第6話  日向の恋



なんともいえない表情の亮介を、閉まるエレベーターの扉越しに笑顔で見送ると、薫子は深く大きな溜息をついた。

呆気ない終わり方だったなと、ぼんやり思った。

不倫の終焉にしては、むしろ奇麗な終わり方だった、とも。

ふと、鼻先に漂ってきた煙草の香りに、薫子は踊り場の方へ顔を向けた。

そこには剣吾が、居た。

踊り場の手すりにもたれ、腕を組んだまま煙草をくわえてこちらをジッと見つめている。

まるで、全ての事情をわかっているかのような彼の目差しは、この上なく優しげで……無意識に吸い寄せられるように、薫子は彼の元へ近づいた。


「薫子、偉かったな!おまえの潔さ、俺は心底、感心したで」

剣吾はそう言うと、いきなり薫子の頭を優しくポンポンと撫でた。

「どこまで……聞いてたの?」

訝しげな薫子だったが、剣吾は悪びれることなく笑った。

「そうやなぁ、半分以上は、聞いたかもしれん。おまえが出て行ってから、彼もすぐに追いかけて行ったやろ?なんとなく気が乗らんかったから、そのあとすぐに店を閉めたんや。まさか、こんな所で話し合ってるなんて思わんかったから、出るに出れんようになってしもた。……悪かったな、立ち聞きなんかして」

「ほんと!趣味悪いわね!」

薫子はそう言って睨みつける真似をしたものの、実際の胸の内は、不思議な安堵感で満たされていた。

亮介との別れ話と対峙していた時、陰でちゃんと見ていてくれた人がいたのだと思うと、なぜかホッとした。

独りではなかったということが、嬉しくさえ思える。


「薫子、寒くないか?俺の胸でよかったら、貸すで」

自分が震えていたのか、それとも寒そうに見えたのかはわからなかったが……剣吾は携帯灰皿に煙草を放り込むと、突然薫子に向かって両腕を広げた。

その包み込むような優しい目差しと、広げた先にある広い胸に惹かれて、薫子は迷うことなく彼の腕の中に倒れ込んだ。

強過ぎないふわっとした力加減で抱きしめられて、薫子はその温かさに思わず目を閉じた。こんなに温かい腕を、自分は知らないと思った。


「泣きたかったら、泣いてもいいんやで?誰にも言わへんから」

諭すように、いたわるようにそう言われ、その包み込む両腕で優しく揺すられたが、薫子は泣かなかった。

この温かさの中で、そっと泣けたなら、どれほど慰められるだろうか?

でも、薫子は泣き方を知らなかった。

未だかつて、色々な事を経験はしてきたが、誰かの前で、ましてや腕の中で、泣いたことなど無かった。


「もうちょっとだけ、こうしていて。それで充分だから」

薫子は、煙草の香りのするシャツに顔を埋めたまま、ぼそぼそと呟いた。

「おまえは……泣かないんやな。きっと、泣き方を知らんのやな」

剣吾はそれまでよりも、少しだけ力を込めて、薫子を抱きしめた。

彼の言葉に心揺さぶられながらも、薫子は自分が泣きたいほど哀しいのかどうか、わからないでいた。

だから、無言で彼の身体に自分も腕を回して抱きしめることでしか、答えようがなかった。

そうして二人は、言葉を交わすことなく、長い間抱き合っていた。



その夜を境に、亮介からの連絡は完全に途絶えた。

勿論けじめとして、彼のメールアドレスも、電話番号も消去したし、彼をイメージさせる物全てを躊躇することなく、捨てた。

こうもあっさりと切り捨てられるのは、きっと最初から覚悟が出来ていたからなのかもしれないと、薫子は思った。

いや、むしろ一年と数カ月かけてその覚悟を決めてきた、というのが正解かもしれない。ただ、異様な空虚感だけが、心の中に取り残された。


そして、あの日を境に、薫子にはもう一つ遠ざけていることがあった。

あれ以来、今日で十日になるが、リュージュには行っていない。

すなわち、剣吾には会っていなかったのだ。理由は、無い。

でも、どうしても行けなかった。

あんなに優しくして貰ったのに、あんなに慰めてもらったのに……、信じられないことだったが、薫子は彼に会うのが怖かった。

どんな顔をすればいいのかが、わからない。

誰かを、ましてや男を恐れるなんて、これまでの経験に無い。正直、覚えが無い。

行きたくない、会いたくない、のではなく、行けない、会えない、というのが正解だった。


「ねぇ、コーヒー飲まない?屋上は、いい風吹いてるわよ」

昼休み、喫煙室に居た薫子に、朱音が顔を覗かせて誘った。

ゴールデンウィークも終わり、ツアーもひと段落して、ここ数日は内勤業務の二人だった。

食堂横の自動販売機で紙コップのコーヒーを買って、朱音に付いて屋上へ上がった。

ベンチに座って、何の気なしに空を見上げると……なるほど、五月晴れの空が広がり、濁りのない白い雲がゆったりと流れ、風が渡っているのが見えそうな気がした。

長いこと空なんて見上げていないことに気付く。

暫くは、無言で並んでいたが、朱音が遠慮がちに口を開いた。


「ねぇ……前に言ってたわよね、自分の事を見ててくれる人がいるのは嬉しいって」

「そうだっけ?そういえば……言ったかな。なんでそんなこと聞くの?」

「うん、だって、この頃の薫子なんかおかしいでしょ?余計なお世話かもしれないけど、一度聞くだけ聞こうと思ってたの」

一瞬の間を空けて、薫子は朱音を見てフッと笑った。

「そんなに変だった?心配されちゃうほど?」

朱音も、薫子の方を見ながら困ったように笑い返す。

「うん、とっても。正直に言うと、空っぽな感じに見えたわ」

「空っぽ……か、それ正解かもね。例の彼と、別れたから」

薫子は、あっさりと告白した。

「……そうだったの。言ってくれればお酒ぐらい付き合ったのに」

「おめでとう、って言ってよね!これでようやく日蔭の女、卒業出来たんだから」

薫子は、そう言って笑い飛ばしたが、朱音には笑えなかった。

詳しいことは一切知らないが、それでも薫子がその男性と、結構な月日を過ごしていたことぐらいは知っていた。

その恋愛において、彼女が愚痴や不平不満をこぼしたことは無かったが、決して幸せそうでなかったことも、朱音には感じ取れた。

そして、その彼と別れたという今、薫子の様子はまるで心ここに在らず、だったのだ。


「そうだ、マスターも薫子のこと気にしてたわ。ここ暫く行ってないんだって?」

突然朱音にそう尋ねられて、薫子は一瞬戸惑った。

亮介とのことを尋ねられるよりも、剣吾のことを言われる方が、なぜか言葉に詰まる。

「なんか、出歩くのが面倒臭くってね……ここんところ、家で飲むことが多かっただけ」

「じゃぁ、今度一緒に行かない?久しぶりに、飲み明かしましょ!」

朱音の心遣いが身に沁みたが、やはり、曖昧な返事しか出てこない。

「そうね……まぁ、気が向いたらね」

朱音の不思議そうな顔が横目に入ったが、薫子はあえて目を逸らした。


だが、一番遠ざけたかった相手はその日、向こうからやってきた。

いつものように仕事を終えて、何の予定も無いままに退社すると、外にはガードレールに腰かけた剣吾が待っていた。

いつかと同じその光景に、薫子の足はピタリと止まる。


「よぉ!!生きとったか?」

いつもと何ら変わらぬ彼のそのテンションに、なぜか胸が締めつけられた。

「…………どうも」

「なんや、愛想無いなぁ!いつまでたっても顔見せへんから、心配になって来てしもたわ」

そう言って微笑んだ剣吾の顔に、あの時と同じ優しさが溢れているのを感じた薫子は、思わず顔を逸らした。

「ん?どないしたんや?やっぱり、元気ないなぁ」

剣吾は腰を上げ、立ち尽くしたようにその場を動かない薫子のそばへ寄ると、肩に手を置き顔を覗き込んだ。薫子の肩にかかった彼の大きな手は、あの時の温かい腕の感触を瞬時に思い出させた。

あぁ!まただ!……薫子は心の中で唸った。また、泣きたくなってしまった。

あれ以来、剣吾の腕を思い出す度に、なぜか泣きたくなる。

哀しいわけでもないのに、無性に泣きたくなるのだ。

薫子は、今までにない自分の感情の乱れに、動揺していた。

自分の事なのに、理解が及ばないことに、戸惑っていた。

だから、彼に会うのが怖かった。だから、避けていたのだ。


「ダメージは、予想以上にきつかったみたいやな?まぁ、おまえの性格なら無理ないか」

“おまえの性格”という言葉に反応して、薫子はつと顔を上げた。

「まるで……あたしのことなら何でも知ってる風に言うのね」

ようやく薫子らしいセリフに、剣吾はニッコリ笑った。

「いいや、まだまだ知らんことだらけやで。ただな、おまえはいつでも潔くあろうとしてるやろ?特に、男女間においてはな。でも潔いっていうのは、難しいんや。それを通そうとする分、負う傷も多い、違うか?だから心配してたんや」

薫子は睨むように剣吾を見つめ、立ち尽くしていた。ひどくショックだった。

未だかつて他人にこんな風に、自分の事を分析されたことも無ければ、理解してもらったことなど無かった。

大外れならば、いつものように生意気に笑い飛ばしてしまえるのに、悔しいが当たっていた。

「あなたって……つくづく、ずうずうしい人ね。人の心に勝手に入り込まないでよ!」

薫子の声は、その言葉ほど強くも無かったが、そうとしか答えられなかった。

剣吾は、相変わらず微笑んだままだ。

「そうなんや、こういうことは俺の流儀には反するんや。他人とは距離を置くのが最善だと、この俺が一番知ってるしな。でもな……」

「じゃぁ、流儀を通せばいいじゃない!」

「まぁ、待て!最後まで聞けって」

剣吾は喰って掛かってきた薫子の両肩を掴み、そっと揺すった。

「おまえの痛さが伝わってくるんや。あの夜の、正々堂々とあいつを切り捨てた薫子の痛みがな、なんとなく頭から離れへんのや。余計な御世話なんは、俺がよくわかってる。でも、ちゃんとおまえの顔見るまでは、なんか落ち着かんかったんや」

薫子の顔が、微妙に歪んだ。もうこれ以上、聞きたくはなかった。

でないと、この目の前の人に、自分をさらけ出してしまいそうだ。

そんなことは、絶対にしたくない。

薫子は、表情を隠す為に一旦軽く目を伏せ、それからゆっくりと顔を上げると、いつものような不敵な笑みを浮かべた。


「じゃぁ、これで満足した?あたしの顔も見れたわけだし、ショックで仕事を休んで酒浸りってわけでもないわよ。心配してくれたのは有り難いけど、あたしって立ち直りも早いの」

背の高い彼に対して挑むように顎を上げた薫子だったが、剣吾は何かを見透かしたような目差しで薫子を見つめた。

「今、時間あるか?ちょっと付き合って欲しい所があるんやけどな」

薫子の言葉など聞かなかったかのような気軽さで、剣吾は言った。

「……どこへ?」

「俺の店や。今日は休みなんやけど、ちょっと手伝って貰いたい作業があってな、あかんか?」

手伝う作業、という言葉を聞いて、薫子の気持ちは幾分楽になった。

「あたしなんかが手伝えることなんて、あるの?」

「それが、あるんやなぁ!ええやろ?気晴らしになるで!」

気晴らし、という言葉にさっきまでの緊張が一気に解けた気がした。

「いいわよ、あたしでお役にたてることがあるんなら手伝っても」

「よし、決まりや!じゃぁ、さっそく行こか!」

剣吾はニッコリ笑うと、薫子の肩に腕を回して歩き出した。


リュージュに着くと、真っ暗な店に灯りを点けて、マスターは薫子をテラスへと導いた。

すっかり陽の落ちたテラスの真ん中に、ドラム缶を半分に切断された腰の高さまである筒のような物が置いてあった。


「これは、何?前から置いてあったっけ?」

「いや、今日だけの特設や。ちょっと待っててや、すぐに用意するから」

剣吾はそう言うと、店の中へ戻り、やがて今度はけっこうな大きさの箱を両腕で抱えて慎重に運んできた。

中からカチャカチャと、食器か何かがぶつかり合うような音が聞こえる。

箱を抱えながら、脇には鉄筋の工事現場に転がっているような鉄の棒を挟んでいた。


「よっこいしょ!これでよし、や!」

「これで、何をするの?」

ドラム缶を覗き込みながら、薫子は不思議そうに尋ねた。

底の方には、何枚かの平たく切られた段ボールが敷き重ねられている。


「ちょっと退いて見ててや、俺がお手本示すから」

剣吾はそう言って薫子を少し下がらすと、横に置いた段ボールから数枚のお皿のような物を取り出し、いきなり叩きつけるようにドラム缶に投げ入れた。

当然のように、大きな金属音のような音をたてて、皿の割れる音が響いた。

薫子がびっくりして大きく目を剥いているその前で、剣吾は再び箱から皿を取り出して、躊躇することなく次々と叩き入れていく。


「一体……何をしているの!?」

「割れたり欠けたりして要らなくなった皿の処分や。こうして割ってやって、細かく砕いてから回収業者に引き取って貰うんや」

剣吾はそう言いながら、今度はさっき持ってきた鉄の棒で、ドラム缶の底を上から力を込めて細かく突いた。

最初は、パリンパリんという高かった音が次第にガチャガチャという音に変わっていく。

「へぇ……面白そう!」

薫子が興味津々に剣吾の横から覗き込むと、ざっと10枚くらいのお皿が綺麗に粉々になっていた。

「やってみるか?なかなか気持ちいいで?」

薫子は無言で頷き、剣吾とポジションを替わった。

彼がやっていた通りに、横の箱から何枚かのお皿を取り出し、スーッと息を吸い込んでから止めた。

「コツは、とにかく力いっぱい躊躇せず、やで!」

剣吾のセリフを合図に、ドラム缶の中目掛けて腕を振りかざし、思いっきり皿を投げ付けた。

バリーンッ!という音と共に皿が割れた。薫子は、剣吾が言った通りに躊躇することなく次々と力任せに叩きつける。

と同時に、なんとも言えない恍惚感が胸一杯に広がった。

何枚かを叩きつけたら、今度は鉄の棒で上から力を込めて、粉々に砕いた。

壊して、砕いて、を繰り返すと……恍惚感と共に解放感が広がった。


「いいか、薫子、何もかも壊すんやで!全てを粉々に砕くんや!遠慮はいらん、思いっきり壊せ!」

薫子は、夢中になった。奥歯を喰いしばり、全身の力で叩きつけた。

4回目の皿を両手に取った時……突然目の前が曇った。

辺り一面がぼやけ、滲んではっきりと見えなくなった。

そして、薫子の瞳から涙が溢れ出した。

ポロポロととめどなくこぼれ出した涙に、薫子は愕然とした。

……どうしてあたしは、泣いているの!?ただ、皿を割っているだけなのに、何を泣くことがあるというの!?


「薫子、迷うな!やめたらあかん!最後まで壊してしまうんや」

突然動きの止まった薫子に、背後で見ていた剣吾の声が飛んだ。

薫子は、その声に従うように、作業を再開した。

そして、……全てを理解したのだ。

あたしが壊しているのは、皿じゃなくて、自分の殻だ。

亮介に出会って、彼を愛して、そしてあまりに沢山のことを呑みこんできた。

良かれと思って引いてきた沢山のラインに、知らず知らず、がんじがらめに縛られていたのは、自分自身だった。

そして何よりも、ずっと……淋しかったのだ。

仕方ない、仕方ない、と言い聞かせてはきたが、淋しくて胸が潰れそうだった。

薫子は、力任せに叩きつけていく皿1枚1枚が、今まで自分の呑み込んできた言葉に思えた。

涙は止まるどころか、溢れ続け、エッ、エッ、と漏れていた泣き声も、しゃくり上げるほど大きくなっていった。

一体、これだけの涙がどこに隠れていたのかと思えるほどに、薫子は泣いて泣いて皿を壊し続けた。

粉々に砕いていく皿に大好きだった亮介の笑顔を重ね、楽しかった数少ない思い出を重ね、言えなかった言葉を重ね、……全てを砕いた。


箱の中にあった全ての皿を壊し終わった時、薫子は全身で呼吸をしていた。

力任せの作業は結構な重労働であったし、おまけに全身で泣いたのだから、息もあがる。

だが、本当の意味で心が空っぽになった気がした。

空虚感ではなく、まっさらな感じだ。

少し後ろで、何も言わずにじっと見守る様に立っていた剣吾が、そっと肩に手を掛けた。


「……御苦労さん、よう頑張ったな」

薫子は、心を決めるようにゆっくり振り向いた。

「……ひどい顔でしょう?」

剣吾は涙でグシャグシャになった薫子の頬を、そっと両手で包んで微笑んだ。

「せやな、べっぴんが台無しや。でも俺はこっちの薫子の方がいいわ」

薫子は、ちょっと恥ずかしそうにニンマリ笑った。

その初めて見せた無邪気な笑顔に、剣吾はハッと息を呑んだ。

そして、考えるより先に口が動いた。


「キスしても……いいか?」

薫子は、一瞬大きく目を見開いたが、すぐに微笑んで頷いた。

それをキスと呼べるかどうかは定かでなかったが……少なくとも26歳の女と40歳の男がするような物でなかったのは、確かだった。

そのキスは、触れるか触れないかのそっとかすめるようなものだった。

まるで、父親が幼い娘にするような、優しさだけに溢れたキス。

だが、今の薫子には世界中のどんなキスよりも、心に響く深いキスだった。


「ねぇ、本当はあたしの為に用意してくれたんでしょ?この、特設」

薫子は、剣吾の顔を見上げてそう尋ねた。確信があった。

剣吾は薫子をその腕の中に抱きながらも、ちらと箱の方を見た。

「まぁ、な。きっと、おまえに泣ける場所を作ってやりたかったんかもしれん。どうや?ちょっとはすっきりしたやろ?」

「なんか、癖になりそうかも。こんな経験初めてだし!」

「おいおい、それは勘弁や!」

剣吾は慌てて首を振って笑った。

「これだけの皿集めるの、結構大変やったんやで?」

「どうやって、集めたの?まさか……買ったんじゃないわよね?」

怪訝そうな薫子に、剣吾は苦笑した。

「いいや!俺の知り合いがやってる店関係を回って貰った物やで。ほら、商売では出されへんようなちょっと欠けた皿なんかをな、譲ってもらったんや」

薫子はもう一度箱の方に視線を戻した。

正確にはわからないが、ざっと百枚以上はあったと思う。それだけの量の皿を集めるのに、彼はどれだけ足を運んだのだろう?

たかがあたしに割らせる為に、たかがあたしが泣くだけの為に。

薫子は、自分がまた泣き出しそうな状態になっていることを自覚した。

哀しいのでも、悔しいのでもない、体中に沁み渡っていくような優しさに心が反応した感じだ。

薫子は、その目に溜まった涙をそのままにして、剣吾の胸におでこをコトンと預けた。

「……いい人ね、剣吾って……」

彼女の肩の小さな震えが伝わって、剣吾は背中をポンポンと叩いて笑う。

「おまえは、特別大事な客やからな。リュージュの客の中で俺の本名を知ってるのは薫子だけやし、この名古屋で唯一俺の過去を知ってる人間も、おまえだけや。粗末には出来ひんわ」

胸の奥の方を、なんともいいようのないくすぐったい感覚に襲われた。

彼流にではあったが、『おまえは特別や』と言われたような気がして、不覚にも薫子は真っ赤になってしまった。まるで高校生のように、胸の鼓動が速くなる。

誰かにとって、唯一な存在になったことなど、今まで経験が無い。

薫子は、どんどん速まる鼓動の音が、剣吾にも聞こえてしまうのではないかと恐れた。

だが、おそらくは、今の自分が耳まで赤くなっている気がして顔も上げられない。

もう!!こんなの嫌だ!あたしらしくない。まるで、この関西オヤジに恋でもしてるみたいじゃないの!?いやいや、あたしはほんの十日程前に、亮介と別れたばっかりなんだから!

だが、そんな自問自答の中で、薫子ははっきりと悟ってしまった。

あたしは、この人に惚れてしまったと。

恋などという言葉では納まらないくらいに、このとてつもなく懐の深い人に、惚れ込んでしまったと。


「ありがと!!今日は、もう帰るわ!」

薫子は、自分を包み込む剣吾の胸に両手を当てて、その腕の中から無理矢理自分を引きはがした。

「……そうか?帰るか?」

突然の薫子の行動に、ちょっと面食らったような顔で剣吾は首を傾げた。

「う、うん、勢いついでに飲み明かしたいところなんだけど……明日から淡路島なの。まだ何も準備してないから、帰るわ」

「仕事なら、しゃぁないな。無理矢理引っ張って来て、悪かったな」

剣吾はあっさりと納得して、微笑んでくれる。

「帰って来たら、あらためて飲もか!ちゃんと顔出しや?」

薫子は、まるで逃げ出すような後ろめたさに、無意識に両手を握ってコクコクと頷いた。

剣吾が理解を示して優しく笑えば笑うほど、ドキドキとした鼓動が収まらない。

結局、御礼もそこそこに、薫子はリュージュを後にした。


突然何かを急ぐように、そそくさと帰っていった薫子を見送った剣吾は、テラスのかた付けは後回しにして、カウンターで一人飲み始めた。

久々に、いや、ここへ移り住んでからはおそらく初めて、誰かに真剣に関わった気がする。

身体の奥深い所が、熱い感覚に包まれていた。

自分がそういう感情を誰かに抱くことは、二度とないかもしれないと、確信していただけに意外だった。

色々な事から逃げ出して二十年、……自分ひとりで生き抜くことが精一杯で、誰か他人と深く関わって共に歩くことなど考える余裕も無かった。

いや、むしろそういうことは無意識に避けていたのかもしれない。


「時効……ってことなんかなぁ……」

剣吾は、誰に言うとでもなしに呟いた。

薫子との出会いは、交通事故のような感覚だったとの印象がある。

突然目の前に現れて、突然体当たりされたような感覚。

顔はかなり綺麗でスタイルも抜群、なのに、口は悪く、気性はかなり激しい。

ただ、どんな立場に追い込まれても、意地でも背筋を伸ばして歩こうとする彼女が、剣吾には健気でしかたなかった。

激怒することは出来るのに、泣き方を知らない。

そのくせ、その心根はとても優しく、おそらくは愛情に溢れているのだ。

そんなひどくアンバランスな彼女を、欲しいと思ってしまった。

自分だけのものにして、ずっと傍に居て欲しいと、感情よりも深い部分でそう思っていることに気が付いてしまった。

俺に、そんな資格があるだろうか……?かつて、たった一人の女も幸せに出来なかった情けない男に……。剣吾は深い溜息をついた。

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