8
夏祭りに行ってから、私は男の子の恰好をしなくなった。
元からクローゼットの奥にしまい込んでいた服をさらに奥へと隠し、視界に入らないようにした。前は何も考えずに、むしろ好きで着ていたはずのメンズ服が突然着れなくなった。嫌悪感すら抱くようになっていた。
かと言ってスカートやワンピースを着る気にもなれず、一日中部屋でジャージのまま過ごした。そんな私を見て、「色気のないやつ」と兄が蔑むように言う。余計なお世話だった。
扇風機の風に当たりながら、天井を見ていると、電話が鳴った。
床に落ちていたスマホを拾う。沙苗からだった。
「もしもし?」
電話の向こうで沙苗は泣いていた。ギョッとして私は飛び起きた。
私が理由を訊いても沙苗は、今から会いたい、と泣きじゃくりながら繰り返すだけだった。一時間後にいつもの駅で落ち合う約束をして、私は電話を切った。
クローゼットの前に立って、私は悩んだ。
結局私は、奥からメンズ服を取り出して、心を無にしてそれを着た。鏡に映る青年に心底腹が立った。
待ち合わせ場所に行くと、チャラそうな男たちが沙苗に絡んでいるのを見つけた。沙苗の目は涙で腫れていた。私は走って、彼女と男たちの間に割って入る。沙苗が目を見開いて、私を見たのが分かった。
「僕の連れだから」
沙苗の手首を掴んで、走り出す。駅を出て、近くの喫茶店に入った。窓から見えないように端の方の席に座る。お互いの飲み物が届くまで、私も沙苗も黙ったままだった。
アイスコーヒーを一口含んでから、私は口を開いた。
「何があったの?」
沙苗は俯いたまま、彼氏が浮気をして、許せなかったから別れたという話を時間をかけて私に話した。
「本気で好きだったの」
そう繰り返す沙苗に、私は何を言えばいいのか分からなった。ただ相槌を打って、沙苗の話に共感している振りをした。
帰り際、沙苗が「累が男の子だったらよかったのに」とおどけて言った。
その言葉にいろんな感情が湧き上がったけど、結局、「私もそう思う」と無意識のうちに言っていた。
でも、こんな役回りは二度と御免だ。
夏休みが明けた。
教室に入ると、一瞬静まり返って、皆が私の方を見た。
その日から、私は廊下を歩くだけで、辺りから棘のような視線と陰口を向けられるようになった。
「あの人男装の趣味あるらしいよ」
「それで女の子引っ掛けて遊んでたんだって」
「何人も騙されたって聞いたよ」
「男になりたいんだってね」
「女の子に貢がせてたらしいじゃん」
「心は男とかいうやつ?」
「だからって女の子泣かせるのは最低」
否定する機会もなく、噂は広まっていった。
どうやら沙苗と一緒に居るところを撮られたようだった。
噂は人から人へと伝わっていく過程で、尾ひれが大量に付いていた。初めは男装している時の写真が一年の間に出回っただけだった。これを好機と見た福園杏那によって写真と噂は学年を越えていき、いつの間にか私は、男装して女の子を引っ掛けて遊ぶクズ野郎のレッテルを貼られていた。
追い込まれた私は一縷の望みを知希に賭けようと思った。
知希はいつも僕に的確なアドバイスをくれる。今回も今の私に必要なアドバイスをくれるはずだ。そう思い、私は学校で知希に接触するのを避けて、お祭りの日以来行っていなかった小野寺家を訪ねた。
夏祭りに行ってからもう二か月も経ったことに私は驚いていた。
私はいつものように呼び鈴を鳴らす。しかし何度も鳴らしても、誰も出なかった。
留守かもしれない。私はどこかで時間を潰そうと踵を返した。
その時僕は、小野寺家のポストに“入居者募集中”と書かれた張り紙が貼ってあるのを見つけてしまった。
どういうことだ?
私は全く理解出来なかったし、したくもなかった。待っていれば誰か帰ってくるかもしれない。終電の時間ぎりぎりまで粘った。でも、誰も帰ってはこなかった。もう一度家を見上げてみたが、どこにも明かりは付いていなかった。よく見ると明かりどころかカーテンも家具も無くなっていた。
私は呆然とその場に立ち尽くしていた。その後どうやって家に帰ったのか覚えていない。家に着いたのが日付の変わる直前だった。
「累!あんたどこ行ってたのよ!」
母がヒステリックに鬼のような形相で叫ぶ。隣に父もいた。
「……」
「何か答えなさい!言わなきゃ分からないでしょ!」
「そうだぞ、累。怒らないから正直に……」
「ごめん。……もう寝る」
どこに誰と行っていたのか問い詰める声が背後から聞こえたが、私は何も答えずに、部屋に逃げる。そしてそのまま布団に潜り込んだ。
次の日の登校中、私は大手引っ越し会社のトラックを見つけた。
その瞬間、私の身体の中の血が沸騰したかのように興奮した。知希は引っ越しただけかもしれないという可能性を私は全く考えていなかったのだ。私は全力疾走で学校に向かい、真っ直ぐ一組の教室に行った。
「あの!」
私を見て一組の空気が凍り付く。私は思わず怯むが、負けじと彼らを見据えた。
「小野寺知希はいますか⁉」
もはや悲鳴に近い声だった。一組の人たちは困ったように顔を見合わせ、私に残酷な事実を告げた。
その時初めて、私は知希が退学したことを知った。
私は事務室に走り、事務の先生を問い詰める。
「退学したって、どういうことですかっ!」
私は声を荒げた。名前も知らない事務の先生は困惑していた。
「どういうことって言われてもね。だから一年一組の小野寺知希君は二か月前に自主退学してるんだよ」
無理を言って退学届の受理された日付を聞き出すと、私と知希と光希くんの三人でお祭りに言った次の日だった。私の頭は混乱していた。
事務室を追い出された私は覚束ない足取りで廊下を歩く。そんな私を見て、同級生たちは露骨なまでに視線を逸らす。
七組の教室の前に加奈子が福園杏那と共に立っていた。一瞬目が合うが、何事もなかったかのようにされる。友達だと思っていた加奈子ですら簡単に裏切った。
「そんな人だとは思わなかった」
その一言で私と加奈子の友情は跡形もなく消え去った。私に為す術は無かった。
それからの日々は地獄だった。
学校では膨れ上がる噂に暴行を加えられ、家では自分を責める。
まだ僕の中では、自分が男なのか女なのかという命題に対する答えは出ていなかった。
知希は悩めばいいと言ったがそれも出来そうにない。今はただ矛盾だらけの自分を責めるだけだ。
知希のおかげで維持出来ていた人間関係はもうズタボロだ。信頼していた加奈子にも裏切られた。学校に行くのが嫌になった。このままサボってしまおうか。でも、チキンな私は学校から親に連絡が行くのが怖くて、週一、二のペースで遅刻を繰り返すようになった。
十一月になった。学校に遅刻してきた僕は屋上でフェンスに凭れ掛かり、沈んでいく夕焼けをぼーっと見ていた。
刻々と変わっていくグラデーション。いつしか知希に話した虹の話を思い出す。
あんなに一緒にいたのに。
知希と私の接点は、もうどこにもなかった。
退学してしまったのなら見つける手段は皆無に近い。加えて知希はスマホを解約してしまっていた。ここまでくるとお手上げだ。私に出来ることはもう何もない。
「村谷累!」
私は億劫そうに振り返る。
屋上の入り口に上尾が立っていた。私は驚く。彼女はずかずかと私に歩き寄った。彼女は私の目をじっと見据える。そして、彼女は力一杯の平手打ちをした。
「死ぬな!」
「え?」
「あんたが死んだら、知希が悲しむから止めてよ……」
「僕は死なないよ」
言ってから気付く。やってしまった。上尾が僅かに眉を顰めた。
「僕、ね。だから知希とはただの同級生って言い張ってたの?」
上尾が悲しそうに言った。
「違う、そうじゃない…。ほんとに知希とは何も……」
私は上尾に指摘されるまで、自分が泣いてることに気が付かなった。視界が霞んで、夕陽と上尾が同じに見えた。
「あんたが良ければ、何があったのか教えてくれる?」
僕は泣きじゃくりながら、これまでのことを上尾に話した。
性別のこと、沙苗のこと、知希のこと。
上尾は驚きつつも私の話を黙って聴いていてくれた。彼女は自然な動きで泣いている私の背中をさすって、抱きしめた。
「じゃああの噂は杏那が流した真っ赤な嘘なんだ……。知らなかったとはいえ、私も事実だと思ってあんたを軽蔑してた。ごめん」
「上尾、さんは、わ、悪くない。……全部私が、悪い」
「あのね、私、知希に頼まれたの。俺が居なくなったら、上尾が累を支えてやってって。強い奴だけど意外と脆い所もあるからって。そのときは冗談でしょ、って言ったけど、でも、私決めたよ。知希の頼みもあるけど、あんたと仲良くなりたい。ダメかな?」
「……いいの?」
「知希が惚れるのも頷けるくらい良い奴じゃん、あんた」
私の目から大粒の涙が零れた。
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