第4話
「静粛に! オルデン公よりお言葉がある!」
大食堂がピタリと静まり返った。
銀の盃を片手にオルデン公が立ち上がる。
「まず諸君等の日頃の働きに感謝している。食事の前だ。暗くはしたく無いが、せめて冷める前に話は終わらせよう。ほとんどの者は噂で知っていると思うが、我らがマルギアス王国とカトラス王国は戦争状態に入る事になった。ネヴェルは直接隣り合っていないが、自分と無関係とは考えないで欲しい。僕からは以上だ。今日の糧に!」
オルデンが盃を掲げると、彩芽を除く全員がピタリと息を合わせて「今日の糧に!」と復唱し、自らの盃を高々と掲げ食事が始まった。
すぐに厨房から暖かい料理が運ばれてくるのが見える。
夕食は何かと彩芽が目で追おうとすると、この時ようやく他の巨人が既に席についている事に気が付き、ついストラディゴスと見比べてしまう。
巨人の一人は女性で、ストラディゴスよりも一回り小さいが、見た目の印象では純朴そうであった。
他に二人の男の巨人は、それぞれストラディゴスよりも少しだけ線が細いが、二人とも兵士か騎士の様で、それぞれに違う迫力がある。
そんな彩芽の視線に気づいたのか、ストラディゴスがいつもの顔に戻って話しかけてくる。
「どうした、何か面白い物でも見つけたのか?」
「ううん、ストラディゴスさん以外の巨人って初めて見たから」
「ああ、あいつらみんな傭兵時代からの付き合いのある連中だからな、アヤメが嫌じゃなければ後で紹介するさ」
「みんな友達なの?」
「幼馴染で、戦友だからな」
その時、エルムが口を挟んできた。
「こいつのダチは、俺と、あいつらぐらいのもんだ」
それを聞いて、彩芽は気になった事を聞く。
「……二人は、どうやって知り合ったの?」
* * *
「そう、その時、敵と俺達のどちらにもついてなかったフォルサ傭兵団の連中に俺は条件を出したんだ。今回の戦でネヴェルにつけば騎士に取り立ててやるってな。当時はネヴェルに巨人で騎士になった奴なんて一人もいなかった。巨人と言えば北国の傭兵ってので相場は決まってるだろ? 南の連中からすると、まだ蛮族って差別意識も残っていたし、騎士にする事に反対する奴も大勢いたが、巨人が軍勢に加われば一人につき兵士五十人なんてものじゃない。それがたったの四人でも二百人の援軍だ」
「へぇ~」
「そこで、こいつなんて言ったと思う? フォルサ傭兵団をそのまま丸ごと騎士団にして、自分の事を団長にしろって言ってきやがったんだぜ、ははは、クソ図々しいだろ」
エルムがコップで何かをチビチビと飲みながら、気持ちよさそうに昔話を披露する。
ストラディゴスはそれを向かい側で黙って聞きながら、テーブルの上の料理を自分の口に運んでいた。
「それ、どっかで聞いたなぁ~。確か結局、傭兵団全員騎士になったんだよね? ストラディゴスさん、酒場で飲んだ時には、ネヴェル騎士団の団長に『騎士にしてやるから助けてください』って泣きつかれたみたいな事言ってなかったっけ?」
「お前、外でそんな風に言ってんの? 俺は悲しいなぁ、傷ついちゃうぞ」
「あん? 実際そうだろ」
ストラディゴスは悪びれる様子も無く、エルムのウソ泣きを冷ややかな目で見る。
「あれ、でも、おかしくない? エルムさんが頼んだんだったら騎士団長さんは? だって、ストラディゴスさん、その後、騎士団長さんに勝負を挑んで、負けたから副長で我慢したって。そう言えば、騎士団長さんって今ここにいるの?」
その言葉に、エルムは即反応する。
「ああ、あああ! そう言う事か、バッカ、お前、さては俺の事、ちゃんと紹介して無いんだろ」
そう言うと、エルムは自分を指さし、
「目の前にいるのが、ネヴェル騎士団の団長様だぞ」
と冗談と同じトーンで軽く言った。
「……え?」
「そんなに驚く事無いだろ」
「だって、なんか」
「ダメだぞ、悪い影響受けてるよこいつの。思い込みは良くないぞ~」
エルムはお茶らけて言うが、彩芽は確かに思い込みは良くないと思考を切り替える。
「あの、今更かもしれないんですけど、エルムさんって何者なんですか?」
「ギャンブラー兼、魔法使い兼、騎士団長兼、大臣って所だ」
「……一番は、ギャンブラーなんだ」
「そんな奴が領地を仕切ってるのに、どうして上手く行ってるのか、俺にはわからんね」
ストラディゴスは呆れたように言いながら、また料理を口に運ぶ。
それを聞いてエルムは、人の悪い顔でこんな事を言った。
「政治で危ない賭けは、さすがにな。でもよ、今のお前は博打の結果だからな。もっと感謝しろよ」
「してるよ、ったく」
ストラディゴスは耳にタコなのか、わかってるわかってると少し面倒くさそうに言っているが、その表情を見るとエルムの事を嫌っていない事が彩芽にもわかる。
そんなやり取りを見て、彩芽は二人が本当に仲が良いのだなと思う。
男くさい二人の世界を見ている彩芽に気付いたストラディゴスは、彩芽の二日酔いがもうすっかり良くなっている事に安心するが、話してばかりで食事が進んでいないのを見逃さない。
「アヤメ、話も良いが飯が全然進んでいないぞ。ちゃんと食えよ、ほら」
そう言うとストラディゴスは本日のメインディッシュ、豚(っぽい生き物)の丸焼きを昨日の様にナイフで切り分け、大きな手で肉の塊を持つと彩芽の口に直接持っていく。
それに対して彩芽は、まったく抵抗も疑問も無く「あ~ん」と口でキャッチし、もっきゅもきゅと口いっぱいに頬張り食べ始めた。
その一連の行動を目を細くして見ていたエルム。
彩芽に「少し失礼する」と断って立ち上がると、どうしても今伝えたいのか、ストラディゴスの傍まで行き、耳を貸せと合図し、その場でコソコソと話し始めた。
「お前に面白い事を教えてやる」
「なんだ急に」
「これは人生の先輩としてのアドバイスだ、心して聞け」
「いいから早く言えよ。アヤメが待っているだろ」
ストラディゴスが視線を彩芽に向けると、彩芽はまだ肉を飲み込めておらず、変わらずにもきゅもきゅ噛みしめている。
それを見てストラディゴスは、なんて可愛いのだろうと思う。
「俺には、親鳥が雛に餌をあげている様にしか見えない」
エルムのアドバイスに、ストラディゴスは肉を自分の口に運びながら少し考える。
「それは……どういう意味だ?」
「お前が昼に俺に話した話、恋愛童貞エピソード覚えてるか?」
「だから違うって言ってるだろ」
「はぁ……お前は、ようやくチェリー卒業でいい気になっている若造だ。でもな、卒業ってのは始まりなんだ。わかるか? 恋愛童貞卒業って言うのは、恋愛初心者って事。それでな、お前は初日にして進む方向を早くも間違っている可能性がある」
「はっきり言えっての」
ストラディゴスはエルムの話を聞きながらも、空になった彩芽の口にまた肉を運ぼうとしている。
その動きが、エルムの次の言葉でビクリと止まる。
「お前、父親と娘みたいな関係になりつつあるぞ」
「………………ん?」
ストラディゴスが「アレ?」と思った。
テーブルの上で止まった巨人の手につままれた肉に、彩芽はテーブルに身体を乗り出してパクリと食いついた。
「お前がそれが良いってなら、俺は止めないが」
ストラディゴスは、すっくと立ち上がる。
そのままエルムの背中を押して食堂の外に歩いて行く。
急に知り合いが近くからいなくなった彩芽は、肉を噛みながら、やはり視線は二人の姿を追っていた。
彩芽の目には、オーバーに頭を抱えて、エルムに何かを訴えているのか助けを求めているのか、人生の道に迷った巨人の姿が見えていた。
「お前さ、さっさといつもみたいに抱いちまえば?」
「出来るか、そんな事!」
ストラディゴスは、女性を一度もデートに誘った事も無い初心な少年の様な、弱気な事を言い始める。
しかし、ストラディゴスは実際、どうやって男女の仲が進展していくのか、あまりにも知らなかった。
少なくとも、今まで自分が経験してきた方法を採用して、上手く行くとは思えなかったのだ。
* * *
初めて彼が女の温もりを知ったのは、まだ背も伸びきらぬ十代だった傭兵になって間もない頃。
数人の孤児の集まりから始まった、まだ名前も無い小さな傭兵団で、金の為、生きる為に戦場を駆けまわる事に限界を感じ始めた時だった。
より多くの金を安全に稼ぐ為には、優秀な先輩同業者から学ぶのが近道である。
そこでストラディゴス達は、当時マルギアス王国で名を馳せていたフォルサ傭兵団に入る。
すぐに腕っぷしを買われ、ストラディゴスは前線の敵補給線にある村の焼き討ちに参加する事になる。
戦場では勝者による略奪・凌辱は、当然の権利である。
少なくとも、この世界の戦場では今も通用する常識であった。
野蛮な行為を取り締まる法律は無く、それらの行為を勝者がどう思うかの話でしかない。
戦争と言う殺し合いが許される非日常の環境では、殺人よりも軽んじて考えられる罪を取り締まる事は、日常よりも遥かに難しい。
勝者達は、生き残った敗者に辱めを与え恨みを買ったとしても、最後には殺してしまえば結果は同じ事となる為だ。
そんな世界に飛び込んで、ストラディゴスが初めて女を知ったのが、他の先輩傭兵達に散々輪姦された、戦火で焼け落ちた村の娘相手だったとしても、何も不思議は無かった。
まだ若い彼は、その時は見張りをさせられていた。
手がかじかむ季節。
焼け落ちた村の中。
まだ無事な、民家が一つあった。
自分が見張る扉の向こうで不愉快な行為が行われている事は当然知っていたし、止めたいという気持ちが無かった訳では無い。
だが、いくら巨人だとしても戦いの経験が浅い若造に、武装した手練れ揃いの傭兵達を止められる筈も無い。
扉の中で行われていた事が済むと、まだ若いストラディゴスは当時仲間だった先輩傭兵に部屋に入る様に言われる。
当時のフォルサ傭兵団の団長と、その部下たちがベルトを締めなおしているのが目に入る。
そこには、逆らう気力も失った幼い少女が、汚され、怪我を負わされ、血に染まった床に倒れていた。
少女の名前は、ルイシーといった。
「わりぃ、待たせたな。次はお前の番だ」
傭兵仲間の言葉を聞くと、恐る恐る暗い部屋へと足を踏み入れた。
ストラディゴスは、自分達のせいで孤児となり、死んだ家族の隣で、血の海の中汚されたルイシーを見下ろし、既に死んだように光が無いその目を見た。
そこにいたのは、孤児になったばかりの昔の自分であった。
ストラディゴスは、自分が抱いても、抱かなくとも、この後に確実に殺されるであろう、この時は名前も知らない少女を前にして迷った。
戦場の、ルールは分かっている。
「どうせ殺せば結果は同じ」
それならば、より多くを奪ってからでなければ、旨味が減る。
だからこそ、多くの無法者たちは、物を奪い、尊厳を奪い、苦痛を与え、命を最後に奪う。
それが戦場の常識である。
その時、ルイシーはストラディゴスを見て蚊の鳴くような声を出し、口を動かした。
「……た……す‥‥…けて」
それは、ストラディゴスに助けて欲しくて言った言葉ではない。
ストラディゴスを含む傭兵達へ向けた、殺さないで欲しいという懇願の言葉である。
しかしストラディゴスには、ルイシーを他の傭兵達の目の前で「凌辱をするか、しないか」その二択しか用意されていなかった。
これは傭兵達が仲間を共犯者とする為の、一種の通過儀礼でもあるのだ。
ここで共に罪を犯さなければ、戦場で背中を預ける仲間として認められない。
腰抜けと思われるなら良い方で、悪ければ信用できないと見られる事となる。
ストラディゴスは、ルイシーに歩み寄る。
そして、ゆっくりと、まるで時間を稼ぐようにベルトを外すと、ズボンだけ膝まで下ろし、まるで反応の無いルイシーにゆっくりと覆いかぶさった。
ストラディゴスが苦痛と罪悪感の中で、初めて女を経験し、果てる。
すると他の傭兵達は「気が済むまで楽しんで良いぞ」と、共犯者になった新人に対して安心し、仲間想いであるかのような、下種な言葉を優しくかけた。
その言葉に、ストラディゴスは答えた。
「なら、こいつを俺にくれ」
傭兵達はそれを聞き、目を丸くした。
だが、すぐに成程と合点がいったのか、ニヤニヤ笑いながら快諾した。
「なんだお前、初めてだったのか。だがな、後始末は自分でしろよ」
傭兵団長が言った後始末と言う言葉。
後始末とは、ルイシーを犯した後に殺すか、飼殺して衰弱させて死なせてしまったら、自分で埋める事であった。
ストラディゴスは、名前も知らない死にかけの少女を、傭兵団のテントへと連れ帰った。
出会ったその日から、ルイシーはストラディゴスと共に生きる事を余儀なくされた。
だが、土地も家族も失った今、当ても無く孤児になるよりは、状況はマシとも考えられた。
傭兵達の中には、さらってきた村娘を奴隷として売り飛ばす者もいたが、恋人や妻にする者も当たり前にいるのだ。
ルイシーもそれは常識として承知であったし、戦火で村を焼け出されて親の仇を取ろうなんて考える者は、殆どいないのが現実である。
ルイシーも、誰が仇であるかなどは正確には知らなかった。
自分を犯した連中のうちの誰かとしか分からず、それがストラディゴスなのでは無いかとも疑っていた。
それでも生きる為には、環境に順応しるしかないと割り切り、親の仇かもしれない無法者に媚びを売って卑しくても生きるのが現実の一つであった。
当然、ルイシーは残りの人生を、自分の家族を殺した仲間の、若い巨人の玩具にされて終わると思っていた。
しかし、ルイシーが覚悟をして巨人のベッドで待っていても、ストラディゴスが抱きに来ることは無かった。
ストラディゴスはルイシーの傷を手当てし、服と食事を与え、寝床を共にした。
ルイシーは、隣で眠るだけの巨人を殺して逃げようと何度となく思った。
しかし、先の見えない人生と、保身を考えると、それを実行する事は出来なかった。
一方で巨人は、あわれな村娘を救うと同時に、無意識の中で過去の自分を救おうと必死だった。
自分が孤児になった時にして欲しかった事をして、ルイシーと自分を、どうにか癒そうとしていたのだ。
巨人は稼ぐ為に戦場に行き、怪我をして戻ってくる。
ルイシーは、傷の手当てをするのが日課になっていく。
そんな日が続いたある日、ルイシーは気付く。
いつしか、自分が今日を生きる為に戦場からストラディゴスが戻る事を願う事をやめていた。
ただ、その身の無事を願っている自分がいたのだ。
ルイシーは、自然な成り行きで巨人の事を、愛していた。
いつしかストラディゴスは、ルイシーに求められて、互いに慰め合う様に毎晩その身体を抱くようになる。
ここまで聞けば、戦場で良くある話でしかない。
ここからが、ある意味でストラディゴスの転落の始まりである。
純朴だった幼い村娘は、ストラディゴスを喜ばそうと美しく成長し、彼の為に昼も夜も尽くした。
ルイシーは、ストラディゴスの幸福こそが自分の幸せと感じるまでに、深い愛情を注ぎ始めたのだ。
ストラディゴスが自分の中に過去の自分を映す様に、ルイシーもまたストラディゴスの中に自分の未来を見ていた。
そんな、歪でも幸せだったある日、事件が起きた。
美しく成長したルイシーを、あの時の団長をはじめとした傭兵達が、再び襲おうとしたのだ。
この事件で、ストラディゴスは関わった傭兵を全員切り殺し、こうして若くしてストラディゴスが傭兵団を率いる立場に落ち着く事となる。
トップの交代は歓迎され、そこまで大きな混乱は起こらなかった。
すると、戦場で得た全ての戦利品の処遇は、ストラディゴスの匙加減で全て決められるようになっていく。
この頃から、傭兵団の規模は一気に膨れ上がっていく事になる。
巨人は、戦争で負ける事によって戦利品となった相手を、自分が引き取れば幸せに出来ると、ルイシーを見ていていつしか思い始めていた。
そして、ルイシーも、家族の敵を討ち、自分を愛するストラディゴスの考えを全て受け入れ、それを支えようとした。
凄惨な経験を乗り越えたルイシーによる、孤児などの行き場を失った者達への影響力は凄まじかった。
ストラディゴスが、戦場で焼け出された孤児を見つけるたびに、男なら新たな傭兵に育て、女なら年齢も種族も関係無く、ルイシーと似た価値観を持つ存在に育てられていった。
これは、ストラディゴスがルイシーを通して自分を癒そうとした行為と似ていて、ルイシーはストラディゴスの正しさと、ストラディゴスによって幸せになった自身の正当性を証明する為に、それを続ける。
すると、ルイシーの考え方に染まった者達は、自然とストラディゴスを求める様になっていく。
つまり、傭兵団の中に、いつしかルイシーの手によって、ストラディゴスの為のハーレムが勝手に出来て行ったのだ。
この頃になると、ストラディゴスは女好きで有名になり、実際そうなっていた。
ルイシーに自分を投影し、ルイシーを救おうとしていたのが、いつしか大勢のルイシーを相手にするのが常態化してしまったのだ。
そうなると、目的と手段が反転するポイントがやってくる。
自分を癒す為にルイシーを救い、結果的に抱いていたのが、自分でも気づかないうちに女を抱く事が目的にすり替わっていくのだ。
それでも、ルイシーはストラディゴスを愛する者達を乱造し続ける。
当然、簡単に抱ける相手が無数にいれば、あらゆる種族の女を味見したり、時には同時に味を比べ、気に入った一人に入れ込んだり、何股もかけてみたり(それが原因で殺されかけたり)と、目的を忘れて快楽に走る事になった。
するとやがて、女達の中にもルイシーの様にストラディゴスの全てを受け入れられる者ばかりでは無くなってくる。
不誠実なストラディゴスを見て、多くの女は別の傭兵に乗り換えたり、彼のもとを離れていってしまったのだ。
時が経ち、騎士団に入り、すぐに副長になると、長く続いていた戦争が終わった。
そうなれば傭兵時代の様には、思い通りに稼げなくなる。
そうなるとルイシーが作ったハーレムは、自然に規模を小さくし、最後にはルイシーだけが残る事になる。
他の女達はそれぞれの人生を歩きだし、ストラディゴスはと言うと、目的と手段が入れ替わったまま、ぽっかり空いた穴を埋める為に娼館通いをするしかなくなる。
エルムの、ちゃんとした恋愛をしたことが無いと言う読みは、しっかり当たっていたのだ。
ちなみにルイシーは、今でもストラディゴスの理解者として、城でメイドとして働いている。
今の関係は、恋人であって恋人で無く、愛人であって愛人で無く、妻であって妻で無い。
関係上は家族では無いが、娘と妹と姉と妻と母を足して割り損ねた様な、家族の様に大切な存在としてお互い感じている。
ちなみに、ストラディゴスが彩芽の身体を綺麗にする様に頼んだ相手は、ルイシーであり、あの時も早朝に呼び出されたにもかかわらず快諾し、完璧な仕事をしていた。
* * *
「じゃあ、ゲームに勝ったら『嫁になってくれ』とでも命令するか……まあ、最後には俺が勝つのは分かってるからな。お前が俺に一億フォルトぐらい積んだら、アヤメに代わりに命令してやらんでもないが」
「俺、そこまでクズに見られてる?」
「昨日までのお前なら、平気で命令しただろうな。百万までなら借金して即決してたぐらいには思っていたが」
「くそっ、マジかよ!?」
「真面目な事言って悪いんだが、アヤメの事を落としたいならな」
「落としたいなら、どうすりゃいいんだよ」
「まずは、俺にゲームで勝つことだ」
* * *
同じ頃。
二人が廊下に出ていくと彩芽は、マイペースにも孤独にグルメを楽む事にした。
待っていては、料理がさめてしまう。
それは料理と料理を作った人に悪いってものだ。
昨日の魚に続いて、本日は肉である。
ストラディゴスに食べさせてもらった豚の丸焼きは、表面の皮は狐色に油でパリパリに焼きあげられ、身は柔らかく、ラーメン屋の焼き豚の中でも箸で崩せるほど長時間煮込んだタイプの物が中にぎっしりと詰まったような食感であった。
中でも油の旨味レベルが異様に高く、彩芽が脂身だけでももっと食べたいと思うクオリティである(本当にやったら確実に気持ち悪くなるが)。
そうなってくると、肉をパンにはさみたい衝動が沸き起こる。
だが、残念ながらスープに浸さないと噛む事も難しい皿代わりの、保存に特化させた黒パンしかない。
サンドイッチするには、あまり向いていないのは試さずともわかる。
そのパンを浸ける事を前提にしたスープを、テーブルに置かれたまだ熱々の鍋から、深い取り皿に、木のお玉で盛り付ける。
スープの具は、どうやら葉物野菜の様だが、細かく手でちぎられていて何の野菜に似ているかまでは分からない。
鍋の底をかき混ぜると、細く切られた透明なタマネギが浮き上がる。
沈殿していた何かの動物の肉片と、一口サイズにザクザクと切られたカブか大根みたいな根菜が、遅れて浮かびあがってきた。
肉片は、動物の骨に残った中落や脂肪のカスに見える。
木のスプーンですくって、一口飲んでみる。
動物の骨を煮込んだスープ、素材のままの味付けをされている事がうかがえる味。
彩芽の好きな豚骨スープに近いが、塩気が足りず少し物足りない。
何と言うか、上品なのだ。
もっと油ギトギトで構わないと彩芽は思う。
彩芽は、皿についでしまった分だけ飲み干すと、水を探す。
エルムが飲んでいたのは、確か透明な飲み物だったなと思い、同じものをコップについで飲もうとすると、口に運ぶ途中でフルーティな匂いが鼻に届く。
どうやら、アルコールらしい。
試しに一口だけ口に含むと、これは間違いなく白ワインである。
この後にゲームをやると言っていた事が頭の片隅に残っているが、このぐらいの量なら支障あるまいとグビグビと飲む。
口の中のリセットに飲むには、勿体ないぐらい美味い。
口がスッキリすると、今度は目についた何かのパイを一切れ。
甘いと思い込んで口に運ぶと、塩味がきいていて、他にピリッと辛い。
例えるなら、ミートパイの肉の部分を潰した芋に変え、唐辛子と胡椒で味付けした様な感じである。
これは、食べやすい上に程よく濃い味付けで、もう二切れを皿代わりのパンの上に確保する。
そんな意地汚い事をしていると、エルムが座っていた席に誰かが移動してきた。
見てみると、オルデンがそこにいて彩芽はビックリして食事の手が止まる。
「お口にはあいましたか? カスカポテトのパイです」
「あ……え、はい! すごくおい(こほっ)ひぃです」
急いでパイを飲み込もうとして、軽くむせてしまう。
「そんなに気を張らなくて良いですよ、キジョウアヤメさん」
「は、はい。あの、えと、何か私に用、ですか?」
「はい。あまりにも美味しそうに食べているので。こちらの豆もいかがですか?」
「あ、いただきます。あははは……」
彩芽は、そんな理由で来るわけないだろと、誤魔化し笑った。
「もちろんそれだけではありません、お客様を誰ももてなさないのでは、問題があると思いませんか?」
オルデンはニッコリと笑った。
「そんな、私なんかの為に領主様が」
正論。
だが、領主様が迷子の相手と言うのは、いくら何でもおかしい。
すると、オルデンは彩芽の心を読んでいる様に言葉を続ける。
「実は、親しい友人からあなたの事を聞きました。その事で、個人的にお話をしたくて」
「友人?」
「こちらに来てもらえますか? 静かな所で二人で話をしたい。お時間は取らせませんよ」
* * *
距離にして隣の部屋。
食堂の談笑が聞こえてくる。
人が払われた厨房の一角で、オルデンと彩芽は二人きりになる。
すると、オルデンから意外な人物の名前が出て来た。
「アコニー・キング、高級娼館の支配人と言えば分かりますよね。彼女とオルデン家は祖父の代からの付き合いがあります」
「アコニー、さん……昨日お世話になりました。けど、あの、話って言うのは?」
「実は……ストラディゴス・フォルサがあなたに、ハッキリ言えば酷い事をしていないか、彼女が気にしているのです」
「えっ」
「皆の噂によると、そのような事は無いようですが、噂を鵜呑みにするのは僕の主義に反します。アコニーに頼まれた手前、直接確かめたくこの様な場を設けさせてもらいました」
「あの、本当に大丈夫なので、とっても親切にして貰って、今日も私が二日酔いで倒れちゃったら一日中、付きっ切りで介抱してくれて」
「先ほど、彼があなたに食事を食べさせているのを見て、アコニーの考え過ぎだと思ったんですが、僕も彼の事を知っている手前、一応確かめようと。僕自身、フォルサの変わり様に、かなり驚いています。何も無いようならアコニーにはその様に伝えます。いらぬ不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ない」
「いえ、アコニーさんにありがとうと伝えください」
「実は、もう一つ」
オルデンは、こちらが本題という雰囲気で話を始めた。
「アコニーから気になる事を聞きました。あなたが別の世界から来たと」
「エルムさんにも……その事を相談しようと思っています。実は、帰り方が分からなくて」
「別の世界から来たと言う話、僕にも詳しく聞かせて貰えませんか?」
彩芽、地図を描く
彩芽は、オルデンに自分のいた世界の事を伝えようとする。
最初、何から話すか迷ったが、相手が何を知りたいか分からない為、抽象的でもわかりやすさを念頭に話そうと思案する。
「分かりやすさってのはね、言ってしまえば共通点よ。分かりやすさが一個も無い話は相手を疲れさせる」
とは、件の尊敬する先輩(女)が昔、彩芽に言った台詞。
仕事と言う場で、相手に説明したり説得を試みる時「共通点をいつでも入り口に置け」とも言われ、彩芽は目から鱗が落ちたものだ。
例えば、最初にプログラマーの仕事や、調子に乗って人工知能の様な話題をオルデン公にいきなり話し出すのは無能のする事だ。
それを理解する為の前提の知識が無いのは、容易に想像出来ているのだから。
それを伝えた方がオルデン公が喜ぶ事が予想されると彩芽が判断したのなら、この世界にありそうも無いそれらの事柄に似た物をこの世界で見つけてからの方が好ましい。
異世界生活も(ほとんどを食って、酔って、寝て、世話をされているうちに)丸一日が過ぎた。
アコニーとストラディゴスに説明した時の様なグズグズな事は、目の前にいる領主様相手にしたく無い。
厨房の一角、窓の外はすっかり暗くなり、窯とランプの明かりだけに照らされる中。
椅子に座って小さなテーブルを挟む二人。
彩芽は、話を始める。
魔法を誰も使えず、人種もこの世界に比べれば確実に限られ、生息する生物も違う世界。
と様子見に、とりあえず差異を伝える事にする。
そんな彩芽の世界の情報を聞いてオルデンは、「他には?」と自由に話す様に促してくる。
まずは、彩芽が話しやすい環境を整えようとしてくれているのだろう。
続けて彩芽は、世界の外堀を埋めようと思う。
「えっと、まず世界地図が完成しています」
一言目で、オルデンは嬉しそうに驚く。
「地図が、完成。 それは、どうやって作られたんだい? 各国の地図を寄せ集めた結果なのか?」
「えっと、いいえ。最初はそうやって出来て行ったと思います。けど、今では空から地面を鳥みたいに見下ろす事が出来て、あと、写真と言って景色を簡単に絵に出来る技術も進んで、そのうち大勢の人が空から全ての地面を絵にして、それを全部並べたんです。そうやって、全ての陸地がわかって、地図が完成しました」
「全ての地面を全て絵に? どうやって、その絵で世界が全てだと断言できる? やはり世界の果てを見つけたのか? 世界の果ては、どうなっているんだ?」
オルデンは、目の前の迷子によって天動説から地動説への脱皮に近い事を経験させられそうになっていた。
「世界に果ては無いんです。ずっと右に進むと、左から戻って来てしまうんですよ」
「それは、世界が筒になっていると言う事、いや、そうか!? 世界は球体なのか!?」
オルデンの物わかりの良さに、彩芽は驚く。
世界の端が滝になっている的な事を、今さっきまで信じていた人間とは思えない。
彩芽は説明を続ける。
地面があるのだから、そこに物を乗せれば良い。
陸地の上に住む人口は七十億人を超えていて、二百近い国がある事。
殆どの国には、ネヴェルの城よりも遥かに大きな高層建造物がゴロゴロあり、馬車は廃れて代わりに車・電車・飛行機といった巨大な道具で、お金さえ払えば誰でも遠くに素早く移動できる事。
すると、話を興味深そうに聞いていたオルデンは、彩芽を試す様にこんな質問をしてきた。
「あなたの暮らしていた国の名は?」
「日本です」
それを聞いてオルデンは、当たり前だが知らない反応をし、更に質問を続けた。
「二ホン……アレクサンドリアと言う都市に聞き覚えは?」
「う~ん、そんな名前の宝石があったような気はしますけど、外国かもしれないです」
「では、アヴァロンと言う地名は?」
「何か本のタイトルにあったような……」
「マケドニアと言う国は?」
「それは聞き覚えがあります。確かナッツが有名な」
それはマカダミアである。
(マケドニアは国だが、マカダミアは人名をベースにしているので地名では無い。ちなみに原産国はオーストラリアである)
「……少なくとも、どれも聞き覚えはあるんだね?」
そう言いつつも、オルデンは何かを確信している面持ちである。
「はい、って言っていいのか自信は無いですけど、でも、なんで領主様がそんな場所の名前を?」
「異世界の伝説や伝承は、世界各地にあるからね……君のいた世界の、世界地図を大まかにでも描けるかい?」
「はい。それなら」
彩芽がどこに描こうか少し考えると、食堂のテーブルに置きっぱなしのエルムの黒板を思い出す。
「少し待っててください、すぐに戻ります」
彩芽は小走りに食堂へ戻る。
まだストラディゴスもエルムも戻っていない。
テーブルに置かれた小さな黒板を見つける。
カードゲームでは全員一勝したので覚えるのは容易と、書いてある字を手でこすり消し、その場で大まかな地図を描いた。
中々に上手い。
それを持ってオルデンの所に戻って見せると、オルデンは珍しく涼しげな顔を少し曇らせ、判断に困る顔をする。
しかし、すぐに何かに気付いたのか黒板をひっくり返し、まるでずっと探していたパズルのピースを見つけた様な興奮を目に宿し輝かせ始めた。
「キジョウアヤメさん、あなたに見て貰いたい物があります」
* * *
彩芽がオルデンに連れてこられたのは、城の地下宝物庫。
普段は領主の持つ鍵が無いと開かない、金庫である。
エルムとストラディゴスが席に戻ってこない為、オルデンは近くにいたメイドに「二人が戻ったら、キジョウアヤメさんを少し借りているが、すぐに戻る」と伝言を頼んだ。
メイドは、オルデンに深く頭を下げて無言で返事をすると、頭をあげ、一瞬だけ彩芽の方を見た。
二人の目が合う。
だが、彩芽はオルデンを追いかけねばと歩き出したため、メイドの視線に気づいたが、すぐにどうでもよくなった。
宝物庫には、棚が並んでいて、そこには鍵のついた木箱が大量に置かれていた。
彩芽は最初、そこが城の宝物庫だと気付かなかった。
薄暗い倉庫にしか見えない、とても広い空間である。
オルデンが自ら持つランプのゆらゆらとした明かりを頼りに宝物庫の中を突っ切ると、奥に小さな部屋があった。
オルデンは宝物庫の鍵とは別に、首から下げていた鍵で扉を開け、中に入る。
彩芽も続いて部屋に入った。
そこで目に入って来た物を、彩芽は知っていた。
オルデンは、首から下げていた鍵で扉を開け、中に入る。
彩芽も続いて部屋に入った。
そこで目に入って来た物を、彩芽は知っていた。
「……!」
それは、巨大な額縁に入れられた彩芽の世界の古地図であった。
地図としてかなり大きく、大きな複数の紙をつないでいるのが分かる。
経年劣化が酷いが、焼けやボロボロになった折り目を見ると、折りたたんで持ち運び、実際に使われていた物の様であった。
メルカトル図法ではなく、ランベルト正積方位図法で描かれていて、地図には大きな丸二つの中に大陸や島が描かれている。
驚きながら彩芽が近づき、地図を見る。
彩芽が黒板に描いた地図とは南北が逆転し、さらにヨーロッパを中心に描かれていた。
だが、多少、歪な形だがちゃんと日本も載っていて、重要な大陸にも抜けは見られない。
文字は英語で表記されており、一色刷りだがちゃんと印刷されている所を見ると、そこまで古い物では無いらしい。
「キジョウアヤメ、あなたのいた国はわかりますか?」
「ここ! ここです!」
彩芽は興奮気味に地図の左端にある列島を指さす。
「では、これが何と書いてあるか読めますか?」
そう言ってオルデンが指さしたのは、ヨーロッパだった。
彩芽が顔を近づけて文字を見る。
そこには、手書きでこんな事が書かれていた。
「This is my country……ここが私の国? イギリスの人?」
これで良いのかとオルデンを見ると、その瞳だけがらんらんと好奇心に輝き、異常なまでの興奮が彩芽にも伝わってくる。
それでいて落ち着いて見えるのに、明らかに目の前の領主様の、彩芽を見る目が変わっていた。
地下宝物庫と大食堂の往復だけで、かなりの時間がかかってしまった。
さすがにストラディゴスとエルムは席に戻っているだろうと思いながら、オルデンと共に彩芽は戻ってくる。
着いた大食堂の中を見てみると、席に戻った二人の姿が目に入った。
ろくに会話もせずに黙々と食事をしている様である。
「ただいま~、何かあったの?」
彩芽が自分の座っていた席に戻る。
「いや、別に。オルデン公、アヤメを連れてどこまで?」
くくくっ、とエルムがおかしそうにストラディゴスを煽り笑いながらオルデンに聞いた。
ストラディゴスは、面白くなさそうにエルムを見る。
事情が分からない彩芽は、皿に取っておいたパイをモグモグと食べ始める。
「キジョウアヤメさん、僕もアヤメと呼んでいいかな?」
「ふぁい、もひろん」
オルデンからの嬉しい申し出。
彩芽は、口を手で隠し、口の中のパイをどうにか処理しようとしながら返事をする。
「ほら、これを飲め」
ストラディゴスが彩芽のコップに白ワインをつぐ。
「ありがと」
と言いながら、白ワインで租借したパイを喉の奥に流し込む彩芽。
「ふぅ」と一息つき、もう一口白ワインを飲もうとする。
そんな彩芽を見守りながら、オルデンはこんな事を言い出した。
「アヤメは、僕の賓客として迎える事にした。二人とも、今後はそのつもりで応対して欲しい」
その言葉を聞き、ストラディゴスとエルムが、同時に飲んでいた白ワインを盛大に吹き出した。
彩芽も驚いて思わず吹き出す。
領主の言葉と、騎士団団長と副長、そしてその客人がワインを吹き出す事態に、周囲でさっきまで聞こえていた談笑がピタリと止む。
注目が集まってしまったと、オルデンは話を続ける。
「はぁ、言っている傍から……皆も! 今、この時より、彼女は僕の客だ。そのつもりで頼む! さあ、アヤメ、着替えに行こう。その恰好では風邪をひいてしまう」
「オルデン公!? きゅ、急にどうしたのですか!?」
エルムに驚き聞かれ、オルデンはいつもの笑顔で答える。
「何か、君の不都合でもあるのかな、コルカル?」
彩芽は、白ワインまみれになりながらも、エルムとオルデンの話の雰囲気に入って行けず「私はどうしたら」と戸惑う事しか出来ない。
宝物庫での事で、気に入られたのは容易に想像がつく。
しかし、正直オルデンの賓客と言う待遇の凄さが、エルムとストラディゴスの驚き方でしか分からない。
更に、宝物庫を出る時にあった事だ。
オルデンには、あまり公けの場で異世界から来た事は言わない方が良いと言われたばかりで、何をこの場で言えば良いのか、すぐには思い浮かばなかった。
「いえ、そんなつもりでは、ですがアヤメ、いえ、アヤメさんとは、その……食後のカードも控えた方が?」
「その食後のカードの話だが、勝てれば無料で相談にのると言うのだろ?」
「え、ええ、あ、まあ、その、他にも一千フォルトとか、言う事をきくとか……」
それを聞き、オルデンは少し考え、こんな事を言い出す。
「ならばそのゲーム、僕も混ざろう。いいかな? アヤメ」
「私は、全然かまいませんけど」
「コルカル、フォルサ、どうなんだ?」
「も、もちろん構いませんが、なあ?」
エルムの言葉に、ストラディゴスが首を動かして同意を表す。
「オルデン公、本当に急にどうしたのですか?」
「大切なお客様をもてなすのは、城主の務め。そうだろう?」
この一連の流れの中で、ストラディゴスは彩芽とエルムの顔にワインを噴き出し、うなずくだけ。
ずっと驚いた顔で固定されたまま、開いた口も塞がらずに話を聞いていた。
ちなみにストラディゴスも彩芽とエルムが吹いたワインで服がびしょ濡れである。
「僕はアヤメを着替えさせてくる。二人も着替えたら、そうだな。僕の部屋に来てくれ。そこで誰にも邪魔をされずにアヤメをもてなしたい」
「わかりました。我々は、いつ頃うかがえば?」
「そうだな。赤月が大月と重なる頃に来てくれ。さあアヤメ、行こう」
そう言うと、オルデンはアヤメの椅子を引き、慣れた手つきでエスコートしだす。
彩芽も、あまりにも紳士的で優雅な所作に誘導されてしまい、身体が勝手に動いてしまう。
「えっと、あとでね」
と彩芽はストラディゴスとエルムに言って、その場を離れるのを少し寂しそうにしながら大食堂を後にした。
その姿を見送りながらストラディゴスは、まだ固まっていた。
彩芽がオルデンの賓客となる事自体は、喜ばしい。
地方を治める力ある領主は、下手な王よりも力がある。
マルギアス王国の海路の大動脈と、貿易の半分近くを事実上掌握している商業都市ネヴェルを治めるヴィエニス・オルデン公爵はマルギアス王家の血も引いており、その影響力は王国内でも五本指に入る実力者であった。
その人物に理由はどうあれ認められた時点で、魔法使いとしてのエルムに相談するのに金が無いなんて問題は、解決したも同然である。
カードゲームは、彩芽が勝てば好。
オルデンが勝てば彩芽をもてなし、ストラディゴスが勝ってもエルムが勝っても、借金の動きがあるぐらいで、彩芽にはオルデンの一言で、エルムは相談に乗らざるを得ない。
つまり、カードはオルデンの介入によって、ただのお遊び、お客様をもてなすだけの物に意味を書き換えられたのだ。
魔法を刻んで言う事を一つきかせる権利にしても、何でも命令できる訳では無い。
言うなれば、お願いを一つすると相手がききたくなってしまう強力な暗示に近い。
そして、その暗示は、言う事をきけば簡単に解ける。
つまり、暗示を利用する両者の信頼関係が無いと、使用後に関係が破綻する事間違い無しの罰ゲームなので、これもやはりオルデンの庇護下に置かれた彩芽には、下手な事は願う事が出来なくなる。
もちろん、オルデンにバカな頼みをする事はエルムもストラディゴスも出来ない。
オルデンが悪用する事も無いとなると、彩芽だけが不確定要素となる。
それらの事は、彩芽がリスクを負わずに、帰る方法を探せる事にもつながるので、良い事の筈だった。
しかし同時に、ストラディゴスは強烈な不安を隠しきれない。
彩芽がもし、オルデンと二人きりで、あの爽やかな声を耳元で囁かれ、優しい言葉を浴びせられ、甘いマスクで迫られるなんて事になりでもしたら、そんな想像をしてしまう。
仕える主が彩芽を気に入る事は嬉しい。
だが、彩芽が気に入られ過ぎては、今のストラディゴスにとっては大問題である。
「……なんか、なんだ。残念だったな! 飲むなら付き合うぜ?」
ワインまみれにされながらも、エルムは巨人に優しく声をかけた。
まるで、一つの初恋が終わったのを、目の前で見たように。
「なあ、みんな! 一緒に飲むだろ!」
兵士や騎士達は、エルムの言葉に「朝までだって飲みましょう!」「付き合いますよ!」と返事をしてくれる。
独身の大貴族が、若い女性を特別扱いするのに、そう多くの理由は無いと、皆が思っていた。
オルデンが恋敵になったのなら、一介の騎士は素直に身を引くしか無いのは、誰の目に見ても明らかだ。
今回ばかりは、いつもストラディゴスに意地悪をするエルムでも、さすがに同情するしか無い。
「どした? ストラディゴス? おい? 生きてるか?」
「フワァッーーーーーーーー!!!?」
「副長が壊れた!!?」
ストラディゴスの中の、騎士と恋焦がれる男、二つの立場が求める相反する結論。
一人の巨人が矛盾に挟まれ、処理出来ない感情が生まれた事で、悲壮感漂う謎の叫びとなり大食堂に響きわたった。
興味津々だった周囲の者達からの普段では絶対に無い同情的な視線が集まり、これ以上優しくされたらストラディゴスは立ち直れないと思いながら「取り乱した。頭を冷やしてくる」と言って、フラフラと大食堂を出ていく。
誰も、それを追う事も、止める事も出来ない。
カードに勝ってエルムの嫌がらせを回避する必要が無くなった代わりに、もっと大きな問題が発生してしまった。
廊下の窓から夜空を見上げる。
分針の様にゆっくりと動く赤い月が、空に静止している大きな月にジワリジワリと近づいているのが見えた。
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