人影。いや、人影だと思っていたのは、人ではなかった。

 それは……人の姿をしていなかった。


 二本の足で立つ獣――そう、獣面巨躯の何かだ。


 人なのか、獣なのか。判断がつかず、トーリは歩み寄っていた足を引き戻す。

 訝しげに顔を顰めた――のだろう――獣面の男が「どうした? 気分でも悪いのか?」と尋ねてくるが、最早トーリはその声に安堵を覚えることはできなかった。


「おい、お前さん。本当に大丈夫か? 手ぇ貸そうか?」


 獣面の、獅子のような頭を持ったそれが、ゆっくりとこちらに手を伸ばしてきた。

 そして、それが限界だった。


「く……来るなぁ!」


 悲鳴を上げて、トーリはその手を振り払い、元来た道を――路地の奥へと向かって、一目散に走り去る。

 立ち止まることなく。

 振り返ることもせず。

 白いコートを揺らして、トーリはその場を全速力で逃げ出して――。

 後には、獅子面の男性がその走り去る背をただ茫然と見送っていた。



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