矢山行人 十五歳 夏04

 家に帰ると、玄関に見かけない女性ものの靴が綺麗に揃えられていた。

 その横に兄貴の汚いスニーカーが脱ぎ捨てられてあった。兄貴の彼女が来ているみたいだった。

 時間は十八時を少し過ぎた頃だ。

 そろそろ両親が帰ってくるはずだった。


 僕はできるだけ足音を殺して廊下を進んだ。

 二階への階段に足をかけたところで、兄貴に名前を呼ばれた。どうやら兄貴たちはリビングにいるらしかった。

 舌打ちしたい気持ちで、リビングに行くとソファーに座った兄貴が僕を見た。


「帰ってきたなら、挨拶ぐらいしろよ」


「こっちにいるとは思わなかったんだよ。ただいま、兄貴。あと、いらっしゃい美紀さん。ゆっくりしていってください」


 兄貴の向かいのソファーに座った美紀さんが、にっこりとほほ笑んだ。

 相変わらず、嫌味ない完璧な笑みだった。

「おかえり。ねぇ、行人くんもこっちで一緒しない?」


「おい」


 兄貴が咎める声を出すも、美紀さんは涼しい表情だった。力関係は明白だ。


「何をされているんですか?」

 一応、聞いてみた。


「勉強だよ」

 ガラスのテーブルにはこれ見よがしに幾つものテキストとノートが並べられていた。


「学校でしているので、遠慮しておきます」


「行人くんが、こっちに来てくれるなら他のことをするよ」


 一瞬、美紀さんと兄貴に宿題の件を頼むのも良いかも知れない、と思ったが、すぐにそんな考えは霧散した。兄貴と小一時間でも同じ空間にいる、というだけで今晩うまく寝つける気がしなかった。


「これから友人の家へ行くので、また誘ってください」


「へぇ」

 と、やや大げさに美紀さんは言った。「こんな時間から? 残念。ちなみに、そのお友達は、男の子? 女の子?」


「女の子ですけど」


「へぇ」


 感心したように美紀さんは言って、ソファーから立ち上がった。兄貴の座っているソファーを横切って、僕の前に来た。

 僕は美紀さんの目を見詰めた。長い睫だなぁ。


 美紀さんが僕の頭をくしゃりと撫でた。

「もう少し成長したら、私のことも相手してね」


「おい、美紀っ」


 兄貴が腹立たし気に言った。

 美紀さんは僕の頭から手を離して

「冗談よ、冗談。すぐにやきもち焼くんだから」と余裕たっぷりに言った。


 僕は頭を下げてリビングを後にした。二階の自分の部屋で服を着替えた。僕は美紀さんが苦手だった。

 長い睫、丁寧な仕草、少し勿体つけたような喋り方……。


 美紀さんは万人に愛される方法を知っている。

 そして、誰よりもその技術を洗練させている。

 美紀さんは会話の中で言葉に詰まったり、言いよどむことはないだろう。それを羨ましいと思う反面、あまり好ましく思っていない自分もいた。

 僕は美紀さんよりも、外では下手な男口調になる陽子の方を好ましく思った。


 夏休みのテキストをバッグに詰め込み、僕は両親にメールで友達に行くことを伝えて家を出た。

 兄貴と美紀さんに挨拶はしなかった。


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