第2話 カゲフミの魔女(かげふみのまじょ)
――――鈴の音が聞こえる。
田舎とは違う都会の日差し。無数の雑踏からなる喧騒にも大分慣れてきていた頃。
照りつける太陽を避けるようにして足早に歩く人混みの中で、聞き慣れた音がする。
まるで小さな鈴を転がした時に鳴るような可憐さを伴う、くすくすとした笑い声。
やけに耳元で響くその音は、私を何処かに誘うように聞こえた。
きっと疲れているのだろう。今会社ぐるみで行っている一大プロジェクトが完成間近で残業続きなこともあり、先日も疲れ果てて家に帰ると化粧も落とさずに寝てしまっていた。
だから、これはきっと幻聴だ。そう思い――――たかった。然し、そんな思考を読んでいるかのようなタイミングで、鈴の音は再度鳴り響き。はっきりとした“少女の声”が、私の意思を“引き剥がす”。
『――――っちへ。』
『――――いで』
『お――で』
寝不足の頭を突き刺す声。くすくすと合間に挟まる可憐な声が、余計に腹立たしさを増長させる。
(早くデスクについて、朝礼が始まるまで軽く仮眠をとっておきたいのに。)
苛立ちは段々と積もるばかりで、正常な判断を失っていることは自覚していたが、それでも「この声の主に一言文句を言わなくては」という、漠然とした感情に突き動かされ、視線をついに“彼女の示した方向に”向けてしまった。
其処に映っていたものを見て、先程までの怒りは一瞬にして霧散する。正確に言えば、新たに生まれた“恐怖”という感情に、あらゆる情動が塗り潰されてしまっていた。
――――子供の頃の、私。
小さい頃、私は“見えてはいけないものが見えてしまう”という特殊な体質を備えていた。
母の話では、よく虚空を指さしては“誰かがいる”と言っていたり、近所に住む猫たちと同じ場所をじっと見つめていたり、何もない空間に向かって友人にでも出会ったかのような反応を示すなど、はたから見れば不気味そのものな言動を繰り返していたらしい。
“らしい”というのは、今の私には当時の記憶が存在せず、母や親類からそう聞かされて初めて知ったからである。
というのも、私は記憶を無くす前。十数年前に一度失踪事件に遭遇しており、それも失踪したのは自分自身でそのことは一切覚えていないというおまけ付き。
失踪していた期間は、時間にして凡そ3日程度。大規模な捜索隊が組まれたもののついぞ見つかることはなく生存は絶望的とまで言われていたが、四日目の朝に無事怪我一つなく発見された。
近所の紙面を小さく彩ったそれは当時話題にこそ上げられたものの、私自身に当時の記憶が残っていないことや、検査のため入院した病院で「ショック性の記憶喪失である」と診断されたこともあり、余り大きく事件として取り上げられることも無く、気が付けば私ですら時々忘れてしまいそうになる。
重要なのは“過去の自分”を幻視してしまっていることではない。それならば、疲れのせいで見る幻覚とでも理由付けできる。
私が恐怖しているのは、視界に入れた少女の姿――小学校に入るか入らないくらいの容姿をするそれ――を紛れもなく“自分自身”であると理解している所だ。それも、記憶のない“六歳の時の姿”を。
顔のパーツが似ているから、七歳からの記憶は残っているからわかる。という推測や思考連鎖による理解ではなく、確信として“アレは私だ”と“理解する”。
そのことが他の何よりも恐ろしく、眼の前に居る小さな自分から目を逸らすことができないことへの理由でもあった。
小さな自分は歩く。いつの間にか都会の喧騒は姿を消し、薄っすらと霧のかかり始めた視界には過去の情景。これは私の記憶にある地元の風景の一部。若干記憶と違う部分も散見するが、間違いなく“あの時の一本道”だと、理解していた。
同時に、此処が先程までいた大通りであるという事実もまた頭の隅で把握しており、これが幻(まぼろし)であることもわかっている。だが、あまりにも視界の中の風景が記憶の中の“あの時”の情景と酷似しすぎていて、自然と“あの時”通った道を小さな自分が歩いていくのに合わせ、ゆっくりと進んでしまっていた。
一分だったろうか、それとも十分だっただろうか。“あの時”の情景、“あの時”の私が忽然と視界から消え、曖昧になっていた意識が再浮上してから初めて目にしたのは、影だった。
ビルとビル。建物と建物の間に存在する隙間であり、光が遮られることによって起こる“影”と“影”が重なる場所。路地裏とも表現されるそれの奥に、影よりも深い“黒”を携えた瞳が二つ。
『やっと来た』
『ず~っと待ってたんだよ? もう……。』
“彼女”の姿は、年端の行かない、大きく見積もっても十歳程度の少女の様相をしており、“昔から何一つ変わらない”その背丈は、下手をすれば私の腹部辺りにしか届かないだろう。
西洋人形のように整った顔。何処と無く東洋系ではなく西洋の作りを思い起こさせ、黒色のゴシック・ドレスから僅かに覗いている肌は、影によってできた影を吸い取っているかのように“白々しく”。子供特有の甘い香り――――とはまた異なった砂糖菓子の香りを漂わせながら、頭に載せたカチューシャに触れて、頬は赤く。恍惚とした口ぶりで。
『なんで逃げようとするの?』
一歩、後ずさる。
『ねぇ、なんで?』
二歩。奥にいる瞳が、不安げに揺れる。
『なんでって聞いてるよ、わたし』
三歩。彼女が一歩踏み出したような異音。
『逃げるなッて……言ってるじゃないッ!』
四歩。弾かれたように後ろを向いて走り出した私に彼女が叫び声を上げ、そして次の瞬間――――。
「……え?」
――――私の“足”が、消えていた。
激痛が脳髄を揺らす。明滅する視界の中で、足元に広がっているはずの血が無いことに疑問を浮かべるが、そんな思考すらも痛みの波に消されていく。痛い、痛い。ナイフや紙の端で切ったのとはまた違う、力で無理やりに引き千切ったかのような、暴力に振り切った痛み。少しずつ私に近づいている。来るな、来るな。来るな来るな来るな来るな。喉にべっとりと血糊が張り付いているのかと錯覚するほど、漏れ出るのは嗚咽だけ。拒否する意思も表情にしか反映されず、けれど、“彼女”がその一切を考慮に入れることはない。ただ、私に“裏切られた”とでも言うような声色で、疑問符と怒りの調子を携え、言葉の続きを吐き出した。
『あの時、約束したでしょう?』
『“わたしがおとなになったら、あそぼうね”って――――』
『わたし、きちんと待ったのよ? アナタが“おとな”になるまで、ずっと』
『だから、ね?』
『もう良いでしょう?』
『逃げるから足を食べちゃったけど、それは……まぁ、些細なことよね』
『ねぇ―――――“アカリ”ちゃん』
『わたしと一緒に、“影踏み遊び”をしましょうよ』
『ほら、あのときと同じように』
彼女はそう言って、私に向かって手を伸ばす。いや、伸ばされたのは彼女のほっそりとした陶磁器のように鮮やかな艶を持つ肌ではない。黒く、酷く歪で、一部分は空気に触れることでひび割れてすらいる、手としての形をほとんど留められていない手を模倣した影。私を向こう側に引き入れようと近づいてくる“死への誘い”であり、一度掴まれば死ぬまで離せない“契約指輪”。一刻も早く逃げ出したいのに、立ち上がるための足は既に影に奪われてしまっていて、力を込めるために吸った空気は「かひゅ」と間抜けな音で抜けていく。逃げるすべはない。そもそも最初から「そういう契約だったのだから」逃げられるはずもない。
私が彼女に寄って“向こう側”に連れて行かれた、あの時。
寂しそうにする彼女の『アナタと遊んだ時の時間を頂戴?』なんて言葉に、頷くのではなかった。頷くべきでは、なかったのだ。
『今度は―――――終わりが無いけれど』
――――鈴の音が、聞こえる。
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