矢山行人 十五歳 夏06
陽子は夏休みの宿題で出されたテキストの答えを殆ど覚えているようだった。
迷いのないスピードでシャーペンを走らせていく陽子を横目に、僕は読書感想文や日記などの、個人的なテキストから取り掛かった。
二十時をまわっても、陽子の両親は帰ってこなかった。不思議に思ったが、他人の家の事情を気安く訊ねるほどに僕は鈍感になれなかった。
陽子が一度、立ち上がった。
「夕食、作ってくるから。行人くんはそのまま続けていてくれよ」
部屋から出ていく陽子を見送り、僕の中の不思議さは不安へと移り変わった。
陽子が作ってくれたのは海老とイカの入ったクリームパスタだった。リビングの四人掛けのテーブルで僕と陽子は差し向かいでパスタを食べた。
テレビやコンポなどの音はない中の食事だったが、とくに気まずくはなかった。
「陽子って料理、上手いのな」
僕は素直に感心した。
「そうかな? 普通だと思うけどね。ちなみに、言うことはそれだけかい?」
「将来は料理人になれると思う」
「お嫁さんではないんだね」
「料理ができなくても、陽子は良い奥さんになるとは思ってるよ」
これも素直な気持ちだった。
「ほぉ、それは意外だね」
「そう?」
「空き地でこっそり煙草を吸うような女だよ?」
「堂々と吸うよりずっと良い」
「こんな喋り方なのにかい?」
「慣れると、むしろそそる」
陽子の食べる手が止まる。
「んー、それは素直に喜べないなぁ」
食事を終えると、陽子はミルクたっぷりのホットコーヒーを淹れてくれた。陽子が食器を洗い、僕はコーヒーを飲んだ。それから陽子と妹さんの部屋に戻って、僕らは宿題の続きをした。
二十二時を過ぎた頃、半分が終わった。
そろそろ帰ろうかな、
と僕は言った。
「ふむ」
陽子が少し考え込むような顔をした。「せっかく、ここまで終わったんだ。行人くんに用事がないようだったら、今日で最後までやってしまおう。なんなら泊まって行ってくれても構わない。今日は父も母も帰ってこないようだし」
とん、っと誰かに背を押されたような気持ちに僕はなった。自分の中にある物差しから外れた、そんな感覚だった。そういう瞬間、僕は悲しくなって泣きたくなる。
けれど、今はあえてへらへらと笑った。
「なに? 誘ってんの?」
「そういう根性もないくせに」
「いやいや、男の子の夜は狼だからね」
「言い方が古い」
「それで、両親が帰ってこない日は珍しいの?」
「ん、うちではよくあることだよ」
陽子は変わらず宿題のテキストに向かってシャーペンを走らせていた。
「両方とも?」
「ああ。時々、母だけ帰ってきたり。父だけだったり、日によるね」
「事前に連絡はないの?」
「ある時もあるけどね」
今日はないようだ、と陽子は何でもないように言った。
中学三年の娘に一言も伝えずに両親が共々外泊する。
陽子の口ぶりだと、理由はどちらも違うようだ。夕食の準備もなければ、戸締りの確認もない。これがまともだと僕には思えなかった。
けれど、それは僕の持つ物差しだ。
陽子を僕の物差しだけで測るのには躊躇があった。もしかすると、僕が間違っている可能性だって十分に有り得る。
二十五時を回る少し前に僕の夏休みの宿題は終わった。
ため息とも、吐息ともつかない声を漏らして僕は淡いピンク色のマットに背中を預けた。ペンの握りすぎで、中指の爪の横が膨れて痛かった。
「お疲れ様」
陽子が言い、深い吐息を漏らした。
「ありがとう。ちゃんとお礼する」
「ああ、『お願い』、ちゃんと聞いてくれよ」
「うん」
「でも、その前に、オマケを貰っていいかな?」
「おまけ?」
陽子は僕の問いには答えず、かけていた眼鏡を外し、三つ編みにしていた髪をほどいて、倒れた僕の顔の横に手をついた。少しだけ開いた口から白い歯が浮かんでいた。
「ねぇ、これから“わたし”がすること。お願いだから、勘違いしないでね」
陽子がわたしと言った。僕はぼんやりとした頭で「うん、勘違いしない」と答えた。陽子の長い髪の先っぽが僕の顔に触れた。
「怖い夢を見るの」
僕の顔に幾つかの髪の束がかかる形で、陽子は僕に抱きついた。彼女の吐息が僕の首筋にかかった。
「だから、私が眠るまで傍にいて」
「いつも夜は一人なの?」
「そうだよ」
「眠ったら、ちゃんと布団をかけるよ」
「ありがとう。寝た後なら、キスくらいして良いよ」
「根性なしだから、やめとく」
「まったく」
「おやすみ、陽子」
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