第5話 破局
そのまま死んだように眠った薫子が目を覚ましたのは、昼の1時近かった。
意味不明のくぐもった呻き声を上げて、ベッドから這い出すと床にペタンと座り込んだ。
二日酔いではなかったが、やたらと身体がだるく重い。
取りあえず、シャワーを浴びてスッキリしようと立ちあがると、ドレッサーに置きっぱなしにしたバッグの中から携帯のメールの着信音が聞こえてきた。
そういえば、リュージュで飲み始めてから一度も携帯を見なかったことに気付く。
慌ててバッグの中を探っているうちに、その音は途絶えた。
オフホワイトの薄い携帯画面を指でスライドさせて、薫子はギョッとした。
「なに、これ!?」
20件もの着信履歴が記されている。全て亮介からのものだった。
一番古いもので昨夜の9時、最後は午前1時になっていた。当然、それだけではなくメールも10件届いていた。もちろん全ては亮介からだ。
(なんで、電話にでないんだ?でてくれよ!)……同じ文面が10通繰り返されている。
薫子は、携帯の時計に目をやり思案した。今日は、土曜日だ。
銀行マンの亮介は土、日が休みである。と、いうことは、家庭持ちの彼に電話するのは、御法度だ。
もちろん、奥さんや子供が傍に居る可能性が高い昼間は、メールも出来ない。
薫子は小さく溜息をついて、携帯をベッドに放り投げた。
いい加減、こういう気遣いにも疲れてきた。一体何の話だったのだろうか?
ここ最近では、連絡も以前ほど頻繁には無かったから、こんなに履歴を残されると気になってしまう。
薫子は、ベッドの上の携帯を暫し見つめ、思い直すように携帯を持ってバスルームに入った。
結局、亮介から次の連絡があったのは、その日の夜遅くだった。
「なんで、連絡してくれないんだよ!?」
開口一番、不機嫌な亮介の声が耳に響いた。
「……電話に気が付かなかったの、悪かったわ。何か、あったの?」
「僕の電話に気が付かないほど、楽しいことがあったのか?誰と一緒だったんだ?」
薫子は、携帯をスピーカーにしてテーブルの上に置くとマニキュアを手に取った。
「友達と、飲んでたの。……で、何だったの?」
「メールぐらい出来ただろう?それとも、メールも出来ないような相手と一緒だったのか?」
今日は、いやに絡む。酔ってでもいるのだろうか?
薫子は目の前の携帯を一瞬見つめながら、眉を上げた。
「朱音と朝方まで飲んでたのよ。盛り上がり過ぎて、携帯のことも忘れてたわ」
「朱音……あぁ、例の結婚したっていう同僚の娘か。新婚さんが朝まで飲み明かすとは恐れ入ったね」
その小馬鹿にしたような言い方が、癇に障った。
「亮介に非難されることは何もないわ、ご主人も一緒だったしね。そんなことより、何か急用だったの?」
薫子は、神経を指先に戻して慎重な手つきでマニキュアを塗り始めながら聞いた。
「急用でなければ、電話しちゃ駄目なのか?薫子に会いたかったからに決まってるだろ!メールぐらい返せただろ?」
「返してよかったの?土曜日の真昼間に?これでも、遠慮したのよ」
「僕に会いたい気持ちを我慢して遠慮した……って口ぶりじゃ、ないよな」
「亮介、酔ってるの?」
薫子は確信しながら、尋ねた。だが、彼が何を言いたいのかが掴めない。
そして、次に返ってきた問いかけは、予想外なものだった。
「薫子……新しい男が出来たんだろう?」
中指の爪の淵をなぞっていたマニキュアブラシが小さくぶれて、薄ベージュの液がはみ出した。
亮介は、低い声で続ける。
「君は、知られていないと思っているだろうけど、僕は知っているんだよ」
「一体……何の話をしているの?」
薫子は目の前の携帯をジッと見つめながら聞き返した。
「何のって、君の新しい男の話だよ?実はね……これは本当に偶然なんだけど、君を見たんだよ。先週、君の会社の近くで」
「あたしの会社の近くなら、あたしを見かけても不思議じゃないわ……それで?」
「まぁ、それはそうなんだけどね。ただ、あの背の高い中年の男は誰だったのかな、と思ってね。随分と楽しげに歩いていたから」
亮介の、少し得意気にも聞こえる声に不快感を抱きながらも、薫子は記憶を巡らせた。
先週……会社近く……背の高い中年男……楽しげに……?
そこまで考えて、ふと頭に浮かんだのは、リュージュのマスターの顔だった。
「あぁ!わかったわ、確かに亮介が見たのは、あたしよ。でも、一緒に居たのはあたしの男でも何でもないわよ?楽しげ、っていうのも間違ってるし」
「じゃぁ、誰だい?」
「彼は、リュージュっていう朱音の行きつけのバーのマスターよ。たまたま、あの辺を通りかかって、たまたま、あたしと出くわしたってだけの顔見知りよ」
マスターとのあの時のやり取りをいちいち説明するのも面倒くさかったから、そこは省いた。
「たまたま、ね」
だが、彼が薫子の説明を信じていないのは、その声に現れていた。
「ねぇ、まさかとは思うけど、それを聞きたくて何回も電話くれてたの?」
「相変わらず、薫子はドライだなぁ。僕が君にやきもちを妬いたら、可笑しいかい?」
可笑しいか、可笑しくないか、と聞かれれば、明らかに可笑しいと、薫子は思った。
なぜなら、この一年半、二人で会っていない時の自分の生活に、関心を持たれた記憶が無いからだ。
普段、誰とどういう付き合いをしているかを聞かれた事もない。
もちろん、そういう線引きを最初にしたのは薫子ではあったが、今ではお互いに暗黙の了解になっている。
だから、亮介と会っていない時の自分が、合コンや飲み会に頻繁に参加していることも、自分から話したことは無い。
もしも、彼以外の男と飲みに行ったりしたことが有るか?と尋ねられれば、当然、答えはイエスなのだ。
「どうしたんだい?急に黙り込んで。何か、言いにくいことでもあるのか?」
「……いいえ、言いにくいことなんて何もないけど、亮介があたしの私生活に口を出したのは初めてだったから、どういう風の吹きまわしかな、と思っただけよ」
淡々と答えた後、もう一度首を傾けた。
「で、やっぱり何かあったの?会社で?もしくは、それ以外で?」
あえて“家庭”という言葉は、避けた。
「……いや、別に何もないよ。僕の日常は、すこぶる順調さ。僕の自由にならない事が有るとすれば、君だけだ」
“何もないよ”と答えるまでに、一瞬の間が空いたことを、薫子は見逃さなかった。
だが、あえてそこは触れずに陽気に笑う。
「亮介は、あたしにどうして欲しいの?」
その薫子の単刀直入な問いかけに、亮介は小さく笑った。
「……君は、そのままでいいよ。そのまま変わらずに、僕だけの君でいてくれたらね」
あきらかに、亮介の様子はいつもと違い、何かがおかしかった。
だが、その日は昨夜からの頻繁な着信の理由も、その要件もわからないまま、電話は終わった。
薫子にとっては、なんとなく腑に落ちないスッキリしない終わり方だったが、その亮介の変化の理由は、その一週間後にわかることとなる。
一方、薫子のリュージュ通いは、添乗で留守にする以外は二日と空けずに続いた。
あの日、剣吾と明け方近くまで飲んで以来、薫子の足は不思議とリュージュへ向いた。
だからといって、剣吾と何かを特別に話すでもなく、なんとなくカウンターで水割りを飲んで帰る、といった具合で……結構な客で賑わっている時など、一言も言葉を交わすことなく帰る日もあったが、ただ、それは薫子にとってとても居心地の良い時間だった。
誰かに愛想を振りまく必要もなく、誰かに口説かれることもなく、まるで家で一人で飲んでいる時のように、素でいられるような心地よさ。
でも、家と違うのは一人ではないこと。
適度な雑音と、誰からも構われないという孤独感。
朱音がここの常連なのも、頷ける。この心地よさは、きっと剣吾の客との距離感なのだ。
鼻もちならない、ハイテンションの関西オヤジ、という彼への印象だったが、今となっては悔しいくらいに彼のペースにどっぷりはまっていた薫子だった。
その日は、水曜日ということもあってリュージュも客足が殆ど無かった。
薫子は、日帰り添乗の帰りに、いつものように寄っていた。
「薫子、おまえたしか売約済みやって、言ってたやろ?」
剣吾が思い出したような顔で、尋ねた。
「言ったわよ、それが何?」
「彼氏がいてる身分にしては、ここへ通い過ぎやないか?デートする暇あるんか?」
薫子は煙草に火をつけながら……まぁ、こうも通いつめれば、それも当然の疑問かもしれないな、と思いつつ、わざとらしく剣吾を睨んだ。
「なぁに?それって、遠回しの迷惑宣言?それとも、来店拒否?」
剣吾はグラスを棚に片付けながら、笑った。
「別に、そのどちらでもないけどな。おまえは手のかからん客やし」
「……売約済みでも、色んなパターンがあるのよ。ま、あたしの場合、ちょっと道から外れちゃってるからね」
淡々とそう言った薫子の顔に、表情は無かった。
「ふむ、……道ならぬ恋、ってやつか。せやけど、おまえの性分からするとそれは結構きついやろ?」
「きつい……って?」
「薫子は、一本気やからな。そういうコソコソすんのは、絶対苦手やろ?似合わへんしな」
図星、だった。こういう客商売をしている彼は、人を見る目も鋭い。
「恋愛に……苦手も、得意もないわよ。好き好んで道を外してるわけでもないし」
「こういう場合、決着の付けにくい恋愛はやめときや……って、助言するのが正しいんやろうけど、おまえはそんな助け必要としてないやろ?ここぞという時が来れば、物の見事に決着つけるんやろうしな」
少し困った笑みを浮かべながらそう言った剣吾に、薫子はクスクス笑い出した。
「ありがとう!それって、あたしには最高の褒め言葉よ!」
確かに、彼の言う通りだった。いずれ、決着は付けなくてはならないし、その時がそう遠い日ではないことも、薄々自覚していた。
最近の亮介の様子の変化が、何からきているのかは皆目わからなかったが……
変に自分を束縛しようとしてみたり、とんでもない時間に電話がかかってきて会いたいと言い出したり、そのくせこっちが心配して連絡すると冷たくあしらわれたりと……結構な感じで振り回されている。
その上、薫子は自分が本当に亮介を、今も変わらずに愛しているのかが、正直わからなくなってもいた。
亮介が妻子持ちだとわかった時にはすでに、引きようのない所まで気持ちがのめり込んでいたから、こういう関係を続けてきたが、今となってはその時の想いが持続しているとは言い切れない自分に気付いていた。
「すみません、こんばんは……」
薫子が自分の思いに耽りながら、グラスの中の氷を指で突いていると、ドアが開く音と共に男の声がした。
「いらっしゃい!お一人ですか?」
「あの、ここは一見お断りですか?初めてなんですが……」
背中から聞こえてきた、その覚えのある声に、薫子はとっさに振り向いた。
「…………亮介!?」
ドアから半分だけ身体を覗かせて、にこやかな顔でそう尋ねていたのは、紛れもなく、上木亮介だった。
剣吾は、ちょっとだけ驚いたように薫子とドア口の亮介を見てから、いつものように陽気に笑った。
「いえ、うちは初めての方も歓迎させて貰ってます。見たところ、薫子さんともお知り合いのようやし……こちらへどうぞ?」
剣吾はおしぼりを出しながら、カウンターの薫子の横を手で促した。
薫子といえば、目を大きく見開き、こちらへ近づいてくる亮介を凝視していた。
「やっぱり、ここに居たんだね?」
亮介はいつもの微笑みと共に、キツネに抓まれたような顔の薫子にそう声をかけた。
「……よくここが、わかったわね?」
平然と隣に座った亮介を見つめたまま、ようやく薫子はそう言った。
「いやぁ、探すのに苦労しました!ここは電話帳にもネットにも載せていないんですね?彼女から聞いた店の名前だけでは、なかなかヒットしなくて……」
それは薫子ではなく、剣吾に向けてのものだった。
「うちは、宣伝するよな大層な店でもないんでね。あくまでも、常連さんに可愛がってもらってるような感じでやらせて貰ってます」
「へぇ!言葉のイントネーションから察して、マスターは関西のご出身ですか?」
「ええ、生まれも育ちも、大阪ですわ。飲み物は、何にしはりますか?」
「バーボンを、ロックでお願いします」
亮介は、そう頼んでから、ようやく薫子の方へ身体を向けた。薫子は待ってましたとばかりに口を開く。
「ねぇ、これはどういうこと?」
「何がだい?僕がここへ来たことかな?来ちゃまずかった?」
「今までは……こんなこと無かったわ、あたしの行きつけ先にあなたが来るなんて。それも、たまたまではなくて、探して来るなんて」
「君が熱心に入れ込んでるっていう店を、一度見てみたかっただけさ」
“入れ込んでる”という表現が、不快に響いた。
「ここは朱音が常連のお店だとは言ったけど、あたしが入れ込んでるなんて、一度も言わなかったわよ?」
「そうかな?」
そう言った亮介の顔に意地の悪い笑みが浮かんだ。
「でも、こうしてここに来たら会えたんだから、十分常連だろ?それも、確か今日は日帰り旅行だったよな?その帰りに直接寄るぐらいだから、常連意外の何者でもないじゃないか」
その決めつけた言い方に、薫子の顔にはあからさまな嫌悪感が浮かんだ。
剣吾はといえば、亮介の注文を目の前に差し出すと、二人からは離れたカウンターの奥で煙草を燻らせながら、雑誌を見ていた。
亮介は、薫子の表情は気にも留めずに店内を見回した。
「良い店じゃないか、バーっぽくなくってアットホームな感じで。でも、僕の知っている君の好みとは若干違うみたいだけど、好みを変えたのかな?それとも……変わったのは男の好み、かな?彼は、なかなかの男前だよね、年齢はかなり上そうだけど」
彼は、いつからこんな下世話な物の言い方をするようになったのだろう?
それとも、元々こういう物の見方をする人だったのだろうか?
あたしが、盲目になっていたせいで見えていなかっただけなのだろうか……?
薫子は、謂れのない怒りに駆られ、憤慨した。
なぜか、彼がここに居る事がとても嫌だった。自分のテリトリーに土足で上がられたような気分だ。
「ねぇ、せっかくだけど、帰りましょう?飲みたいならよそで付き合うわ」
横に置いてあったバッグを掴みながら、薫子は唐突に切り出した。
「どうしてだい?僕がここに居ると不都合でもあるみたいだね?やっとのことで見つけて、たった今来たところなんだよ?」
亮介は、横目でジロリと睨んでから、わざとゆっくりとした動作でグラスを仰いだ。
「マスター、おかわり貰えますか?」
剣吾は、慌てること無い動作で、煙草を揉み消してから黙ってグラスを下げた。
亮介は、今にも立ち上がりそうな薫子を無視して、話しかける。
「ここは、何年くらいになるんです?」
「今年で、丁度10年やね」
「あぁ!それは、おめでとうございます。10周年ですか!結構、長いことやっておられるんですね?」
「おおきに、お蔭さんでどうにかね」
剣吾は手元の作業に視線を注いだまま、答えた。
「彼女は、どのくらいのペースでここへ来てるんです?」
「ペースねぇ……さぁ、数えたことあらへんなぁ。たいがいは、朱音ちゃんと一緒に来てくれるんですわ」
そこで、剣吾はようやく顔を上げてニッコリ笑いながらグラスを差し出した。
「お客さんは、薫子ちゃんの彼氏さんですか?」
今度は薫子が驚いたように剣吾を見たが、彼の目は亮介だけを捕えている。
亮介はちょっとの間、薫子を意味有り気に見つめてから微笑んだ。
「そこは……ご想像にお任せしますよ」
もう沢山だ!こんな茶番に付き合ってなんかいられない!
怒りと共にそう思った薫子は、とうとう立ちあがった。
「マスター!帰るわ、いくら?」
剣吾と亮介が、同時に薫子を見た。
「……2800円やで」
先に剣吾が答えた。
薫子は、鞄の中を弄って財布を取り出すと、ピッタリの金額をカウンターの上に置いた。
亮介の方を見もしないで上着を羽おった薫子に、亮介は慌てた。
「おいおい、本気で僕を置いていく気か?」
「どうぞ、ごゆっくり!……マスター、御馳走さま!」
薫子は投げ捨てる様にそう言うと、振り向くことなくドアへ向かった。
「毎度おおきに!」
そして、剣吾の声を背に、店を出た。
エレベーターに乗り込む前に、亮介に追いつかれた。
「待てって!薫子、何をそんなに怒ってるんだ?僕が一体何をした?」
薫子は、くるりと振り返って目を眇めた。
「……ルール違反よ!」
「ルール違反だって?僕が君に会いに来る事がかい?わからないな!」
「ここはね、あたしのテリトリーだわ。何を勘ぐったのかは知らないけど、わざわざ探してまで付きとめるなんて!あたしは、あなたの自宅すら知らないのに!会いたかったんなら、連絡くれればどこへでも行くでしょう?」
亮介は、薫子の剣幕に苦笑いを浮かべた。
「そんなにここへ来て欲しくなかったなんて、知らなかったよ。……やっぱり彼が君の新しい恋人かい?だから、知らせたくなかったんだろうね」
その嫌みたっぷりな言葉に、薫子はうんざりと目を閉じた。
こんな薄っぺらな男は、あたしの惚れた亮介じゃない!
「そうよ、彼があたしの新しい男よ、だから別れて欲しいの!……そう言ったら亮介は納得してくれるわけ?別れてくれるの?ううん、本当はあたしのせいにして、亮介が別れたいんじゃないの?どうなのよ!?」
その怒りに任せて言った薫子の言葉が、的中したのかどうかはわからなかったが、あきらかに亮介の顔が、なんとも言えない表情に歪んだ。
「……え?……そうなの?図星なの?」
今度は、薫子の顔が歪む。
「いや、……そんなわけないだろ?別れたい人間の後を、追いかけたりはしないよ」
だがその言葉とは裏腹に、亮介の瞳は、焦点が合っていないかの様に虚ろだった。
「ねぇ、亮介、話してよ。一体何があったの?最近のあなたの様子はあきらかに前とは違ってたわ。あたしには……話せないことなの?」
普段ならあまり、相手の事情に踏み込んだりしない薫子であったが、さすがに今回の亮介の様子には、聞かざるを得ない何かを感じた。
「妻が……家を出て行ったんだ……大地も連れて」
その衝撃的な告白は、30秒後に亮介の口から飛び出した。
大地とは……4歳になる彼のひとり息子である。
薫子は、言葉を失った。
彼の家庭の事情は、その家族構成意外、一度も聞いたことが無い。
あくまでもそれが、二人の間のルールだったからである。
だからこそ、彼と彼の妻との関係が良好であったのか、そうでなかったのかなどを薫子が知ることは、この一年余り無かった。
「……喜ばないのかい?」
「あたしが、喜ぶわけないでしょう?」
「だって、これで僕は君だけのものになるかもしれないんだよ?」
そう言った亮介の声は、これまで聞いたこともない位、寒々としたものだった。
薫子は微笑みらしきものを浮かべるのが精一杯だった。
「あたしが、そういうことを望んでいないのは、知ってるでしょ?」
「そう……だったね、僕の家庭を壊すつもりはない、が君の口癖だったからね。でも、心配しなくていいよ、君のせいじゃないから」
薫子は、一旦頭の中を整理したくて、エレベーター横のフロアの手すりへ足を運んだ。
五月といえども夜風は結構冷たく、混乱した頭を冷やすにはもってこいに思える。
手すりにもたれて、どこを見るでもなく視線を泳がした。
マンションの裏側は、古い住宅やアパート、公園があり、表通りに比べて派手な明かりも少なくひっそりとしている。
彼の奥さんが子供を連れて家を出て行った……でも、その原因はあたしではないという……でも見るからに彼は、自身を見失う程動揺していて……これは、離婚するということなのだろうか?……もし仮にそうなったとして、あたし達はどうなるのだろうか?……これで彼は誰かのものではなくなるから、あたしが独占する?……本当にあたしはそれを望んでいたのだろうか?……。
目を閉じて、千々に乱れる思いに耽っていると、突然強い力で後ろから抱きすくめられた。その力の強さが、亮介の今の心の状態を表していた。
「薫子……」
髪に顔を埋めて、呻くようにそう言った彼が、少なくとも今自分を求めているのでないことは、手に取る様に伝わってきた。
そう、今になって実感できることは、彼にとって最大の支えはその家族に有ったことだ。
その支えを失いそうになって、とたんに彼はバランスを崩した。
バランスを失ったからこそ、あたしに支えを求めてあたしを追いかけようとした。
でも、どう考えても、あたしでは彼の支えにはなれない。
あたしが彼の家族の代りになどなれる筈が無いし、あまりにも役不足だ。
薫子は、そこで大きく溜息をついた。そう、そして何よりも大きいのは……あたしの方が、彼には支えを求めていないということだ。
突然見えてきた全ての答えに、薫子はヒステリックに笑い出したくなった。
あたしは、なんと馬鹿な恋愛関係を一年以上も続けてきたのだろうか!?
お互いに支えになることも無く、かといって辿り着く先も持たず、ただルールという線だけをやたらと引いて、中身も何もあったもんじゃない関係!
薫子は、自分を抱きしめる彼の腕を軽く叩いた。
「ねぇ、亮介?亮介は、どうしたいの?まさか本気で奥さんと別れてあたしと一緒になろうなんて、考えてはいないわよねぇ?」
亮介はすぐに答えなかった。
答えられないことを承知で、薫子は言葉を続ける。
「あたしは、あなたと一緒になるつもりはないわ。仮にあなたが離婚したとしても、よ。だから、離婚なんてしないほうがいいわ、……大地君のためにもね」
「だから……別れるって言うのか?君まで、僕を捨てるのか!?」
「捨てるって、何よ!?」
薫子は、亮介の腕を振りほどくべくもがくと、くるりと振り返った。
「あたしたちは最初からそういう関係じゃなかったはずよ?いつでも別れられることを前提にしてきたでしょ?」
「それは、君が一方的に決めたんじゃないか。でないと、僕と別れるって脅してさ!なのに、今度は一方的に捨てるのか?面倒はごめんだからか?」
この男は一体何を言っているのだろう?薫子は、目の前の見慣れた顔に目を細めた。
一番最初に、嘘をついて“不倫”というリスクを背負わせたのは彼だったはずだ。
「大体、君みたいな気性の激しい女には刺激が必要だったんだろ?だから都合のいいところに君からラインを引いて、楽しんでたんだ。それが、刺激を越えて面倒臭いことに巻き込まれそうになったとたん、僕なんか簡単に捨てるということか?」
薫子は、吐き気がした。その、あまりの偏見的な言葉の数々に……それを平然と口にした彼の歪んだ表情に。
「土下座でも何でもして、奥さんに帰って貰ったらいいじゃない!こんなところであたしみたいな女、相手にしていないで、とっとと迎えに行きなさいよ!」
次々に込み上げる怒りを押し殺して、どうにか言葉を絞り出した。
本来、その気性が故に感情をコントロールすることが大の苦手ではあったが、叫びだしたいような感情を歯を喰いしばるようにこらえた。
薫子には、今目の前にいる恋人がまるで見ず知らずの人間に思えてきた。
亮介は、そんな睨みつける薫子に向かってうすら笑いを浮かべた。
「あいつの……美穂の父親は、僕の直属の上司なんだよ。君との事がばれたけど迎えに来ました、なんてどの面下げて言えばいいんだ?」
「……そうなの?やっぱりあたしとのことが奥さんにばれたの?それが全ての原因なの?」
そう尋ねた薫子の顔は、ひどくこわばった。
それが真実ならば、一番あってはならないことだった。
そんなことは、最初からわかっていた筈だと言われれば、返す言葉もないが……それでも、細心の注意を払ってきたつもりだった。
「今更そんなことを聞くなんて、君も頭の悪い女だな。僕は家庭では完璧な夫だったんだ。それなのに、ある日突然美穂が出て行ったということは、君の事が原因としか思えないよ」
まるで、すべてはおまえが悪いと宣言されたような気がした。
つい数分前には、あたしのせいじゃないと言ったその舌の根が乾かないうちに、この男は前言を撤回したのだ。なんと軽い男だろうか?
あたしは一体彼の何を愛したのだろうか?
薫子は軽い目眩の様なものに襲われて、思わず顔を逸らした。
最初に嘘をついたのは彼で、自分の想いを絶ち切れずにこの関係を容認したのは自分で……どちらが悪いのかといえば、そこは同等な筈だ。
だが、今そのことをはっきりさせたところで、何かが解決するわけでもなく、むしろバランスを失っている彼にそんなことを突き詰めれば、ますます追い込むことになりかねない。
薫子は、次々と湧きあがってくるあらゆる感情を呑み下しながら、喉の奥から胸のあたりに酷い息苦しさを感じた。
だが、自分のまいた種ならば、逃げ出すことは許されない。
「で?……あたしはどうしたらいいわけ?亮介は、どうしたいの?」
「もう、二週間になるんだ、美穂が出て行ってから。本当のところ、何が原因かも知らされていない。ただ簡単な置手紙だけで、今は会いたくないの一点張りで……」
亮介は、突然事情を説明しだした。さっきまで自分を抱きしめていた両手は、だらりと力なく両脇に垂れ下ったままに。
「置手紙には、なんて書いてあったの?」
「……ごめんなさい、ちょっと実家に戻ります……それだけだった」
「もちろん、実家には連絡入れたんでしょ?」
「最初の四日ほどは、特に入れなかった、あいつが実家に帰るのは珍しくなかったからね。またいつもの息抜きかなんかだと思ったんだ。でも、さすがに一週間近く音沙汰が無いことに、心配になった。何よりも大地の幼稚園のことが気になって、そこで連絡を入れた」
薫子は、初めて聞く彼の家庭事情に、どうしようもなく滅入る気持ちを落ち着かせる為、煙草を取り出して火をつけた。
どう考えてもこんなエレベーターの踊り場でする話じゃない、と皮肉っぽく胸の中で呟きながら。
「すると、あいつは出てこない。お義母さん曰く、酷く落ち込んでいるが、喧嘩でもしたのか?と聞かれて……僕は正直、覚えが無いと答えた。すぐにでも迎えに行きたいと申し出たら、今度は上司でもあるお義父さんが出てきて、こちらから連絡するまでは待ってくれと言われた。大地の幼稚園はこっちから通わせているから、心配無いともね」
なるほど……と、薫子は胸の内で頷いていた。
これでここ暫くの彼のおかしな様子の辻褄があった。
あの、真夜中の着信履歴の時がその日だったのだ。
奥さんが、実は家を出て行ったとわかった日。
だが、こうして聞く限り、どうやら彼は蚊帳の外にされている感じが否めない。
はっきりとした原因も聞かされず、義理の両親が入れ替わり立ち替わり出てくるんじゃ彼もたまったもんじゃないな、とは思う。
「ねぇ、やっぱりあたし達、もう会わない方がいいわ」
薫子のきっぱりとした言葉に、亮介は眉をひそめた。
だが、彼が何かを言い出す前に薫子は片手を上げて、遮った。
「まずは、亮介はちゃんと奥さんと大地君を迎えに行かなくちゃ!全身全霊で誤解を解いて話をするべきでしょ?そうしないと、あなた、駄目になるわ。ホントは、自分でもわかってるんじゃない?」
薫子の言葉は的確だった。
だが、煮え切らない表情のままの亮介は、不安そうに口を開いた。
「今……君にまで去られたら、僕は本当に一人になってしまうよ」
「だから、一人になるのよ。奥さんは、あなたが一人になるのを待っているのかもしれないでしょ?そうは思わない?」
薫子は、腰に手を当てて正面から彼を睨むように見つめた。
「いい?両方は手に入らないのよ!亮介が手に入れられるのは、奥さんとあたし、どちらか一つだけよ。どちらも欲張ったから、そのつけが今来てるんじゃないの。もう、目を覚ますべきよ、あなたも、あたしも!」
「わかってたよ……でも、本当に薫子が、好きだったんだ。一目ぼれだった。こんな感情は、美穂には抱いたことが無かった。彼女とはお見合い結婚の様なものだったから……本当だよ?」
弱々しい微笑みの彼に、険しかった薫子の表情が少しだけ緩んだ。
「あたしだって、本当に好きだったわよ。でも、やっぱりこうなるべきじゃなかったとも本気で後悔してる。お見合いだろうがなんだろうが、あなたはその人と生きると決めて結婚したんだから、大地君だって生まれたんだから、あなたはそれを壊しちゃいけないのよ。美穂さん……だっけ?会社の上司の娘だという彼女と結婚したことで、あなたが手に入れたものも、沢山あった筈でしょ?そういう物も、裏切るべきじゃないわ」
なんであたしは、この五歳も年上の不倫相手に正しい道なんて説いているんだろう?
本当なら、ここは泣きながら一緒になってと、訴える場面ではないのか?
だが薫子の感情には、虚しさや喪失感はあっても、不思議と哀しさの実感は無い。
一方亮介は、取り乱すことなく淡々と別れ話をする薫子に、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「……まいったな、ホント、君は強いね。こんなに冷静に別れ話をされたのは、初めてだよ。まるで執着しないんだね?僕はこんなにも君を失いたくないのに……涙一つ流さない君は、本当に平気なんだね」
泣かないからといって、平気なわけじゃないわ……薫子はあえてその言葉は呑み込んだ。こういう時は、弱々しい女であるよりも、強い女だと思われた方が絶対にいい。
「ありがと、それは褒め言葉として受け取るわ!」
薫子がいつものように、豪快に笑い飛ばそうとしたその時……
マンションの廊下から、突然、腕組みをした剣吾が姿を現した。
「なんや!?まだこんなところに居たんか?あんたら何してんねん!?」
その大きな関西弁の声の主に、薫子、亮介は一瞬ぎょっとした。
「話があったんなら、店でしたらよかったやろう?こんな夜風の当たるところで、もう一時間近くもおったんか?アホやなぁ!風邪でも引いたらどないするんや?」
それは、二人に、というよりもあきらかに薫子へ向けてのセリフだった。
突然の参入者に、薫子は一気に現実に引き戻されたような気分だった。
と同時に、剣吾の顔を見た途端、これまた突然、なぜだか泣きたくなってしまった。
つい今しがた亮介に別れ話をしていた時は、こんな感情は微塵も存在しなかったのに、剣吾の声を聞いた途端、ありとあらゆる感情が込み上げてきた。
「いえ、ちょっと立て込んでただけで……もう、帰るところです」
最初に答えたのは、亮介だった。
剣吾は眉を上げながら口元だけ歪めて笑うと、
「そうか?ならいいんやけどな、びっくりしたわ!」
「もう、店じまいしたの?」
薫子がそう尋ねると、剣吾はニッコリ頷いた。
「もう今夜は、客も無さそうやったからな。というても、もう11時やけどな」
亮介は、確認するように腕時計を覗き込むと、ちょっと慌てたように薫子を見た。
「今夜のところは、これで失礼するよ。明日も早いもんでね、また連絡する」
だが薫子は、突然エレベーター前へと歩き出すと、下行きのボタンを押しながらニッコリと微笑んだ。
「いいえ、もう連絡はいらないわ。……さよならよ、上木さん」
亮介はその言葉に一瞬絶句しながら、やはりエレベーター前まで進むと、もう一度薫子をまじまじと見つめた。
「……本気か?」
その時、エレベーターの到着のチャイムが鳴り、扉がスーッと開いた。
薫子は、もう何も答えずにそのエレベーターの方へ手を差し伸べて、亮介に乗るようにと促した。
亮介は、躊躇したものの、やがてゆっくりと中へ乗り込みこちらを振り向くと、薫子が乗ってくるのを待った。
だが、薫子は乗り込むことはせずに、そこで押さえていたボタンを離し、もう一度だけ微笑んで見せた。
「……さよなら、おやすみなさい!」
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