矢山行人 十五歳 夏08
『陽子へ
可愛い寝顔を見てたら、我慢できなくなっちゃいそうだったので帰ります。リビングにあった煙草を一本拝借しました。お父さんのかな? 怒られるようだったら、呼んでください。
子供の目に届くところに置いている人が悪いと、言い訳しにやってきますので。
夏休みの宿題、改めてありがとう。お礼、ちゃんとするよ。
それでは、また学校で。
行人。』
そんな手紙を残して、朝方の五時くらいに陽子の家を出た。帰り道で、見慣れた人とすれ違った。
「あれ、行人くん」
秋穂のお兄さんであるナツキさんだった。短パン、半そでのジャージ姿だった。
「おはようございます。走ってるんですか?」
「ん? たまにだけどね」
真面目な人だなぁ。
ナツキさんは僕とは逆方向に進んでいたのに、わざわざ立ち止まってくれた。
「この前のお土産、ありがとう。美味しかったよ」
「良かったです」
西野家の人は本当に律儀だ。
それは僕だから、という訳ではなく誰にでもそうなのだろう、というのが分かるからこそ僕は彼らが好きだった。
「それで、今日は朝帰り?」
からかうような物言いだった。
「友達の家で勉強していました」
「へぇ。あ、そうか。行人くんたちは今年、受験だもんね」
受験。
夏休みが明けてもまだ、僕の中で現実味のない言葉だった。
「ナツキさん。岩田屋高校でしたっけ?」
「ん、そうそう。良い所だよ」
「秋穂も、ナツキさんと同じ高校に行きますかね?」
「どーだろうね? まぁ、家からそれほど遠くないし、特別な理由がない限り、岩高じゃないかな。行人くんは?」
口ごもった後、僕は言った。
「少しだけ、学校に行かないって選択もあるかな、って思っています」
「中卒ってこと? それで、どーするんだい?」
「働きます。選ばなきゃ、仕事はあるでしょうし」
お金さえあれば、家から出ることができる。兄と顔を合わせずに済むのであれば、働くのも決して悪くない。
ナツキさんが少し考える顔つきになって、進行方向を指差した。
「そこのコンビニで缶コーヒーでも奢るから、そっちで少し喋らないか?」
「ぜひ」
と僕は肯いた。
高校に行きたくない、そういう気持ちを口にしたのは初めてだった。両親にさえ言ってないことを、ナツキさんに言ってしまった自分が不思議だった。
陽子と待ち合わせしたローソンで、ナツキさんはよく冷えた缶コーヒーを二つ買ってくれた。朝方のコンビニは人がいなかった。アルバイトの中年男性が不機嫌そうな表情でレジに立っているだけだった。
ローソンの小さな駐車場の車止めブロックに立って、缶コーヒーを飲んだ。
「さっきの話だけどね。いろんな考えを持って行人くんが、そういう思いを抱いているってのは良いことだよ。ただ一般論を言わせてもらえれば、行人くんは高校に行くべきだよ」
一般論。好きじゃない言葉だった。
けれど、ナツキさんが言うと悪くない響きだった。
「高校に行って、僕は何をすべきなんでしょう?」
無駄な時間を過ごすくらいなから、働いてお金を稼いだ方が有意義じゃないだろうか?
「何をするべきか、を捜しに行くべきなんだよ。今の僕もだし、行人くんもだけど、まだ色んなことを知らないんだよ。言うなれば、センチメートルの概念しか僕らは知らないんだ」
「センチメートル?」
すぐに浮かんだのは、三十センチ物差しだった。
「つまり、僕らは目の前にあるものを、センチメートルの概念で、その大きさを測ることはできる。けど、リットルやキロ数を知らないんだ。測定の概念の幅を広げる努力をしなければ、世界は広がらない。ずっと狭い世界で生きていくことになっちゃう。それは詰まらないだろ?」
分かるかい?
という顔でナツキさんが僕を見た。
分かる気がした。それはつまり、視野の問題なのだ。視野が狭い人間には、なりたくない。
けれど、と僕は言った。
「学校に行くことが、世界を広げることに繋がると、僕は思えないんです」
「うん。それはその通りだよ。だから、考えるべきなんだよ」
「なにを?」
「周囲の人間が高校に行く中、高校に行かないって選択を取ることで広げられる世界は、どんなものか、を」ナツキさんがにっと笑った。「そして、学校に行くことで広げられる世界は、どんなものか、を」
分かりました、と言ってナツキさんの言葉を飲み込んだ。理解できているとは、到底言えない「分かりました」だった。
「ちなみにさ、行人くん」
「はい」
「秋穂のこと、好きじゃなくなったのかい?」
何を言っているのだろう、そんな訳ないじゃないか。
「好きですよ」
「なら、一緒の学校に行けばいいんじゃないか」
「好きとか一緒にいるとか、そういうものだけで、秋穂の横に居て良いのかなって少し考えちゃったんです」
本当に、そんなあやふやな感情論だけで僕は秋穂の隣に居続けられるのだろうか。少なくとも、今の僕はそれを疑っている。
「ふーん」
ナツキさんが缶コーヒーを飲み、「相変わらず、うちのお姫様は愛されているなぁ」とぼやくように言った。そこには少し誇らし気な感情も含まれているように思った。
僕はあえて何も言わなかった。
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