矢山行人 十五歳 夏09
夏休みの宿題を提出した日の放課後、秋穂の家を訪ねた。
相変わらず秋穂はテレビ画面に向かって、ゲームコントローラーを操作していた。僕は秋穂の隣に座って、学校のことを喋るでも、僕の近状を喋るでもなく、ただ彼女のゲームプレイを眺めた。
一時間くらい、二人並んでテレビ画面に座っていた。その間で交わされた会話は、五分に満たなかった。帰り際に秋穂のCDラックが目に入った。
「何かCD借りていっても良いかな?」
と僕は言ってみた。
「いいよ」
秋穂の許可が下りたので、CDラックのタイトルを指先で追った。
三十枚か、四十枚くらいの数が、そこには並んでいた。殆どが女性ボーカルだった。爪先にこつんと当たったのが「DREAMS COME TRUE」のCDだったので、それを借りた。
「じゃあ、また来るね」
「うん」
家に戻ると、母親が昨日の外泊についての嫌味を言ったが、僕は適当に謝って部屋に引っ込んだ。制服を脱いで、部屋着に着がえてから借りたCDをコンポで流した。
二時間くらい繰り返し聞いていると、すごく懐かしい匂いが蘇ってきた。
昔、父が乗っていた車の匂いだ、とすぐに思い出した。
僕は小学二年生の春から、四年生の冬まで親戚夫婦の家に預けられていたことがあった。その親戚の家に行く時に乗せられた父の車内で僕は「DREAMS COME TRUE」の曲を聴いた。
父は同じCDアルバムをずっと流していた為、親戚夫婦の家へ行く数時間、僕はドリカムのボーカル吉田美和の声を聴き続けた。
当時の僕は生傷が絶えない状態で、車が揺れる度に腕の痣がずきずきと痛んだのを覚えている。
傷は全て兄から受けた暴力によるものだった。
兄は学校で受けたストレスの全てを僕にぶつけた。家に帰るとランドセルを置いて、その足で兄は僕を殴った。暴力は一分で終わることもあったし、二十分、三十分と続くこともあった。
僕は人と目を合わせられなくなって、人が近づくだけで肩を震わせて怯えるようになった。両親が僕と兄を遠ざけようとしたのは当然のことだった。
親戚の家での生活は僕に安らぎをもたらした。地元の小学校に通い友達も出来た。僕は食事中に笑うことさえ出来るようになった。
小学四年の冬、丁度、クリスマスの日だった、兄が親戚夫婦の家に現れ、僕に頭を下げた。
人を許すこと、人を信じること、そういうことを親戚夫婦は僕に言った。僕は頷いた。そして、帰りの父の車の中でも「DREAMS COME TRUE」を聴いた。
あの親戚夫婦の下で過ごした二年間で僕は僕という人間がまったく変わってしまったように感じた。
しかし、親戚の家から戻ってきた僕を待っていたのは、以前と変わらない生活だった。兄は僕に傷を残してはならない、という学習をしっかりとしていた。
が、暴力を振るってはいけない、という学習はし損ねていた。
一度、兄はドジを踏んで僕の顔を殴った。
その衝撃で歯が一本抜けた。
親戚夫婦の家で過ごしたことで変わったと思っていたものは、結局のところ何も変わっていなかった。その事実を僕はうまく認めることができず、殴られて抜けた歯を近所の空き地に埋めた。
誰にも見つからないよう、ひっそりと埋めて、少しだけ泣いた。変わったと思いながら、弱く何もかもに屈している自分が憐れで仕方がなかった。
そんな歯が埋まった空き地で僕は陽子と知り合った。
何の縁なのか分からないけれど、悪くないと思った。
僕はコンポの電源を切って部屋を出た。
そのまま玄関へ向かい、電気を点けて靴を履いた。鍵を持って、電気を消して外に出た。まだ生ぬるい夏の空気の中を僕はあてもなく歩いた。道路脇の歩道を歩いていると、隣を車が通り、それが不快で路地に入った。
静かな住宅街の外れに自動販売機が目についた。煙草の自動販売機だった。
そこで小銭を入れて、煙草を買った。
未成年が自販機で煙草を買えないようにする為、タスポというのが導入される話をニュースで見かけた。でも、僕の町ではまだお金を入れて、ボタンを押すだけで煙草は買えた。
システムは目で見る限りにはシンプルで、裏側がどれほど複雑化されようとも、今のところ僕には関係がなかった。
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