第9話 旅人

 スバル55は、広大な田舎道を土ぼこりを舞い上げながら走っていく。

「あっ、あそこに穴が開いてる。あっ、あそこにも」

 助手席に座る幸子は、スバル55の左フェンダーとボンネットに小さな穴が開いているのを見つけ、フロントガラス越しに指を差した。

「弾の跡ね」

「弾の跡?」

 幸子が首を傾げる。

「そう」

「なんで弾の跡があるの?スバル55に」

「パパは戦場カメラマンだったのよ」

「そうだったの!」

「パパはスバル55で世界中の戦場を旅して周ったの」

「知らなかったわ。あのおじさんがそんなすごい人だったなんて」

 幸子は、いつも玄関前で会う度に元気いっぱい大声であいさつしてくる、ちょっと太った、つぶらな瞳のやさしいおじさんを思い出していた。

「本当にすごい人は、テレビにも新聞にも出ないのよ」

「そっか」

「そうよ。あらっ?」

 その時、どこからともなく南国の陽気で自堕落な音楽が、超音波のような蝉の猛烈な鳴き声の間から、ふわふわ流れるように聞こえてきた。

「あっ、あの人も旅人かしら」

 幸子の指差す先に、巨大なテントの隣りで一人の青年が焚火の前に座っていた。

「きっとそうだわ」

 スバル55は青年のいる空き地の隣りにピタリと止まった。

「やあ」

 スバル55から降りた夏菜と幸子を見上げると、青年は人懐っこい笑顔を向けた。

「素敵な音楽ね」

 夏菜が言った。

「キューバ音楽さ」

「キューバは偉大な国だわ」

「そう」

「革命の国」

「革命の国」

 夏菜と青年は同時に叫んだ。

「あなたとは気が合いそうだわ」

 夏菜が言った。

「僕は旅人だ」

「おうちはどこなの」

 幸子が訊いた。

「僕は旅が家なんだ。旅しかしたことがないからね」

「素敵な家だわ」

 夏菜が言った。

 青年の傍らには、スポーツタイプで、ボディが平たく薄い流線型の不思議なフォームをした自転車が一台止められていた。タイヤは細くて太く、ハンドルはくるくると、どこかの現代アート作品のような今まで見たこともない形をしていた。

「自転車で旅をしているのね」

 夏菜が言った。

「うん、今はね」

 青年はその自転車を見つめた。

「これはキャノンボール2001。ツールド・ザ・ワールドを6度制覇した名自転車さ」

「へぇー、すご~い」

 幸子が目を丸くして、キャノンボール2001を見つめた。

「でも、ツールド・ザ・ワールドって何?」

 幸子が首を傾げた。

「世界中のありとあらゆる国を周る壮大なレースだよ」

「ふ~ん」

 しかし、幸子はまだよく分かっていないようだった。

「あまりにも走る距離が長いから10年に一回しか開かれないんだ。次の回が始まってもまだ前の回でゴールしてない人までいる。だから自分が出る回を絶対覚えていなけれならないんだ。覚えていないと突然優勝してしまうからね」

「ふ~ん」

 幸子はやはりまだよく分かっていないようだった。

「食べるかい」

 青年の手にはパスタの巨大な束が握られていた。

「お腹ペコペコよ」

 そう夏菜が答えると、青年は嬉しそうにすぐに鍋とフライパンを焚火にかけた。

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