第16話
―――亮からのコールに、大樹はこの時間に?と時計を見る。
二十一時を少し回り、寧々たちが風呂から上がって勉強をしているところだった。
リビングのソファに座った大樹からは、三人がテレビに背を向け大樹とテーブルを挟んで、対面になるようにして床に座っている。
寧々はオレンジの、真由が青色、亜里沙はピンクの色をしたショートパンツの、もこもこパジャマから、にょっきりと出ている素足が動かされ、勉強に集中していないことが、大樹側からは見て取れる。知恵熱で体温が上がって、パジャマのボタンを多めに外しているのは、彼女たちのいつもの計算だった。
子供たちの寝る前の時間。亮からのコールに応答するといつも通りの亮が出た。
『今暇?』
「ん?今これから勉強を少し教えようかと思って…」
『なんでまた』
「亮が書いた脚本なんだけどさ、寧々が漢字…読めなかっただろ?」
『あぁ』
亮が向こうで「ふふっ」と笑っていたが、さすがに笑い事ではない。亮も亮で、いくつの時に何の漢字を習ったのかは覚えていなかったので、普通に出力した文字が寧々たちにはさっぱり読めなかったのだ。
そのため、午前中の収録で終わるはずの予定がだいぶ引っ張り、会議の開始時間を無理やり遅らせる必要に迫られ、めぐりが四方八方手を尽くして、つい先ほどの会議がうまくいったところだった。
いくらなんでも文字が読めないのはまずい、と小学校の教科書を買い漁った大樹が勉強会を始めたが、寧々たちはさっぱりやる気を出さない。
亮がわざわざ電話をして来てくれたが、その声で寧々たちのことに関する会議は、おおよそうまくいったのだろうと推測ができる。局員や職員ではない大樹には、聞かせられない内容や構成メンバーだったりするのだろうから、こういう形でしか連絡が貰えないのはもどかしくもあり、亮に感謝するところでもある。
亮は少し間を置いてから口を開いた。
『今から行くわ。面白そうだし』
「後ろの方が本音だろ。怪我しても知らんぞ?」
大樹がラインアウトすると、寧々がじーっと大樹を見つめている。
「ねぇ、あそぼ?」
「その変な声を、やめなさい」
一生懸命出した甘える声に、大樹が目を細める。ちっと、舌打ちが聞こえてそちらを見ると真由がペンを動かしていた。大樹は褒めてやろうと真由を見る。
「真由は何を勉強してるのかな…?」
「国語の勉強」
漢字の書き取りをしているにしては、ドリルを見ていないので、ふと覗き込む。
その時、深山の手が、私のとても敏感なところに…。
「そんな、先生。私はまだ勇気がない」
「怖がらないで」
深山のささやく甘い声が教室に響き、私の小さな胸の鼓動は彼の声よりも…大きく高鳴る。
「何を書いてやがるかっ!」
大樹がノートを取り上げて、消しゴムで消すと真由がきょとんとする。
「冒険物語だよ」
「大人の冒険物語は、ちょっと早いかなぁ」
大樹は、引き攣った満面の笑みでノートを元に戻すと、亜理紗がこくり、こくりと舟をこぎ始める。こっちはこっちで寝入りが早い。
俺は絶対に教職には向いてないなぁ、と思いながら、亮がやって来ることを思い出してテーブルから離れ、寧々がその後に続く。
大樹がどこに行くのか、と思いながらも家の中、そんなに出歩くわけでもなく…大樹はキッチンに入った。
システムキッチンの高さは寧々たちにはまだ少し高く、熊の顔だか頭の形をした、キッチン用踏み台を持って来てそこに立つ。
「深山ぁ、何してるの?」
「亮が来るから、コーヒーの準備でもしようかなって」
「んー?手伝おうか?」
寧々がそんな申し出をして来るとは珍しい。
「抜け駆けかなぁ」
「私も手伝う」
亜理紗と真由。
インテリアカウンターの向こう側から、二人が椅子に座って身を乗り出していて、大樹は嫌なことよりも少しでも違うことを、探している子たちに苦笑いするしかない。
「じゃあダイニングテーブルの上を片づけてね」
大樹は亜理紗と真由を越した向こうにある、六人掛けのテーブルを指さすと、二人がいそいそとカウンターチェアから降りて作業を始める。亜理紗が机の上に置いてある粉調味料を持ち上げて、布巾で真由がテーブルを吹き上げて行くコンビネーションは、とても皇位継承権や王位継承権を持つ娘の、行動とは思えないほど慣れている。
そんな二人に作業が奪われた寧々が大樹を見上げる。
「私は?」
寧々が大樹の袖を引っ張って何をするべきか尋ねて来て、大樹は道具を手元に瞬間移動させて、システムキッチンの上に並べて見せた。
ペーパーフィルターの束、陶器で出来たドリッパー、ガラスのサーバー、像の鼻のように曲がった、細口スチールドリップポッドが並べられている。
「なんか魔法みたいに見える」
目の前でぱっと物が現れる感覚は、寧々にして見れば珍しいのかもしれない。
「ドリッパーとかに触れば、サイコメトリーして読めるんじゃない?」
「ん、そうなんだけどね。今日はそういう気分じゃないの」
「どうしたんだ…呪いの本でも透視したのか?」
「…えいっ」
ぽこん、とドリップポットを掴んでその底で殴られても、大樹は微笑んでいる。
「なによ。殴られて笑うとかキモイ」
「おい、言い方酷いな」
大樹は肩を落とすと、ポットに水を入れてお湯を沸かし始め、カップやソーサーなど全ての道具を温め始める。沸かしきったお湯をしばらく放置、温度の調整の間に、ペーパーフィルターをドリッパーにセット、適量のコーヒー豆をスプーンで投入してさっと均等に均す。
「コーヒーって、ささって準備できるとかっこいいねぇ」
「うん、料理しないのに、こういうのできるんだよね、男の人って」
亜理紗と真由のそれぞれらしい感想を耳にしながら、大樹は真剣な顔で手元を見ている寧々のために、説明をしながらお湯を少し注ぐ。ちなみに料理はできない。妹のめぐり任せだ。
蒸らしてやるための感覚は、カップにお湯が滴下する程度であること、勢いを付け過ぎずにゆっくりとやること。粉が膨らんで見えるのは中のガスが追い出されて、その方が味が良くなることを伝える。
寧々はじーっと雫を見ている。
「難しいねぇ」
それでも理解しようとしてくれている寧々に大樹は正直に嬉しかった。
「うん、けっこう難しいね。坂上には言葉で伝えなくてもいいのに、言葉にしようとするとすごく難しくて、でもなんか嬉しいかな」
ふわり、とコーヒーのいい香りが漂いながら、大樹が説明を続けて作業を再開する。そんな二人に亜理紗と真由が顔を見合わせる。
「寧々、気付いてないのねぇ」
「コーヒーなのに、激甘な匂いしかしない」
亜理紗が呆れて、真由はしかめっ面の子犬のような顔をしていた。
なんともいい雰囲気な上に、見ている方が恥ずかしくなる大樹のセリフに当人も寧々も気付いていない。亜理紗は乙女モードの寧々のかわいさと同時に、真由の横顔を見てその差に驚く。
(茶化してやると教えるみたいになるし…なんか腹立つから放っておこう。あと真由、不細工)
亜理紗は寧々の頭にそっと砂糖瓶から砂糖を取り出して振りかけると、真由が念動力に気付いて、ぶふっと吹き出す。
大樹は真由が噴き出したのをくしゃみと勘違いして心配する。
「どうした?風でも引いたか?」
「なんでも…」
大樹に心配されて真由がそっぽを向くと、寧々がテーブルに手を当てて読み取る。
「なんで私に砂糖?」
「甘いからだよ」
我慢できずに亜理紗がそう言うと、寧々はそれでもよく分からなさそうに首を傾げる。
「そういえば坂上は、オフィルや橋本の心をあんまり読んだりしないんだな」
「友達だし、深山のも見ないようにしてるの。協定だから」
協定?と首を傾げると、大樹は納得した。三人が自分を好いているのは知っているし、子供ながらの大好き合戦に困惑していたが、まぁその件の話なので深入りしないことにする。
寧々は読む、読まないとは別に不自然なほどガードが固い、めぐりを思い出した。
「でもめぐりさんのは見えない」
「頭の中を読ませない訓練を積んでいるらしいからなぁ」
「んー、深深度のサイコメトリーにそんなの関係ないんだけどねぇ」
寧々は、めぐりが本当に読めないことに何度も驚いていて、そのせいで、めぐりの思考を感じようとするのはいつの間にかやめていた。人の心の闇ばかりに触れていると分別がついてしまう。
「人の感情とか見えると、どんななんだ?」
「男の人は大体エロい。っていうか変態かなぁ。動揺するか、変態かのどっちか」
あまりにもストレートで酷い言われようだ。男ですいません、と言いたくなる。
「男の人はね、今とっても肩身が狭いというか、住み辛いんだよ」
大樹が悲しそうにつぶやくと、寧々はちょんと触れる。
(電車に乗れば気を使うし、君らみたいな子供を連れて歩くだけでも、変な噂が立つんだから…)
寧々はそれが普通よね、と思いつつ手を離す。
「今のは読んだでしょ?」
「うんまあ、どんまい、男の子」
寧々が満面の笑みでそう答えると、大樹は「おう」と親指を天井に挙げてサムズアップして見せる。二人のいちゃつく姿に真由が我慢できなくなる。
「んで、コーヒー飲むの?」
真由が淹れ終わったコーヒーを見て尋ね、亜理紗は綺麗な水面に見とれているようだった。
「んー、私が飲んでいい?」
寧々は言うや早、カップに口を付ける。
「あっつい!」
それはそうだろう、と思うと、寧々がぱたぱたと手で自分の顔に向かって仰いで熱を逃がそうとしていて、続いて叫んだ。
「にがっ!」
「砂糖も入れなきゃね」
大樹が砂糖瓶に手を伸ばすと、「そうだ」と、戸棚から手の平よりも少し大きな、金平糖の瓶を取り出した。
「うおっ、綺麗」
「すごーい」
きらきらと光る宝石のような、色とりどりの金平糖に真由と亜理紗が興奮して身を乗り出し、大樹は亜理紗、寧々、真由に一粒ずつ金平糖の粒をそれぞれの口に入れてやる。
氷砂糖独特の、ゆったりとした甘みが口に広がって三人は幸せそうだった。
真由は金平糖をどこかで見た気がして、はたと気づいた。
「これ、レーションの中に入ってたやつ」
真由が身を乗り出してもう一つをねだり、大樹が口に入れると、亜理紗も同じように要求するのでそれに応える。幸せそうに満面の笑みを浮かべて、少女たちは猫のようにころころと首を左右に傾けて身をよじらせる。
「橋本、レーションって?」
「ん、めっちゃ固いビスケットで味があんまりしないパン。がりがりって食べるゴマが入ってたやつ。あれは、あんまりおしくなかったけど、この砂糖はおいしかった」
がりがり、と金平糖をかじる真由はコーヒーに手を伸ばす。乾パンの話だろうか、と大樹は大体予想できた。あれはあれで、そういうものだと思って食べると、おいしいものだ。
金平糖を落としたコーヒーを口にして、真由がほうっと息を吐く。
「おいしい」
「真由は大人の味がわかるんだねぇ。一番ちっちゃいのに」
亜理紗は褒めたつもりなのだろうが、真由は不服そうに頬を膨らませる。子どもっぽい怒り方に、大樹は大人になるのも遠いなぁ、と心の中で呟く。
大樹は三人がリラックスしたところで切り出す。夜遅くまで起きているのは、勉強しているからだけであって、遊んでいるなら就寝させたいところだ。
「息抜きもほどほどに勉強しようか」
大樹が促すと、三人は渋々とリビングに戻ってテーブルに向かう。
(そもそもなんで勉強なんて、することになったんだっけ)
寧々は自分でも、今の状況が納得できない。
手が進んでいない寧々から見て、右側に座っている真由が行き詰っている寧々に気付いて心配する。
「寧々、難しい?」
「うー」
寧々がうなり声をあげると、真由がちらりと大樹を見ると、大樹は先ほど淹れたコーヒーを片手にDas Kapitalと書かれた表紙の本を読んでいる。
精神感応を使えば即理解できることも、こうなるとてんで手が出せない。
亜理紗も寧々の状態に気付いて、顔を突き出して大樹の方を横目で見る。
「深山に近づくチャンス、だって言ってなかった?」
「うん…」
「どうしたの」
右の真由、左の亜理紗に急かされて、寧々は顔を真っ赤にする。大樹は井戸端会議を始めた寧々たちの方を見てから、壁の時計を見ると休憩してから三十分ほどが経過していた。
(まぁ初めから根詰めても仕方ないかなぁ)
集中の続かない三人に大樹は、これもこれからの課題だろうと思っていると、寧々たちにとっては助け舟となるインターホンの呼び出し音が鳴った。
ぴんぽーん、ぴん…ぽーん。
呼び鈴が鳴ってから、カギが開く音が聞こえる。亮にはここのカギを渡してあるので勝手に入れる。真由と亜理紗が地獄に仏のような顔をして、口々に来訪者を迎える準備を始めた。
「中山が来たね」
「終わりにしよう」
ささっと亜理紗と真由がテーブルの上を片付けて、寧々がじっと何かを訴えるような目で大樹を見るも、亮が声を上げて大樹を呼んでしまう。
「わりぃ、ドア開けてくれないか?」
「なんだよまったく」
ドアを開けた大樹に、亮がにゅっと顔を覗かせるとピザの箱とドリンク、ドーナツの箱を抱えて入って来る。
「お勉強している、いい子にご褒美だよ」
亜理紗と真由は目を輝かせてそれに飛び付き、テーブルの上にそれらを並べ始め出した。
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