第7話  二十年目の決着



淡路島にあるイングランドの丘……それが今回のツアーの目玉だった。

梅雨に入る前の温かな時期、イギリスをモチーフにした色とりどりの花が各庭園で咲き誇っている。ここを訪れるのは2回目だったが、薫子にとっては結構お気に入りの観光地でもあった。


ところが、今回のツアーは、楽しむどころの話ではなかった。

町内会レベルの、さほど大きな規模ではない40人程のツアーであったから、いつものようなサブ添乗ではなく、何もかも一人で運ばなければならない。

尤も、自社のパックツアーであったからマニュアルは決まっているし、特別な事は何もなかったが、それでも結構な忙しさだった。

だが、ある意味薫子はその忙しさに救われていた。

昨夜の今日では、思い出すなという方が無理な話で、思考回路の半分以上を剣吾のことに支配されていた。

一番最悪なのは、ちょっとでも気を許したりすると、あの例のキスの場面が頭から離れなくなる。

馬鹿じゃないの!?薫子はその度に自嘲した。キスなら、何千回も経験している。

付き合った男の数だって、片手に余る程だ。

なのに今回は、何かがおかしい。それは初めて経験するような感覚に近い。

今までは、恋愛は恋愛、仕事は仕事、お酒はお酒、といった感じに自分の中に幾つもの部屋を持ち、小分けにして考えていられたのに、その部屋の壁全てが取っ払われてしまった感じだった。

そして、彼の存在そのものが、自分の心の中心にどっかりと居座っているような感じ。それだけで、なんだか今まで保ってきたペースがすっかり狂わされてしまうような気になる。


「あぁ~!!もう!嫌んなる!」

淡路島での夜、ようやくその日の業務から解放された薫子は、コントロールを失いそうな感情の流れに、思わず声を上げた。

あんなに夢中になったと思っていた亮介ですら、霞んで見えてしまう。

もちろん、彼とは条件付きの恋、みたいなところがあったから、一線を引いてきたせいもあるのだろうが、でも、本気ではあった。


「いつからなんだろう……?」

部屋のテラスの手すりにもたれて、満天の星空に向かって呟く。

昨日突然悟った剣吾への想い。最初から腹ばかり立てていたような気がする彼とのやり取りの中で……一体自分はいつの間に彼にこんなにも惚れていたのだろう?

そう、これは好き、とか恋する、などという言葉では納まらない感情だ。

明日、あたしは堂々と彼に会いに行けるのだろうか?

剣吾は、帰ったら顔を出せと言っていたが……あたしにその勇気があるだろうか?

でも、一刻も早く会いたいというのも本心だ。

あの、彼の腕の中の温かさと居心地の良さが、忘れられない。

だからこそ、逢いたい。

薫子は、長く深い溜息を夜空に向かってひとつ吐いた。


結局のところ、以前のように意気揚々と、とはいかないまでも、薫子は慎重な足取りで次の日、リュージュへと向かった。

「よぉ、お帰り!」

剣吾は、短い一言で薫子を迎えてくれた。その声を聞いた途端に、心臓が跳ね上がる。

「……ただいま」

薫子はぼそぼそと答えたが、そんな彼女に剣吾は優しげに微笑んで頷いた。

ただ、その日は二組ほどの先客が居たお陰で、二人きりになることは避けられた。

薫子は、いつもの陽気なテンションで客と客を行き来する剣吾の姿を、視界の隅の方で追いかけながら一人飲んだ。

「明日は、休みなんか?」

三杯目の水割りを作ってくれながら、剣吾が尋ねた。

「ううん、明日は出勤。だから、そろそろ帰ろうかと思って」

「そうか、疲れてるやろうしなぁ……」

珍しく語尾を濁したような言い方をした剣吾に、薫子は眉を上げた。

「何?何か用事があるんなら言って?」

「いや、別にかまへんねん。ちょっと話したいことがあったんやけど、今度にするわ。……まだまだ客も帰りそうにないしな!」

最後の部分は、ニンマリ笑いながら小声で付けたした。

そんな風に言われると、余計に気になるじゃない!という言葉はあえて呑み込んで、薫子は肩をすくめて同意した。


その剣吾が話したかった事というのは、その二日後にわかることとなった。

“今度”と言われて、次の日に行くのは待ち切れなかったと思われるような気がして、子供じみてるとは思いながらも、わざわざ一日空けてリュージュに向かった。

ところが、ドアにはなぜか定休日の札がかかっていた。

……おかしい、ここの定休日は木曜日のはずだ。今日は、まだ水曜日で……

薫子は、首を傾げながらドアレバーに手を掛けて押してみた。

すると、定休日ならば掛かっている筈の鍵が開いていた。

ドアを開けて、顔だけを覗かせると、中には二人の男性がカウンター席に座って剣吾と話し込んでいた。

後姿だけでは常連客かどうかは判断できないが、ただ、定休日の札を掛けているにもかかわらず人が居るということに、特別な事情を感じた。

やはり今日のところは帰るべきだと判断して、薫子がドアから顔を引っ込めようとした瞬間に、剣吾と目が合ってしまった。


「薫子!帰ったらあかんで!」

剣吾の声と同時に二人の男は振り返った。

一度も見たことの無い顔だ。


「マスター、いいの!定休日だって知らなかっただけだから、帰るわ」

見知らぬ客の手前、あえて“ マスター ”と呼びながらよそ行きの笑顔でそう言った。

「いや!おまえにはおって欲しいねん」

そう言いながらの剣吾の動作は素早かった。あっという間にカウンターを出て大股に薫子の前まで来て、ドアを大きく開いた。

「でも……なんか、取り込み中でしょ?」

薫子が二人の男を意識してそう言うと、剣吾はちょっと声を落とした。

「ほんまは、おまえが来てくれたらいいなぁと思ってたくらいや。この前、今度話したいことがあるって言ったやろ?それに、薫子にも二人を紹介したいしな」

「その話に関係あるってこと?あの二人のおじさまが?」

薫子が眉間に小さなしわを寄せて、推測を始めたことに、剣吾は思わず苦笑した。

「そんなに推理せんでも、単純な話やで」


剣吾に中へ引き入れられて、背中に手を当てられたままカウンターまで導かれた。

「おまえらに紹介するわ。……この人は花田薫子さんといって、この名古屋で唯一俺の過去の事情を知っていてくれる女性や」

「……こんばんは……」

剣吾の言葉を受けて、互いに顔を見合わせた男二人に、薫子はどうにか礼儀的な笑みを浮かべたが、内心、飛び上がらんばかりだった。

過去の事情を知っている女性ですって!?突然、何を暴露してるわけ!?

「薫子、こいつらは俺の昔のバンドのメンバーで、高見敏彦と吉川春樹、皆高校の同級生やったんや」

薫子は思わず瞬きも忘れて、目の前の三人の男達を見つめた。

これが、剣吾が話してくれたあの、“レイヤーズ”のメンバーなのだ。


「花田さん、でしたね?初めまして、高見といいます」

そう言って礼儀正しい微笑みでスッと手を差し出した高見は、実に貫録のある雰囲気の人物で、その昔バンドをやっていたなんて想像し難い感じだ。

「私は、吉川です。よろしく」

反対に吉川と名乗った彼は、ほっそりとしていて穏やかさを絵に描いたような人物だった。薫子は気を取り直して、男達としっかり握手をしながらニッコリと微笑んだ。

「初めまして、花田薫子です。どうぞよろしく」

剣吾は、薫子達が握手をしあう様子を満足気に見ながら頷いた。

「挨拶が済んだら、薫子も座ってや」


「さてと……どこまで話してたんかな?」

高見、吉川、薫子を前にして、剣吾はそう首を傾げた。

「剣吾……本当に花田さんに話してもいいのか?まだ、あくまでも提案の段階の話だぞ?」

おそらくは、取り仕切り役的な高見がそう聞いたが、剣吾は間髪いれずに頷く。

「問題ないで!逆に、彼女には知っていて欲しいからな。冷静で的確なアドバイスをくれる存在という点でやったら、一番信頼してるしな」

さらりと言われた“信頼してる”という言葉が、思いのほか薫子の心に響いた。

「剣吾がそう言うんなら、いいんじゃないか?」

そう穏やかに促したのは、吉川だった。

高見は小さく頷くと、あえて薫子の方に身体ごと向けて話し始めた。


「実は、私達はあることで、彼、藤原君に力を貸して欲しくてここまで来たんです」

「十八年振りに、ですか?」

冷静にそう聞き返した薫子に、高見の顔には興味深そうな表情が浮かんだ。

「そう、十八年振りにです。まぁ、正確に言えば彼と会うのは、十六年振りですがね」

薫子は、何も言わずに微笑んで話の続きを促した。

「昔のことはご存じだという話なので、省きますが……あれから二十年が経ち、アーティストとしては結果を残せなかった我々も、業界ではそれなりの結果を残せるようになれました。私がプロデュース業で、彼は作曲や編曲、ミキシング業などでね」

高見は、そこで一旦吉川の方を見た。すると、吉川がその先の話を引き継いだ。

「今回、私達は新たに大きなプロジェクトを立ち上げることになったんです。今までの実績が買われたというのもありますが、これはある時点からの私達の夢でもあったんです」

“ある時点から”という言葉に特別な意味を感じた薫子は、素直に感じたままを口にした。

「それは、いつかまた三人で……という夢ですか?だから、マスター……いえ、藤原さんに力を貸りに来た、つまりは彼を迎えに来たっていうことですか?」

二人の男は一瞬顔を見合わせてから、可笑しそうに笑った。

「……なるほど!確かに素晴らしく的確に物事を捉える方だ」

「せやから、そう言ったやろ?」

剣吾もそう言いながら、つられて笑った。

だが、薫子だけは笑わなかった、いや笑えなかった。

剣吾を迎えに来た……という言葉を彼等は否定しなかった。むしろ、的確だと言われたのだ。それがどういう意味なのか……

薫子の顔から自然と笑みが消えた。

剣吾がこの話を受ければ、彼は再び東京へ行くということなのだ。迎えに来たということは、そういうことを意味するのだ。


「で?そのプロジェクトっていうんは、どういう内容やねん?」

剣吾が話を再開させた。

「大まかに言うと、要は大掛かりな全国規模のオーデションを開くんだよ、登竜門的な感じの。その総合プロデューサーに高見が抜擢されたんだ。スタッフ、審査員、人事関係、審査方法まで、全ての采配を高見が振るうことになる」

吉川の端的な説明に、剣吾は大袈裟に唸った。

「トシ!おまえ、どえらい出世やな!?凄いやないか!大したもんや」

それは、剣吾の心の底からの感想だった。

あの、どん底だったスレイヤーズを解散して二十年。東京から、現実から、逃げ出した自分とは違い、その道を諦めずに今日まで頑張って来た二人の成功は、何にも代え難い喜びだった。


「ただ、トシやハルの成功は別にしても……こんな俺に力を貸せやなんて、見当違いもええとこやで?」

「だから、言っただろう?俺達の夢だったって。見当違いでもなんでもなく、三人でもう一度組むことが、高見と俺の目標でもあった。おまえは、一度も考えた事は無かったのか?」

その吉川の問いかけに、剣吾の視線は微かに泳ぎ、表情がこわばった。

「いや……無いな。俺には、そんな資格は無い」

剣吾の硬い声音に、薫子の胸は痛みを覚えた。

彼のことだから、きっとそういう事全てを自らに禁じてきたのだろうと思う。

「まぁ、おまえの性分ならそうだろうな。予想はしてたよ、おまえはきっと未だに自分を許してはいないだろうって」

高見がなんとも言えない表情で、頷いて見せた。

「でもな、剣吾……だから、この企画をやるんだよ。あの頃の俺達のように、時代や流行だけに左右されて消えていくような音楽を作らない為にな。本物を見つけて、本物を育てたいんだ」

「本物……ねぇ。まぁ、そうやわなぁ、あの頃の俺等は付け焼刃のようなもんやったからな……」

「俺達は、過去に決着をつけなくちゃいけないんじゃないか?心の奥の方でずっと何かが引っ掛かっているのは、おまえだけじゃない。やるんなら、三人一緒でないと意味が無い、わかるよな?」

流石はプロデュース業のプロだな、と薫子は内心思った。

話の矛先の持っていき方が上手い。

剣吾の自尊心や痛みの部分に、揺さぶりを掛けているのがわかる。


「剣吾、おまえだって音楽を完全に捨てたわけじゃあるまい?」

そう言った吉川の視線は、例のカウンター奥に立てかけられた古いギターに注がれていた。こわばったままだった剣吾の顔に苦笑いが浮かび、小さく首を振った。

「捨てるも何も、音楽はなんも悪くないからな……逆に音楽を裏切ったんは、俺の方や。その最低の俺がもう一度音楽を、なんて、ど厚かまし過ぎるやろ」

その、彼が自分自身に向けて放った冷たい言葉に、薫子の心は再び共鳴するように痛んだ。それはあまりにも不思議な感覚だった。

自分以外の誰かに心が共鳴するなんてことは、未だかつて経験が無い。

薫子は、その自分のものではない痛みに、そっと目を閉じた。


「剣吾、おまえの気持ちは理解できるが……俺達の覚悟も理解してほしい。どうしても、おまえともう一度一緒にやりたいんだ」

静かではあったが、決意のようなものを感じさせる吉川の言葉に、剣吾は頷くことも、微笑むこともしなかった。

そんな剣吾の様子に、高見がフッと微笑んだ。

「……今日のところは、これで一旦帰るよ。明日朝一番の会議に間に合わなくなるんでな。来週もう一度、返事を聞きに来る。いや、返事というよりも、それまでに心を決めておいてくれ、頼む」

高見の言葉は、吉川の言葉よりももっと強いものだった。

剣吾は無言で二人の顔を見つめ、やがて、いつものように笑った。

「何はともあれ!こうして訪ねてきてくれて、ほんまに嬉しかったわ!まさかおまえ達とこんな風に再会できるなんて、思いもせんかったからな。遠いとこ、わざわざ悪かったな!」

そう言いながら二人に握手を求めた剣吾は、いつもの陽気な彼だった。


薫子に礼儀正しい挨拶をくれて、二人の男達は店を出ていった。

帰り際、ドア口で思い出したように口を開いた高見の言葉を思い出す。

「そうだ、麻美さんも、おまえに会いたがってたよ」

薫子はカウンターに座ったまま見送っていたので、その時の剣吾の表情は見えなかった。だが、その後ろ姿の肩の辺りが一瞬こわばったように見えたのは、見間違いではなかったと思う。

「…………そうか、よろしく言うといてくれ」

不自然な間を空けて、ようやくそう返した剣吾だった。


二人を外まで見送ってから、店に戻り薫子の隣に黙って座るまで、15分は掛かった。

その間、薫子は身じろぎもせずに待っていたが、剣吾が戻るとグラスを見つめたまま口を開いた。

「あたし、帰ろうか?」

「いや、おってくれ。今帰られるのは……辛い」

即答した剣吾に、薫子は一瞬驚いたが、すぐに頷く。

「了解、じゃぁ居るわ。剣吾がもういいって言うまで居るから、安心して」

きっぱりとした薫子の言葉に、剣吾の口元は小さくほころんだ。

「こらこら、そんなこと言うと帰したくなくなるやろが!」

「いいわよ、それでも。明日は内勤業務だし。……この前の、お皿の御礼よ」

「義理固いやっちゃなぁ、おまえは。でも助かるわ、こう見えて……今日のは正直、結構堪えた」

剣吾はおでこをげんこつで軽く叩きながら、目を閉じて天を仰いだ。

「うん、知ってる。あんな顔の剣吾は初めてだったから」

「そんなに酷い顔やったか?」

「……ていうか、あれがあなたの本当の顔なのかもね?普段の調子っぱずれテンションのマスターは、業務用なんじゃない?」

相変わらずの淡々とした口調の薫子に、剣吾は吹き出した。

その見慣れた笑顔につられて薫子も笑った。彼が笑ったことで、内心ちょっとだけホッとした。


「やっぱり、おまえは居心地ええわ!なんでか、気が楽になる」

「そう?ありがと。じゃぁ、居心地良いついでに……思ってること言っちゃえば?」

それは薫子らしからぬ、かなり気を遣った言い方だった。

それだけ、かなりデリケートな話だと自覚しての配慮だった。

「思ってること全部……か」

剣吾は、前を見たまま呟いた。

「剣吾は、どうしたいの?あ、もちろん諸々の事情はとっぱらった上での話よ。昔のことも、罪の意識も、無しね」

薫子の言葉を受けて、剣吾は暫く黙りこんだ。

心ここに在らず……の彼の横に在りながら、少しの気まずさも、孤独感も感じないことに薫子はとても満足していた。

他人との距離間をいつでも最優先してきた。

関わり過ぎないように、負担にはならないように、あまり近づき過ぎないように、と。

だが、今、彼に関わりたいと思っている。彼を苦痛から守りたいと思っている。

背負う物が大きいのなら、一緒に背負ってあげたいとまで思っているのだ。

こんなの、ぜんぜんあたしらしくないと思う。

でも、……生まれて初めて感じた、誰かを守りたいという感覚に心がいっぱいになる。

実際のところ彼は、自分よりもずっと年上で、そんな彼から見ればひよっ子のような人間に守ってもらおうなんて、ちゃんちゃら可笑しいことなのかもしれない。

でも、年上も年下も、そんなことすらどうでもいいと思える。


見えない何かに目を凝らすように前を見つめていた剣吾が、突然動いた。

立ち上がってカウンターに入り、例のギターを手にすると、細いスツールに腰掛けて抱えた。薫子は、瞬きも忘れて剣吾を見守る。

コードを押さえる為のキュッという音と共に、室内いっぱいにギター音が鳴り響いた。

それはどこか懐かしい、とても繊細な音だった。

ギターそのものがかなり古い物だったから、決して透明感のある音ではなかったが、剣吾の爪弾くアルペジオは、とても優しいメロディーで、それが徐々にストロークに変わると、音はどんどん力強さを増した。

その音に、剣吾の声が乗った。薫子は息を呑んだ。

初めて聞く彼の歌声は、常に聞いている彼の声とは違い、全くの別人だった。

男性にしては結構なバリトンで、心地良いハスキーボイス。

普段から熱心に唄や音楽を聴く質ではなかったが……薫子は目の前の切なく甘いその声と音に圧倒された。

その曲が有名なのか、オリジナルなのかもわからなかったが、そこに込められた剣吾の想いのような物が、どんどん胸に迫ってくる感覚に襲われる。


ただ一つわかったのは、その唄がおそらくは麻美というかつての恋人の為の物だろうということだった。

愛し抜けなかったことを悔やみ、傷つけ笑顔を奪ったことを悔やみ、今も尚忘れられない面影を求め……それは、そんな遠く切ない胸の内を唄った物だった。

薫子は、徐々に息苦しくなっていく胸の辺りを無意識に押さえていた。

彼の感情の豊かさや、愛情の深さが、今更ながらショックだった。

その溢れんばかりの想いが、自分ではない誰かに向けられていることが、キリキリと胸を衝く。そしてそれこそが……嫉妬なのだと思い知る。

薫子は、突然自分の中で暴れ出した未知ともいえる感情を、無理矢理抑え込んだ。

今、気を許したら、わけもなく泣いてしまいそうだった。

剣吾に導かれ、解放された“泣く”という感情が、あれ以来多々襲ってくることがあって、薫子はそれを持て余していた。

敵に背中を向けてしまうような、そんな無防備さをなかなか受け入れられないでいたのだ。


曲が終わると、薫子は閉じていた目を開けて、ゆっくりと微笑んだ。

「良い唄ね。音楽のことはよくわからないけど……そう思うわ」

剣吾はギターを横に立て掛けると、何ともいえない表情で照れくさそうに笑った。

「人前で歌うのも、二十年振りや。なんか、くすぐったいわ」

「そう。じゃぁ、復帰おめでとう!って言わないとね?」

薫子は少し面白そうに眉を上げた。そして、すぐに真顔に戻った。

「剣吾の想いは、伝わってきたわ。多分……今言いたいことも全部ね。本当は、答えは剣吾の中で出てるんじゃない?あたしは、そう感じたけど」

「答えは出てる……か。薫子がそう感じたんなら、当たってるかもしれんな」

剣吾は、苦笑いと共にそう呟いた。だが、すぐに何かを取り消すように首を振った。

「だがな、その答えは微妙なラインでせめぎ合ってる感じや」

「どんなふうに?」

「そうやなぁ……なんていうか……」

珍しく、剣吾が言葉を探して言い淀んだ。

「音楽の世界に戻って、どんな形であれ、もう一度やりたいのか……二度と出来ないのか……そのせめぎ合いやな。うまく言えんけど、わかるか?」

剣吾の言う、“やりたい”と“できない”の微妙な違いは、薫子にも充分理解出来た。

「要するに、気持ちなのか、状況なのかってこと?やりたいけど、やってはいけない、みたいな?」

「その通りや。それを望む気持ちはあったとしても、俺にはその資格は無いってことや」

薫子は、剣吾の顔を真っすぐ見て、静かに尋ねる。

「その資格の有る無しは、誰が決めるの?剣吾がもう一度音楽でやり直すことを認める、認めない、の判断は誰が下すの?」

剣吾が答える前に、そのまま続ける。

「事務所は、認めたのよね?だから、高見さん達が迎えに来たんでしょ?その高見さん達だって、あなたを許して認めたから、もう一度一緒にって、言ってくれたのよね?……じゃぁ、あなたを認めないのは一体誰なの?あなたを許していないのは……剣吾、あなた自身でしょう?」


鋭く、的確な言葉だった。剣吾の口から、乾いた笑いが漏れる。

「情けない男や!二十年も経って、尚もこだわっとるんやから!皆は、とうに乗り越えて許してくれてるっていうのに、肝心の俺がこのざまや!」

剣吾は、吐き捨てるようにそう言うと、カウンターに両手をついてうな垂れた。

薫子は、そんな剣吾の姿を見ながら、彼を救いたいと、心の底から望んだ。

たった一人きりで、誰にも話すことなく、二十年間も抱えてきた痛み、後悔、未練。

彼は、もう十分苦しんできたのだ。

彼は本来の居るべきところへ帰るべきなのだ、と思う。


薫子は、何かを決めるように唇をキュッと結ぶと、極力感情を込めずに口を開く。

「前に、あたしに聞こうとしたこと覚えてる?あたしが……麻美さんだったら、どうして欲しかったか、って話」

「……もちろん、覚えてるで」

「あの時は、あたしの意見なんてなんの参考にもならないと思ったから、言わなかったけど……本当は思っていたことがあるの」

「……なんや?」

剣吾の眉間に、浅いしわが寄った。

「本当は、剣吾は麻美さんに会いに行くべきだったって」

「つまりは……俺は麻美に許して貰えてないから、未だに自分を許せないでおる、ってことか?」

その一足飛びな剣吾の一言に、今度は薫子の眉間にしわが寄った。

「剣吾の中では、そういうことになってるの?それが、高見さん達ともう一度組めない理由なの?……だとしたら、麻美さんが可哀相だわ」

「それは、どういう意味や?」

「あたしがその当時の彼女なら、絶対にあなたを恨みはしなかったわ。むしろ、あなたを追い詰めて音楽を止めさせてしまったと、自分を責めたわよ、きっと。その上、なんのケリも着けないまま、あなたの行方もわからなくなったんなら……」

「それが、尚更あいつを不幸にしたってことか?だから、可哀相なんか?」

不幸にした……という言葉が適切だとは、思わなかった。

「ねぇ、剣吾は、自分が彼女を不幸にしたと思ってるの?それを酷く悔やんで、今まで引きずっているの?だから、自分を許せないの?」

「……いや、俺はそんな真っ直ぐな人間やないで。あいつに対しての懺悔だけを胸に生きてきた、なんてそんな綺麗ごともよう言わん」

そう言った剣吾の表情は、酷く冷めたものに見えた。

薫子は、あまりにも立ち入り過ぎている次の問いかけを胸に、わずかな迷いを捨てて口を開いた。


「そう……。だとしたら、本当のところは、あなたが麻美さんを許せてないんじゃない?自分達の子供を勝手に堕ろしてしまった彼女を、どうしても許せなかったから会いに行けなかった……実は、それが真相?」

その薫子の淡々とした問いかけは、瞬時に剣吾の表情を凍りつかせた。

その目を眇め、自分を見る彼の顔が、怒りのようなものに歪んでいくのがわかった。

「前にも、言った筈や。……思ってることなら何を言うてもいいわけじゃないって。もう忘れたんか?」

あきらかに、怒りの感情を抑え込むようなその低い声に、薫子は挫けそうになる気持ちを奮い立たせる。

「もちろん、覚えてるわ。さすがのあたしも、こんなこと思いつきで言ってるわけじゃないから。でも……どうやら、的外れでもなかったみたいね?」

「おまえ、人の心まで推理するんか?質の悪い趣味やな!」

不愉快に歪んだ剣吾の顔に、薫子は軽く唇を噛む。もちろん、そんな趣味は無い!

徐々に見えてくる彼の心の闇の部分に、薫子は躊躇した。

そこだけは、なん人たりとも踏み込んではいけない部分なのかもしれない。

仮に、自分が剣吾なら、きっと触れては欲しくない筈だとも思う。

でも……と、薫子は考えた。

二十年もの歳月をかけて、皆が彼を許したうえで迎えに来てくれたというのに、彼の心の奥底の氷は溶けきれていないままだ。

その最大のわだかまりが、彼自身が持つ麻美さんに対する昇華しきれていない色々な想いだとしたら……きっと彼は、このまま前にも後ろにも行けないままになってしまう気がした。そんな剣吾は、見たくない。


「結局は、……なんだかんだ言って、それがネックになってるのね。この二十年間、あなたが麻美さんを許せなかったから、会いに行くことも出来ず、今もまだこだわってるのよ。事務所にも高見さん達にも、会って頭下げに行けたのに、麻美さんにだけは会えなかった。彼女の幸せを壊したくはなかった……なんて、それこそただの綺麗ごとじゃない!」

それは、なんとも残酷な一言だった。

相手の心に土足で踏み込んでいるのは十二分にわかっていた薫子だった。

だが、そんな薫子をよそに、腕組みをしてじっと聞いていた剣吾は、驚くほど静かに笑った。

「俺も……焼きが廻ったわ。ひと回り以上年下のお嬢さんに、この二十年間をたった一言で片付けられてしまうんやからな」

そう言いながら薫子を見た彼の瞳は少しも笑ってはおらず、むしろゾッとするほど冷たいものだった。

その冷たい目差しに、心折れまいと薫子はわざと生意気に顎をツンッと上げて見せる。

「強がらないでよ?周りの状況はそれぞれに変わっているっていうのに、あなただけが今も止まったままだってことぐらい、小娘のあたしにだってわかるわよ!」

薫子の鋭い言葉に、剣吾の瞳に宿った冷たい光は、強さを増した。

「ほう!まるで俺のことならなんでもご存じのような言い方するやないか?」

「あたしがご存じなんじゃなくて、剣吾が認めないだけよ!本当は自分だけが決着付けてないんだってこと、わかってるんでしょう?麻美さんに会いに行くべきだってことも!」

「今更ノコノコと麻美の前に姿を見せて、俺に何を言えっていうねん!?二十年も前の話を蒸し返したところで、何の得があるんや!?お互いに嫌な思いをするだけやろが!」

剣吾の口調が一気に激しく熱を帯び、荒々しくなった。

ようやく胸の内を吐露し始めた剣吾の顔を真っすぐに見つめながら、薫子は心を鬼にして追い打ちをかける。

「怖いの?何を恐れてるの?彼女に会って昔の自分をまざまざと思い出すこと?それとも……彼女を許せないでいるかもしれない自分と向き合うこと?」

「おまえは……一体、俺に何が言いたいねん?」

薫子は躊躇することなく口元だけで笑った。

「情けない男だと言ってるのよ。本当は音楽がやりたくてしょうがないくせに、その世界に未練たっぷりのくせに、自分には資格が無いとかなんとか言い訳して逃げてるような情けない男だってね!突然こんな話を聞かせて、あなたはあたしに何を言って欲しかったの?慰め?励まし?悪いけど、あたしはそんな優しい女じゃないわよ」

そう一気にまくしたてた薫子の胸の内は、張り裂けそうだった。

こんな言い方しかできない自分の性分を恨めしく思い、その反面、どうか剣吾が過去を断ち切れますようにと願い、祈るような想いだった。

一方の剣吾は、薫子の辛辣な言葉に息を呑むと、口を真一文字に結び黙り込んだ。

激しい怒りを抑え込んでいるのがわかる程、カウンターで握りしめられた拳の関節が白く浮き出ている。


「いや、最初から俺が間違うてたな。これは、おまえに話すような事じゃなかったわ」

僅かな沈黙の後、剣吾が自嘲めいた笑みと共に口を開いた。

激しい憤りのような感情を抑え込みながら、自分から目を逸らすようにそう言った剣吾の突き放すような横顔に、今度は薫子が口を噤んだ。

そんな風にあたしを拒絶しないで!……そんな言葉が喉元まで上がってきたが、唇を噛んで呑み込む。

たった今自分は、それだけのことを言ったのだ。けっして彼を傷つけたいわけじゃなくても、無理やり古傷をこじ開けるような真似をしてしまった。


「………悪いが、今日は帰ってくれへんか?」

こちらは見ないままにそう言った剣吾の横顔を、哀しげな視線でちょっと間見つめてから、薫子は黙って静かに立ち上がった。

バッグを肩に掛け、ドア口まで歩き重い扉を開けると、思い直したように振り返った。

「最後に、一つだけ。きっと……会えばわかるわ。彼女に会えば、全ての霧はクリアになる。生意気言って……ごめんなさい」

そう言い切ると、薫子は振り向くことなく扉から出ていった。


エレベーターに乗って1階のボタンを押し扉が閉まると、薫子は冷たい壁にもたれたままズルズルと座り込んでしまった。

「だからこんな風に誰かと関わりたくないんだってば!!」

狭く冷たい箱の中に、自分の声が響いた。

昔からそうだ。こんな性格だから、優しい言葉なんて掛けられず、相手を心配すればするほど、逆に相手を傷つけてしまう。

そしていつでも相手と同じぐらい、自分も傷つくのだ。

傷つけるのも傷つくのも嫌だから、他人との深い関わりは避けてきたのだ。

散々懲りていたはずなのに、また関わってしまった。

心の底から惚れた相手だからこそ、彼を救いたいと思ってしまった。

そんな力も無いくせに、彼を過去から解放してあげたいと望んでしまった。

ばっかじゃないの!?救うどころか、反対に拒絶されてしまったわよ!こんな質の悪い女、きっと二度と顔も見たくないに決まってる!

そう思った途端、なんともいえない哀しみが胸に拡がり、泣きそうになる。

でも、泣きたいのはここでじゃない。

自分が泣ける唯一の場所が、……彼なのだから。

その彼を、失ったかもしれないという思いに、再び胸が張り裂けそうになる。

薫子は今までにない痛みに、自分で自分を抱きしめた。

「…………剣吾…………」

囁くような薫子の哀しげな声が、虚ろに響くだけだった。

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