第8話

 雑居ビルの中はシーン、と静まり返っていて赤い絨毯が敷かれている。


 寧々たちが外に出ると、暖かい風が髪の毛を撫でる。


 往来を行き交う車、たくさんの人々。普通の街がそこにあった。


 寧々は周囲を見回して、一人の男に目を付ける。


「あの人」

「そうだねぇ」

「任せて」


 寧々の指差した二十代半ばの青年が、こちらに向かって歩いて来る。チェック柄の緑色のシャツにハーフパンツ姿の痩せ型の男を、ターゲットに亜理紗が右手を向ける。


 男は何事も無かったかのように、こちらにやって来て…転んだ。


 運動神経がもう少しよければ、腕を突っ張らせて腹から地面に軟着陸するような、無様な姿勢をさらけ出すことも無かっただろう。


 その転んだ原因が、亜理紗の能力で足を引っ張ったのだが、当の青年は立ち上がるのも遅い。真由が転んだ青年の前に移動して、膝を折って屈み込む。


「大丈夫?」

「え?あ?う?え、お、あ、あ」


 ほぼ母音だけで構成される、意味のない返事。そして青年の視線は真由の顔を一度見たあと、じっと下を見つめている。乙女の三角秘密基地デルタシークレットベースを直視している。


(あれであの人は、二週間は満足できそうだね)

(私なら一ヶ月かなぁ)


 寧々は冗談で呟いたが、亜理紗のガチっぽい発言に「はいはい」と返す。


 青年がふらり、と立ち上がりこちらにやって来る。


 どうやら作戦は成功したようで、真由の能力である絶対王女の甘美な刺激自由奔放なプラマルゲイトの効果が発動していた。


 真由は相手をコントロールする能力である、催眠洗脳ヒュプノを得意とする能力者で色々と便利でもある。


「寧々、どうぞ」


 真由に促されて寧々は、興奮冷めやらぬ様子の青年にたじろぐ。


「ねぇ、この人今、何を見てるの?」

「私たちと一緒に、遊んでる夢かな?」

「…それは、やだよねぇ」


 亜理紗も生理的に嫌悪感があるのか、泣きそうな顔をして寧々にすがりつく。


 寧々は青年の手にちょん、と気持ち程度触れる。


 頭の中に青年の見た情景が、短時間のライブカメラ映像のように流れ込んで来る。この青年が最近見たり感じたりしたものだったり、その時の感情だったりするものだ。


「五年前みたい。この世界」

「五年前かぁ。私もまだ若いんじゃないかな?」

「寧々が小学校に上がったばっかりくらい?見てみたい」


 亜理紗の少しずれた感想と、真由の正直な感想に寧々は青年を解放してもらうように真由に促す。


「いい?あなたはもう何も覚えていないの。私たちに出会ったのは夢の中、じゃあね。かわいい私のおもちゃマイトイズ


 真由の視線と微弱な電気信号、この二つを用いて催眠洗脳を施す能力は非常に便利な能力で、この作戦自体は大樹が考え出した一つの行程だった。


 情報収集を行う場合は、寧々の精神感応で情報を引き出すか、真由の催眠洗脳を行う。ただし、寧々の精神感応は精神防御メンタルプロテクトがあったり、対抗手段カウンターメジャーが仕組まれている場合がある。


 危険性を排除しつつ情報を得るためには、先ず、亜理紗の念動力で身体を拘束。続いて真由が、催眠洗脳を用いて思考走査を行いつつ予備尋問を行う。このとき、深深度催眠を行いすぎると、精神感応の邪魔になるので気をつけなければならないが、この状態で精神感応することによって、短期間に大量の情報を入手することができる…。


 大樹は高校生のときに、こういう作戦を考えていたらしいが正直…。


「深山って、軍隊の作戦とかそういうの立てるの好きそうだよね」

「中山が、やらないからだよ」


 寧々に真由が正論を言う。局内でも山々コンビになってから書類整理が早くなったと、誰かがこぼしていた気がした。


「すっごくリアルなんだけどね。ここって、なんなんだろうね」


 実感があるけれど現実ではない。寧々は夢の中で「これは夢だ」と分かっているような気分で、今それがはっきりと感じられていた。


「真由の国で、ここを管理してるんでしょ?」

「ん、そうだけど私はあんまり知らないよ」


 寧々は、じゃあ仕方ないね、と諦める。別に知ったところで、どうこうなりそうでもなかった。


「あれ?」


 寧々は、途端にすっと頭の中で熱された血液の温度が、音を立てて下がった気がした。


 道路を挟んだ向かい、腕を組んで歩く男女の姿が目に入り、三人が同時にそれを追いかける。


「深山?」

「え?なんで、あの女だれ?」

「ギルティ?」


 寧々、亜理紗、真由は、オープンテラスの席まで移動した大樹が、椅子を引いて女性をエスコートしているのを見た。


 大樹と見知らぬ女性のデート風景を目の当たりにして、三人ともぽかんと口を開けている。


 大樹はロング丈のシャツの上にデニムを羽織り、薄い青色のジャケットですっきりとした印象を与え、白のパンツが清涼感を与える春先らしいコーディネート。


 対して、どことなく憮然とした態度の女性は、面白くなさそうな顔をしている。


 大きくて愛らしい猫目の少女は、シースルーで薄いピンク色の膝上ミニスカワンピース、その下にうっすらと見える白いホットパンツ、編み上げロングの黒ブーツ。


 女を意識させるための服装で、胸下にあるリボンは大きな胸を強調させていて、寧々たちが自分の胸を触って憂鬱になる。可愛らしく、美人になりかけている、ちょっとだけ背伸びしている感じを、うまく少女らしさとして見せ付けている。


 寧々はスマホを取り出して、写真を撮ってデータベースと照会する。スマホのアプリを扱うのは難しい作業ではなかった。


 ヒット。


 萩原鈴はぎわらすずは享年十六歳。顔認識では十三歳のデータ。中学生の写真であると判定が出る。国際能力者データベースでは、精神感応系統能力者で超A級スーパーエースクラスで登録されている。


 三人がスマホを覗き込んでいると、めぐりのレポートが資料として添付されているがロックされている。


 開けるべきかどうか悩む。


「開けちゃ「だめだよ」」


 寧々がパスコードを入力しようとしたところで、後ろからごちん、と頭を小突かれる。三人が驚くと、大樹と亮が三人を見下ろして威圧する。寧々は殴った亮の腹にパンチをお返しするも、亮が三人を叱る。


「なんでお前らがここにいるんだよ。ここは大樹の…」

「亮、ダメだ。こいつらもう、興味本位以外の何者でもない」


 叱ろうとする亮に、大樹は目をキラキラと輝かせている三人が、もう何も聞かないことを悟って諦め、大樹に三人がひしっと抱き付いた。

 大樹の深層領域、記憶を頼りに世界を再構築された場所だ。


「あの人は誰?」


 寧々が大樹の身体に、後頭部を当てるようにして、もたれ掛かって尋ねる。甘える寧々を大樹が支えて周囲を見回す。


「ここは俺が中学に上がったばかり位のときだね。鈴はあんまり学校に来ていなかったから、勉強を教えてあげたんだ」


 亮もそれは知っていて、深く頷く。というより羨ましいかった。


「お前の周りは、いつも能力者がいたよな。しかも女の子ばっかり」

「なんで今、それを言うんだ。いらないだろ」


 大樹は自分にくっ付いている少女たちが、ぎゅぅっと抓る勢いで身体を掴んで来る痛みに、顔を引き攣らせる。


(お前だけがモテるのは許せん)


 亮がしてやったりと笑みを浮かべる。

 寧々は鈴の大樹を見つめる表情に胸が締め付けられるような気がした。


「まぁ今思うと、余計なお世話だったのかな。彼女の顔を見ると不満そうだしねぇ」


(出た。このおばかさんめ)


 寧々、亜理紗、真由が視線をそれぞれのほうに逃がして呆れる。いつものことだが、女性を男性の友情の延長線上で捕らえる大樹の悪い癖だ。優しさが痛い。


「でも、この世界って何なのー?深山の記憶の中でいいのかな?」

「オフィルの言うような感覚とは少し違うかな」


 亜理紗の問いに大樹が説明したのは、難しかったが何となく理解できた。


 ここは不誠実な世界、と名づけられた夢幻回廊書架ライブラリーに蓄積された記憶を頼りに構築された世界で、侵入した存在はこの世界の存在に、干渉することが出来ない。


「坂上?どうした?」


 寧々が遠い目をして、勉強会を始めた過去の大樹を見つめている。


「楽しかった?」

「え?」

「自由を演出されている、女の子とのデートだよ」


 寧々が指差した先には、近くの雑居ビルの屋上にキャンプしている人影、ガードレールに腰掛けて雑誌を読んでいる青年。オープンテラスにいる大学生の恋人たち。


 亮はまいった、と言わんばかりに両手を挙げてみせる。寧々にまで見抜かれるとは思っていなかった。


「坂上たちの正解だよ。萩原は監視対象だった。政府機関の官僚に近づける立場だったからな。君と同じで」

「だと思う。精神感応系統能力者でハイレベルになると犯罪捜査とかに利用されるしね」


 利用、ではなく協力と言って欲しかった。


 大樹は寧々の経験から来る、独白とも取れる言葉に言葉を失う。


「あ、でも今は大丈夫だよ?寧々はね、深山のためになんでもするから」


 にこっと笑って大樹に猫なで声を上げる寧々に亜理紗と真由が先を越された!と一瞬だけ遅れを取ったことに屈辱的な顔をする。次の瞬間、亜理紗はにこりと微笑んで大樹の腕を引っ張り、抱きつきながら猫なで声を上げる亜理紗。真由は普段通りだったが負けたくないのか、上目遣いで潤んだ瞳を大樹に向けた。


「わたしもー、深山のためにがんばれるよ?」

「命も捧げる」


 がんばるのもありがたいが、命は重たい気がする。


「でもなんで深山は、こんなところに来たの?」


 真由が尋ねると、大樹は答えるべきか亮に目配せして助けを求める。


「坂上たちも気付いた、監視者の情報がアップロードされていてね。能力者の無意識が全部個々に集約されて、世界を構築するから…」

「待った。ダメだ、この子ら…ぶっ飛んでる」


 大樹はつかまり立ちを覚えたばかりの子供のように、ふらついている寧々たちを見て苦笑する。亮は片眉を吊り上げて怪訝な顔をする。

 ちょっとでも難しい話は絶対に受け付けない。


「お前、良くこの子達に勉強とか教えてるな」

「色々生きていくには、嫌なことでもやっていかなきゃいけないんだろ?僕も怜奈れなに色々教えてもらったしね」

「怜奈…?風見怜奈かざみれなか?」


 亮がきょとんとする。いくつか年上の綺麗なお姉さんで、能力の使い方もピカイチの才色兼備、威風堂々とした立ち居振る舞いで、知らない人間はいないほどの実力者だった。


「いいなぁ、俺もお姉さんに手取り足取り色々教えてもらいたいなぁ」


 そういう亮だったがどこか白々しく、本当はあまり接したくない気持ちが面に出ている。亮を手玉に取る女は大樹の妹だけでなく、違う方向性の怜奈は亮からしたら天敵に近いのかもしれない。


「怜奈さんは、お前を見たら絶対に去勢してやるって言うからな?」

「…おうふ」


 大樹と亮の訓練は過酷を極めた。それこそが怜奈の人格を表現するんはぴったりのシーンだとさえ思える。

 設問を一つ間違えると電気ショック。基礎体力を付けるためのランニングは、ショットガンと猟犬に追い立てられるサバイバルラン。

 地獄の日々が鮮やかに脳裏にフラッシュバックする。


「…今思うと、なんであんなことさせられたんだろう」

「この状況を予測しているんだとしたら、彼女は間違いなく未来予知プレコグニションの系統だろうなぁ」


 何かを知っていてこの状況になることを考えていたのだとしたら、彼女にもう一度会いたいと思えた。


「また違う女の話してる」


 女の本能かは分からないが、脳を再起動させた真由が冷めた目で大樹を見上げている。


(違う女とは、ひどい言い回しだと思うんだけどな)


 未成年者がどこでどう手に入れるのか分からないが、成年系の小説をじっと読んでいる真由は、他の二人に色々な知識を与えているのはわかっているので、そろそろ禁止しなければならないかもしれない。


(風見怜奈。くっきりきっちり全部調べ上げてあげる)


 ぬふふ、と寧々と亜理紗もその名前を記憶に刻み込む。


「んじゃ、みんなはこのまま帰ってね」


 大樹がぽん、と寧々の身体を押し離す。寧々はそれを嫌がって、無理やりにも背中に加重をかけて離れないようにする。

 寧々の露骨な抵抗に大樹が困り果てるのもいつものパターンだ。


「ちょっと!追いかけて来た女の子を追い返すの?」

「追いかけて来た?俺らはお前らがエレベーターに乗ったから、追いかけてきたんだぞ?」

「え?私たちは深山を追いかけてきたんだけど?」


 寧々に亜理紗と真由が頷く。確かにそのはずだった。


「エレベーターに乗ったのは見てない、けど、確かにそうだった」

「由香里とも話をしていたから少し遅れたけど、深山を追いかけるの大変だったのよ?」

「真由と亜理紗も言うなら、そうなんだろうなぁ」

「どういうこと!」


 亮が寧々を見下ろして「ふん」と鼻で笑うと、寧々が鼻息を荒くして亮に突っかかる。


 それでも互いに絶対に接触しないのは、精神感応系統能力者サイコメトラー同士故の、領域侵犯に対する警戒なのだろう。


「ほらほら、亮も悪ふざけしないで。この子達を回収できたんだからいいだろ?」


 大樹は寧々を後ろから引き寄せてやると、すぐに真由と亜理紗がつまらなさそうな顔をする。他の誰かが大樹と仲良くしていると、すぐに敵意をむき出しにするのに、誰かが一人でも得をしたり優位に立ち始めると、途端に攻撃を始める。


 亮は女の友情って怖いな、と子供ながらに、戦いを行っている三人に遊ばれている大樹に哀れみを感じていた。


「ほらほら!さっき通ったルートで戻れるから戻るんだ!」


 大樹は子供たちを無理やりビルに押し込んで、騒いでいる三人にエレベーターと続く通路を指差して、問答無用で戻らせた。

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