矢山行人 十五歳 夏07

 陽子が寝息を立てはじめたのを確認してから、ベッドの布団をかけた。

 それから電気を消した。

 リビングに行って電気を点けた。四人掛けのテーブルの他に小さなテーブルがあって、その上にはウィスキーの瓶と煙草、そして灰皿が並んでいた。子供が普通に生活する空間に煙草を残しておくなよ、と思った。


 煙草の箱とライターと灰皿を持って、ベランダに出た。

 涼しい風が吹き抜けた。六階の風は地上とは、やはり違っていた。

下を眺めると、つつましい夜景が広がっていた。決してきらびやかでないところが、田舎らしい。


 僕は煙草を咥え、火を点けた。

 煙が空に漂うのを眺めていると、薄くぼやけていた過去の記憶がよみがえってきた。

 それは丁度、一年前の夏休みだった。

 一緒にいたのはミヤで、姉から煙草をくすねてきていた。僕らは家を抜け出して、夜の町を歩いた。煙草が吸える場所がどこかないか、と。

 しばらく彷徨い歩いた結果、神社へ行こうとなった。


 夜の石段は危なく、僕とミヤは普段よりも慎重に足を動かさなくてはならなかった。そうして辿り着いた神社には当然、人はいなかった。

 僕らは真っ暗な境内の真ん中に座り込んで、煙草を咥えた。

 一瞬だけ灯されるライターの火は、ちっぽけだったけれど、僕らをわくわくさせるのには十分だった。

 煙草を一口吸って、二人とも咳き込んで、真っ暗闇で互いの顔もろくに見えないのに笑い合った。


「煙草ってまじぃな」

 ミヤが先に言って、煙草の火を地面に押し付けて消した。


「そーだな」

 と言いつつ、僕はしばらく苦い煙の味を口に含ませては吐くを繰り返した。

 そうすれば大人になれると期待してみたが、まずいものはまずくて、結局は半分くらいで火を消した。

 僕とミヤは黙って地面に寝転んで、空に浮かんだ星を眺めた。

 月はなかった。特別、綺麗な星空という訳でもなかった。普段と変わらない、夜空だった。

 生ぬるい空気がじっとりと僕らに纏わりついていた。


「暑いな」ミヤが言った。


「そーだな」


「中途半端だなぁ」


「なにが?」


「暑さ」


「そーだな」


「行人はさ、不安になったりしねぇの?」


「何に?」


「いろんなこと。だけど、例えば西野さんと一緒にいられなくなるかも、とか」


 秋穂のことを皆、西野さんと呼ぶ。

 当然と言えば当然だけれど、僕はいつも秋穂の名字に違和感があった。それは僕が殆ど、秋穂のことを西野さんと呼んだことがないからだった。


「別に僕は秋穂と付き合っている訳じゃないからなぁ」


「でもさ、いつか西野さんだって誰かと付き合ったりするんだぜ? そーしたらさ、キスしたり裸を見せたりする訳だろ?」


 胸の奥が強く握り締められたように痛んだ。安い感傷だが、僕にとって何に替えても重要な痛みだった。


「するんだろうなぁ」


「嫌じゃねぇの?」


「嫌だよ」


「なら、付き合っちゃえば良いじゃん」

 付き合う、か。


 それはどこか遠くの、僕とは関係のない国の言葉のように聞こえた。

「昔さ、秋穂と約束したんだ。ずっと一緒にいるって」


「へぇ」


「馬鹿みたいだけど。僕はその約束をちゃんと守りたいって思うんだよ」


「だから、付き合ったりせず、一緒にいようと思うって話か?」


「うん」


「付き合った上で、ずっと一緒にいるって選択はねぇの?」


「自信がないんだ」

 声が震えた。


「自信?」


「付き合って、ちゃんと秋穂とずっと一緒に居られる自信が僕にはないんだ」


 もっと言えば、僕は付き合わず幼馴染関係を続けていても、ずっと一緒に居られる自信はなかった。何か、よく分からない大きなものが決定的に僕らの仲を引き裂くんじゃないか、そういう類の不安が僕の中には渦巻いていた。


「俺だって自信ねぇよ」

 ミヤの声には果物を握り潰して絞り出すような悲しみが含んでいた。


 あの日、僕とミヤが吸った煙草は一本だけだった。

 そして、二回目の煙草を僕は陽子の家のベランダで吸った。苦い煙草の味を、ちゃんと最後まで味わい切った。

 あの頃よりも、僕は少しだけ大人になった。


 誰の目にも映らない進歩だけど、それは確かだった。

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