第3話 ノゾキミの魔女(のぞきみのまじょ)
見えないものを見ようとして、私は右目を失った。
そして、代わりに得たものは――――どうしようもないほどにくだらない、魔法の世界。
****
人気のない路地裏。普段は煙草の煙ばかりが屯するこの場所で、場違いなほどに爽やかな香りが一つ。
そして、嗅ぎ慣れた“鉄の香り”が無数に。ペンキをブチ撒けたかのような“赤色”が、普段の黒の色彩すら塗り潰し、辺り一面を支配していた。
「――――。」
その中で唯一存在する“緑色”。若草色の頭髪を揺らし、額にジワリと汗を浮かばせている少女。それが、私。
呼吸をする。深呼吸。吸って、吐いて。また吸って、吐く。胃の中が逆流してしまいそうなほどの不快感――――此処に居てはいけないのだと、本能が叫び声を上げている。
もし、恐怖に足が震えていなければ、即座に後ろを向いて走っていただろう。もし、こみ上げる吐き気を抑えていなければ、絶叫を上げてしまっていた筈だ。
そうしたらきっと、私は次の瞬間に“赤色”の一部になっていたに違いない。
ただ、“最悪なことに”私はこのような場面をいくらか“見慣れて”しまっていて。だからこそ、この後に起きる“惨劇”を、ただ見続けることしかできないのだ。
「ああ――――」
――――“きた”。
右目を抉るような痛みが、先程まで恐怖による震えだった足の動きを別種のそれへと変化させる。ふくらはぎに力が入り、膝は崩れ落ちてしまいそうなほどに震え、両腕は自らを掻き抱く。
だが、私の“目”だけは――――普段何も見ないようにと髪の毛で隠している“右目”だけは、月も照らさぬこの場において爛々と、宝石の様に“煌めいて”。
それは記憶。
それは残滓。
そして魂の絞り粕。
自らの見ている視界が“現在とは異なる時間”を再生する。
――――悲鳴。
鉄板を掻き毟るような不愉快な音が、鼓膜を支配する。そして、赤色。本来人の体の中だけを循環するそれは、まるで噴水のオブジェにでもなったかのように色彩を吐き出し続ける。
私の瞳は見えてはいけないはずのものが映る。例えばそれはとうの昔に過ぎ去ってしまった過去の出来事であり、いずれ迎えるであろう未来の出来事でもある。
自身が体験し得ない過去と、自身がいずれ体験するであろう未来。その何方もを強制的に視界に映し、時という鎖から一時的に見放されてしまう不幸。
要するに――――過去と未来が否応なしに見えてしまうのだ、私は。
この路地裏で起こった(この見え方は過去のものであるだろう確信により、〝起こった〟と表現する)凄惨な事件は、言葉にすると酷く簡素で、単純で、絶望的なまでに淡々としていた。
それは路地裏に広がっている血液の跡が証明している。そして何よりも――――実際として今私の〝眼の前で起こっている〟のだから、私にとって記録というのは表現としての意味を持たない。
切って、開いて。結んで、引き裂いて。引っ掻き回して踏み潰す。
幼い時分、命という意味を知らず、昆虫の手足をもぎ取って遊んでいたのを思い起こさせるような無造作な行為。知的好奇心でもなく、嫉妬でも、怒りや悲しみといった感情でもない。それら全ての埒外を往く“異常”。まるで、これら一連の凄惨とした行為自体にすら大した興味を抱いていないとでも言うように、三メートルを有に超える巨体をした生物は、虚ろな瞳で私を“見た”。
「――――ひっ」
喉の奥が引き攣る。先程の声は本来この光景を見ている誰かではなく、私自身の体から吐き出されたものだ。
眼前の巨人は決して私を認識しているわけではない。私の右目が見るのは過去、もしくは未来の映像であり、これは確かに過去の出来事として瞳に映っている。
そして、過去を見る能力は常にその出来事を観測していた瞳を借り受けることで発動している。
だから、今まさに私に向かってゆっくりと振り向いている巨人の姿は瞳が映す幻影でしかなく、確かに起こり、そして終わってしまった過去のことである筈なのだ。
では何故恐ろしいのか? なんて聞かれようものなら、私は言葉もなくその疑問を投げかけてきたものに笑みを浮かべるだろう。この恐怖は、当事者にしか理解できないものであると知っているからだ。
真に迫った幻覚は現実と何ら変わらない。それも、先程まで現実であった過去であるならば。
少なくとも、私にとっては紛れもない現実である。
眼前に迫る巨人が、徐にその真っ赤に染まった腕を私の方にゆっくりと伸ばし――――――そして。
「――――ッッ!!?」
激痛。右目にフォークを突き刺して目玉をそのまま抉り出してしまおうとでもしているかのような激しい痛みが、私の脳髄を刺激する。
人が視てはならないもの。死した他者の視覚を通じて過去を見る時、最後には決まってこの痛みが訪れる。既に失ったはずの右目をもう一度失わせるような、新鮮で、新しい痛み。
気圧の変化によって起こる鈍痛とは訳が違う――――死んだはずの過去を見て、それでも生きているという“違和感”に対する自然的な精神反応。
脳が、痺れる。
人間とは、自分が死んだという感覚を理解することはない。
自分が死ぬ―――つまりは事故死であれ、自然死であれ、殺人によるものであってさえも、人は自分が死んだということを“理解”できない。あの時は痛かった、熱かった、眠かった。そんな感覚は所詮生きていなければ観測できない感覚であり、私達が死者の状態を見て推測する程度のものでしかない。当人が受けるものに比べれば、及ぶべくもないものだ。
もっと分かりやすく言うのなら、それは対岸の火事であると言えるだろう。確かに火事が起こっていることはわかる。熱いというのも、煙を吸って息が苦しくなるという感覚も理解はできる。けれど、それは理解ができるというわけで、実際に感じるということではない。
当人ではないために“きっと熱いのだろう”“きっと苦しいのだろう”などとくだらない傍観者の台詞を吐いてしまうように。
そして、当人たちはそれを語るすべを持たない。死んでしまっているのだから、どれだけ熱くても、苦しくても――――そこに、生きているがゆえの理解は存在しない。
人間は自己の、ひいては他者の死の痛みを正確に理解することは不可能だ。
だからこの痛みはきっとその“残滓”なのだ。
死んでしまいたいほどの重さではない。死んでしまうほどの鋭さでもない。
ただ、どうしようもない諦観を引き起こしてしまう病のような痛み。
それこそが――――私の
「………うっ」
遡る異物感。痛みで動悸の激しくなった心臓に更に負荷をかけ、喉の奥から溢れるようにして登ってくるそれを抑えきれず、吐瀉物をぶちまける。
ツンと鼻に来る異臭。胃液によるひりつくような痛みが喉にこびりついているが、右目に感じる激痛の前では所詮無視できる程度のものでしかない。
私は口元を無理やり拭い、即座にこの場所を離れなければならないと全身に活を入れる。痛みによってか既に恐怖は薄れ、ゆっくりとではあるが少しずつ動き出した足を急かす。
「―――――ちくしょう」
自分の言葉とは思えない掠れ声が漏れる。震える身体を引きずって、下ろしていたフードを頭まで被り、視界いっぱいに広がる赤と黒を振り払うように後ろを向いてあるき出す。
足取りは不安定で、赤子が視ても笑ってしまうような不格好さを保ちながらも、ゆっくりとその足は光の方へと進んでいく。
何時もならこの場所に広がっているのはやや陰鬱な薄暗さだけで、僅かに覗く月の光や街頭の明かりもあって、そこまで恐ろしいという感覚を抱くことはなかった。
けれども、先程までのこの場所は余りにも暗すぎた。月の光が届くことはなく、けれども本来見えるはずのない壁の染みまでがハッキリと映るほどに視界は通っていた。
まるで、この光景を――――此処で行われた残酷な行為を誰かに見せたがっているかのように。
私のような“
子供の児戯。そう吐き捨ててもいいほどに醜悪で、芸術性の欠片もない。ただひき肉のようにして殺しているだけだ。
ふざけるなよ。と思う。
何が児戯だ。何がひき肉だ。頭の片隅で何処かでそう思えてしまう自分に心底腹が立つ。
明かりの中に戻ったことによる安心からか、漠然とした怒りとぶつけることの出来ない苛立ちだけが私の中に募っていくのがわかる。
何時もそうだ。あんな――――人の命を容易く弄ぶような光景に、私は怒るだけで何もしない。その光景を幻視するだけで、それ以上のことは何も出来ない。
私にある日突然
手を伸ばすことも、足を向けることも出来ない。起こったことをただ視続けることしか出来ないのは、何よりも私の心の中を掻き毟る。
これが魔法というのなら、少なくとも世界にそう嘯かれるものならば。
せめて――――死んだ者くらいは救ってみせろという、
「だったら、こんな
呟きは、誰に聞こえるわけもなく。
ただ、次の私くらいには届くだろうと。一人納得して。
なら、次は失敗しないように。過去の自分にアドバイスでも残そうか。
「一番簡単なのは……
「どうしようもないって諦めて、死なないことだけを考えて生きる」
「正常な“私”であるのなら、そうすることが正解なのは分かってるはず」
「まぁ、でも――――――」
今の私には出来なかったことが、過去の“私”にできるはずもないというのは、分かっていることだ。
だから、この未来を視た私が少なくとも死なずに済むように。最後は笑ってやろう。
真下に落ちる影――――先程幻視の中で視た黒い腕が振り下ろされんとしている中、巨人の虚ろな瞳に映る情けない自分の顔を見て、笑う。
次の瞬間――――私は、死んだ。
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