第2話

 その日は妙に学校が騒がしかった。そこそこに仲の良い友人に聞いてみると、どうやら今日は転校生がやってくるらしい。中学二年生のようで、それも女の子でかなり可愛いという噂になっているようだ。転校生はともかくとして、可愛いというのはいったいどこからの情報なのかは聞かないでおいた。ほとんど男子生徒の欲望のような気もするが、いずれにしても、女の子の時点で男子生徒の期待はかなり高いようだ。夏休みを一ヶ月後に控えているのも影響しているのだろう。

 とはいえ、学年が違う。勇人の通う高校は中高一貫校ではあるが、だからといって中学生と高校生が頻繁に交流しているかと言われればそうでもない。強いていえば、部活が中高で混在しているくらいだが、それも同じ部活でなければ意味を成さない。自分には縁遠い話と判断して、勇人はそれ以上深く聞くことはしなかった。

 窓側の一番後ろにある自分の席に座ってしばらくすると、担任の教師が教室にやってきてホームルームが始まる。当然転校生は中学生なので、この教室のホームルームに変化は起こらない。このまま一限、二限と授業が続いて、放課後を迎え帰宅する。代わり映えしないが、戦いばかりだったアルカディアのことを思えば、それも悪くない。むしろ好ましさすらあるのだ。

 連絡事項を伝え、担任の教師が教室から去っていく。このまま一限目を担当する教師がやってきて授業が始まる。

 なんの波乱もない同じ日常のままで今日も終わると、そのとき勇人はそう思っていた。


「芦原勇人さんはいますか?」

 四限目を終えて昼休みの教室。放課後までの数少ない自由な時間だけあって、教室のあちこちで弁当を突きながら話に花が咲いている。勇人もその光景を眺めながら、母親が作ってくれた弁当に舌鼓を打っていた。そんな教室の喧噪はある人物の一言によって、一瞬に吹き飛ばされた。

 全員が声のするほうを向く。その声の主は教室の出入り口付近にいた。

 顔立ちは整っており、精緻な人形のように綺麗だった。透き通るような蒼い瞳に頭髪は光を弾くような銀髪で、腰の位置にある毛先が窓から吹き込む風に踊っている。

 そんなおよそ美少女と言わざるを得ない女子生徒であるが、驚いたことに誰も声をかけに行こうとしない。あまりの美しさに畏怖しているのであれば、それも分からなくはないが、あんな美少女ならば誰かひとりくらい知り合いでもおかしくはないはずだ。

「あ、そういえば、ここは高等部でしたね」

 丁寧な言葉遣いで思い出したよう美少女は口にする。

「今日、この学校の中等部に転校してきたソフィア ・フレーメントと言います」

 転校という単語にクラスの男子生徒が反応する。つい今朝話題になっていたことだ。転校と聞けば誰でも思い出すだろう。

「それで、芦原勇人という方はこちらのクラスにいますか?」

 もう一度、自分の名前を呼ばれる。その瞬間、クラスの鋭い視線――主に男子生徒――が一斉に勇人を捉える。一度目に名前を呼ばれたときから嫌な予感はしていた。そもそも、転校生でないにしても、あんな美少女に名前を呼ばれたとあれば、多少なりとも嫉妬心を買うことは間違いなく、それが件の転校生ならなおのことだ。

(あんな子知らないぞ……)

 内心で思いつつも、クラス全員の刺すような視線に負けて勇人は美少女に向かって歩く。ここで弁明をしたところで、信じてもらえるか怪しい。ならば、全員に見られている目の前で知り合いでないとはっきりさせたほうが効果的だろう。

「あなたが芦原勇人さんですか?」

「そうだけど……失礼ですが、どちら様で?」

 当然の質問を目の前の美少女にぶつける。知り合いでない以上、こう訊くほかない。

「それはここで話します」

 そう言って美少女はスカートのポケットから可愛らしい封筒を取り出す。いったいそれをどうするのかと思っていると、勇人に差し出した。

「……へ?」

「放課後、この手紙に書いてある場所に来てください。大事な話があるんです。それでは私はこれで失礼しますね」

「いや、あの……」

 これといった説明もなく美少女は去っていってしまう。残されたのは、美少女から手渡された可愛らしい封筒と、もはや刺すどころか身体を貫いてしまいそうなクラス全員の鋭い視線だけだ。修羅場になりつつある教室を治めるのに残っていた昼休み全ての時間を費やしたのは言うまでもない。


 美少女から手渡された手紙に記してあった場所は旧校舎の四階にある教室だった。旧校舎は数年前に新校舎ができてからお役御免になっているが、余っている教室は様々な部活動の部室として今も使われている。

「しかし、なんでまたこんな時間なんだ」

 スマートフォンで時間を確認してみると、すでに時刻は十八時を過ぎている。

 手紙に書かれていたのは会う場所だけでなく、時間も指定されており、それが十八時だった。この時間になると、最終下校時刻が近いだけあって生徒の数も疎らだ。間に合うように指定された教室まで来たが、こんな人気のない場所では待ち合わせともなると、これではまるで密会のようだ。

「全く面識もないのに、いったいどんな用なんだ」

 勇人として見当がつかないのが正直な感想だった。道中でいくら考えても明確な答えは出なかったので、これ以上考えたところで無駄だろう。例の美少女もすでに来ているだろうし、さっさと訊いたほうが早い。

 ガラガラと少し古い引き戸を開けて教室に足を踏み入れる。

「あ、来てくれたんですね」

 窓のほうを向いていた美少女がこちらが入ってきたことに気付いて振り返る。

「まあ、来いって言われたからな」

 勇人は少し無愛想そう気味に返事をする。

「確かにそうですね」

 美少女は苦笑する。その様も非常に可愛らしいものだ。

「それで、俺になんか用があるのか?」

 勇人は単刀直入に訊く。クラスメイトへの弁解にはかなり苦労した。これで大したことのない用ならば、骨折り損のくたびれもうけというやつだ。

「ずいぶんと直球ですね。でも、それならこちらも話が早くて助かります」

 その瞬間、ほんの少しだけピリっと空気が変わった気がした。その感覚は間違いではなかった。

「――やっと見つけたわよ、ユーティス……いえ、勇人」

 一気に壁に押し付けられる。抵抗する間もなく一瞬だった。およそ女子中学生とは思えない膂力だ。それだけでも驚きだが、それよりも勇人を驚かせたのはもっと別のことだった。

「どうして、その名を……」

 言い直す直前、目の前の少女が口にした名――ユーティス。その名はかつて勇人がアルカディアで名乗っていた名前だ。だが、この名前はアルカディアでの名であって今の名前ではない。今は芦原勇人という名前を使っている。アルカディアのことは誰にも話していないため、ユーティスという名を知る者はいないはずだ。なのに、どうしてこの美少女はそれを知っている。

「それはあなたのほうが知っているんじゃないの。まさか、あたしのことを忘れたわけじゃないわよね?」

 明らかに様子が違う。纏う雰囲気やオーラがついさきほどまでとは全く違うのだ。まるで兵を束ねる軍師のような、そんな風格を感じさせる。

「まさか……」

 思わず口から出る。アルカディアでの記憶から思い当たる節があったのだ。

「ソフィアって、まさかあの女帝なのか……?」

「やっと思い出したわね」

 満足したように美少女――ソフィアは笑って勇人を解放する。

「ど、どうしてあの女帝がここにいるんだ? ていうか、喋り方も見た目も違いすぎるだろ」

 状況が理解できていないというように勇人は尋ねる。女帝ソフィアといえば、かつてアルカディアで歴代の魔王の中でも最強と謳われ、七大王として勇人と決戦を繰り広げた相手だ。決着をすることはなかったが、まさかこんなところで再会するとは思ってみなかった。

「う、うるさいわね! あんただって、全然違うじゃない」

 ふたりの見た目はアルカディアにいた頃とはまるで違っていた。ソフィアのほうは見る者を魅了する魔性のプロポーションと淑やか口調を兼ね備えていた。勇人のほうも、人類の希望を一身に背負うに相応しい隆々とした筋骨と雄雄しい口調であった。今やどちらも見る影もない。

「見た目云々はどうでもいいでしょ。瑣末なことよ。あたしもあんたも、こっちで能力と記憶を受け継いでいるみたいだし」

「こっち……ってことは、まさかお前も」

「そのとおりよ」

 さらっと同定するソフィア。考えてみれば当然のことだ。自分とてこの世界に転生しているのだ。その道理に則って考えればソフィアが転生していてもおかしくはない。

「あたしも最初は驚いたけどね」

「もしかして、俺をここに呼び出したのはそれを伝えるためか?」

 ほとんどの人は記憶を失っており、こんな妄想めいた話を他人に聞かれるのは好ましくない。人目を避けて話をするならここは打ってつけの場所だ。

「それもあるわ。でも、一番の理由は――」

 にやりとソフィアが笑った気がした。その瞬間、言い知れぬ悪寒が勇人の背中を駆け抜ける。

「決戦の続きをしましょう」

 なにもない空間からソフィアは禍々しい黒い炎を顕現させる。

「な、なんのつもりだよっ!」

「さっきも言ったでしょ。決戦の続きをするのよ」

「続きって……、もうここは違う世界なんだし、いまさらやる必要もないだろ」

 そもそもソフィアとの最終決戦は、七大王の中でどちらが世界を統べるのに相応しいかを決するものだった。統べるはずだった世界が消失し、違う世界に来てしまった今、決する必要もないはずだ。

「来ないならこっちから行くから!」

 勇人の言い分には耳も貸さず、ソフィアの炎が一瞬黒い輝きを放った直後、凄まじい勢いで勇人に突っ込んでいく。身の危険を感じ取っていた勇人はすでに窓からの逃走を図っていて、すんでのところで直撃を免れた。

「いきなりなにすんだっ!? 火事になるだろ!」

 地面に着地して、窓からこちらを見下ろすソフィアに抗議の声をぶつける。身体能力は前世から引き継いでいるようで、この程度の高さから降りるのは造作もない。

「それなら心配ご無用。校舎全体を覆うように結界を張ってあるから、どれだけ暴れても問題ないわ」

 そう言われてさきほどソフィアの炎が襲った窓の周辺を見てみると、焦げ跡どころか何事もなかったように変化がなかった。

「そういう問題じゃないだろ! 誰か来たらどうするんだ」

 校舎のほうは問題ないとしても、あんな目立つ行為をすれば大騒ぎになりかねない。いくら最終下校時刻が近くて生徒が少なくても、完全に人がいないなんてことはあり得ないはずだ。

「言ったでしょ」

 ソフィアは窓からジャンプすると勇人の前方にふわっと着地する。

「この結界の中ならどれだけ暴れても大丈夫だって。それは第三者が来ないことも含んでいるのよ」

 再び右手に炎を顕現させてソフィアは言い放つ。どうやら向こうは完全にやる気らしい。あの様子では説得も無意味だろう。こちらを迎え撃つしかない。

「本気……なんだな?」

 勇人も相棒である聖剣を顕現させる。

「ええ、本気も本気」

 さながらかつての最終決戦を思わせる静けさだった。あのときは魔城だったが、今いる場所はどこにでもある学校の校庭だ。場違いにもほどがあるが、それが逆に初めて戦うような緊張感を漂わせていた。

「――勇人!」

「――ソフィア!」

 人気のない校庭でふたりの豪傑は激突する。

 勇人の行く手を塞ぐようにソフィアが黒い炎を撒き散らす。嫌らしい搦め手だ。アルカディアでは幾度となく苦しめられた。だが、その突破方法はすでに確立済みだ。

「無駄だ」

 聖剣で漆黒の炎の波を振り払い活路を開く。ソフィアを目前に捉え聖剣を振り下ろす。ソフィアは一歩も動かない。本来ならこれで勝負が決まる。だが、動かないことこそが彼女の自信の表れだった。

 ガキンと硬質な音が響く。漆黒の炎が硬質化して聖剣を防いだのだ。

「貫け!」

 盾となっていた炎が今度は勇人と貫かんと槍となる。勇人は顔を仰け反らせて間一髪で回避する。そのまま聖剣を振り上げて槍をへし折った。

「相変わらず鬱陶しい炎だな」

 ソフィアは距離を取るためにバックステップする。

「あんたも衰えてはないみたいね」

 折られた先を見ながらソフィアは言うが、その顔から余裕を孕んだ笑みは消えない。聖剣の切っ先をソフィアに向けたまま、勇人は彼女の出方を窺う。ソフィアはあの硬質化する炎で数々の猛者と渡り合ってきている。油断は禁物だ。

「なら、あたしも本気でいくわね」

 まるで意思を持っているかのように炎がソフィアの右手の中に収束していく。そこから次第に巨大な斧へと変貌を遂げた。

「やっぱり、こっちのほうがしっくりくるわね」

 出来上がった漆黒の大斧を眺めながらソフィアは楽しそうに言う。そんな彼女を見て勇人はふと疑問に思う。

――こんなに子供っぽいやつだったか?

 アルカディアでソフィアと対峙したときは、魔族の頂点に立つ存在だけあって、敵ながらも高貴さを感じさせる立ち居振る舞いだったし、思慮深さを窺わせる指揮は勇人も舌を巻くほどであった。

 そのときと比べた場合、今の彼女はどうだろうか。会ってすぐに戦いをふっかけてきて、いくら結界を張っているとはいえ、平気で能力をぶっ放す。とても思慮深いとは思えない。その様はむしろ、通学路でよく見かける元気はつらつな女子中学生のそれだ。やはり、転生の影響であのような姿になった影響だろうか。

「ぼさっとしてるなら、こっちから行くわよ」

 思考の沼に嵌まっている間に先にソフィアが仕掛けてきた。大斧を担いでいるとは思えない速度だ。とっさに思考を切り替えて迎え撃つ態勢を取る。性格が変わったとはいえ、こちらを倒そうとしていることに変わりはない。今は勝つことに集中し、余計なことを考えるのはそれからだ。

「穿て!」

 勇人のかけ声をきっかけに突如としてソフィアの周囲に白く発光する円が現れ始める。ひとつ現れたかと思ったその刹那に円は何倍にも増えていき――白い閃光が連続でほとばしる。それは嵐の中の雷鳴を思わせた。

「この程度!」

 ソフィアは避けられるものは避けて、そうでないものは大斧で強引にかき消していく。本来なら並の魔族程度は今ので動かなくなるのだが、ダメージを受けるどころか、そもそも易々とは当てさせてくれないのはさすがと言わざるを得ない。

「捉えた」

 大斧の射程内に勇人を捉えるとソフィアは大きく振りかぶる。あの大斧から繰り出される打撃をまともに受けたときの威力は想像もしたくない。

「もらった!」

 ソフィアが勝利を確信したような声を出す。だが、勇人は焦らない。今度はこちらの番だ。

――ドゴンと大音量の雷鳴が轟く。

 超極大の稲妻がソフィアに落雷したのだ。その威力は尋常ではなく、落雷した衝撃で地面が震動した。勇人にしてみれば、渾身の一撃であり、これで決着にしたかった――のだが。

「……やってくれるじゃない」

 落雷の衝撃で巻き起こった砂埃が霧散して輪郭が浮かび上がる。とっさに大斧を盾代わりに防いだようだ。大斧は少しばかり欠けており、わずかながらにも効果はあったようだが、それはあっただけで致命傷には至らなかった。

(やっぱり、魔族の頂点は伊達じゃないな)

 片膝をつくどころか、さらに闘志を燃やした様子のソフィアを見て勇人はそう思う。改めてそんなことを思ったのは、アルカディアで対峙したときよりも強くなっていた気がしたからだ。

「お返し!」

 勇人が惚けているうちにソフィアが今度こそ大斧を振り下ろす。聖剣は魔を退く聖なる剣であり、アルカディアで下位種族である人類が人外と対等に渡り合えるための武器だが、七大王ともなればそれを以てしても実力は拮抗していると言っていい。最終決戦のときも火、水、土、風、雷の五つの能力を扱える聖剣を前にしても、ソフィアは少しも押されることはなかった。

「土天槍」

 天を貫かんばかりの土の槍が振りかぶられた大斧を天空へと弾き飛ばす。変幻自在の炎はソフィアの意志ひとつでいくらでも生み出すことができる。大斧を飛ばしたところで気休め程度にしかならないだろうが、それでもなにもしないよりはましだ。

「甘いわね」

 大斧を天空に弾き飛ばして安心したのも束の間、ソフィアが不穏な単語を放つ。とっさに空を見上げると、ソフィアが天空を浮遊し、天空で手に持った大斧はすでに形を変えていた。大斧は弓に姿を変え、いくつもの矢を生み出し勇人に狙いを定めていた。

「ちっ、厄介な」

 ソフィアが扱う弓矢の厄介さもまたアルカディアで経験していた。一撃の威力こそ大斧には劣るものの、弾幕を張られるうえに追尾性能のおまけ付きだ。棒立ちでは格好の的。勇人は移動しつつ隙を窺う戦法に切り替える。

「喰らい尽くせ」

 勇人の号令で地中より無骨な土の竜が這い出てくる。竜は降り注ぐ無数の矢を弾きながら、真っ直ぐソフィアを目がけて空中を突き進む。

「収束矢!」

 ソフィアは炎を収束させた巨大な矢をぐっと引き絞り、地の竜を狙って放つ。硬質化で強靱となった矢は竜と激突し、一瞬の競り合いのあと、ごりごりと内側から竜を破壊していく。竜だった土塊が次々と落下していく。

(一瞬で壊すか……、だがこれなら)

 地の竜は一瞬で壊されてしまったが、それでも少し間でも注意がこちらから外れてくれた。この好機を逃すまいと、素早く構えを取って能力を行使する。

「氷雷波!」

 氷と雷を烈風に乗せて叩き付ける。氷と雷をまとった暴風がソフィアを容赦なく襲う。強い風によって動きもいくらか制限できるはずだ。

「そう思いどおりにはいかせないわよ」

 ソフィアも負けじと能力を行使する。今度は炎がソフィアの手に収束していき、徐々に右腕全体を覆うように広がっていく。その右腕に集まって炎の塊が雄叫びを上げるまでにそう時間はかからなかった。

「蹴散らして」

 さきほどの意趣返しと言わんばかりにソフィアの右腕から生まれた紅蓮の竜が空中をうねる。地の竜が矢を弾いたのとは対照的に、刃向かう全ての存在を溶かしながらこちらに迫ってくる。氷や雷はおろか暴風さえも灰燼に帰するようであった。

(めちゃくちゃにやるな)

 いくら結界のおかげで周囲に損害が出ないとはいえ、紅蓮の竜まで持ち出してくるとは。やりたい放題だ。

「そっちがそうくるなら、こっちだって……」

 こちらも地の竜で対抗すべきかと思い、次の一手を繰り出そうとしたとき、不意に身体に異変を感じた。立ち止まった一瞬の隙を衝いて紅蓮の竜が突っ込んでくる。反射的に身体が動いて、紙一重で回避する。

(なんだ……?)

 身体の違和感は未だに消えない。アルカディアでは一度もなかった感覚だ。例えるなら、風邪のひき始めのような漠然とした倦怠感。

「やっと気付いたみたいね」

 紅蓮の竜を弄びながら下りてきて、勇人の考え込むような様子から察したようにソフィアが言う。気付いたということは、ソフィアはこの違和感の正体を知っているのか。

「なにを知ってるんだ?」

 戦いの手をいったん止めてソフィアに問う。

「そんなに難しく考えることはないわ。要は世界が違う。この世界になくて、元の世界にあった存在。あたしとあんたの身体の構造の違いを考えればすぐに分かることよ」

 含蓄のある言い回しだった。もったいぶらずにさっさと教えてくれよという文句は胸の内にしまっておくとして、ソフィアの動向を気にしつつ言っていた違いについて考える。

「俺とソフィアの違い……、あちらにあって、この世界にないもの」

 おそらくアルカディアにあってこの世界にないものと、自分とソフィアの違いは同一存在を指していると考えていい。だから、あのような言い方をしたのだろう。人間と人外の違いなど、数えるのが面倒なくらいあるが、その最たるものといえば。

「魔素か、いや正確には魔素と魔素を生成する体内器官のことか」

 どちらも共通しているのは魔素の存在である。魔素は能力を行使する際に必要となるエネルギーのようなもので、全く能力のない人間ならばいざ知らず、七大王クラスならばいまさら説明するまでもないことだ。

「そう。それがあんたの違和感の根源よ。そして、その違いはこの世界においては決定的な差になる」

 びしっと指をこちらに向けて少し得意気に言う様は、まさしく年頃の中学生のようであった。

ソフィアが口にしたことの真意を測りかねていた勇人だが、すぐにひとつの可能性が思い浮かび、思わず驚きが顔に出る。

「まさか……魔素の不足?」

 自分でも思いもよらなかった。というより、そもそもこれまではそんなことを考える必要もなかったのだ。人間以外で能力を行使できる存在は体内に魔素を生成する器官を有している。そのため魔素不足に陥ることはまずない。

 ところが、人間はそうはいかない。身体の構造が違うので仕方のないことだが、人間の場合、能力の行使で魔素に陥ることは往々にしてある。その弱点を空気中に存在する魔素を取り込む呼吸法を身に付けることでカバーしていた。

 そう。アルカディアでは空気中に魔素があったのだ。だからこそ、今までは人間でありながら能力を駆使して勇人は人外たちと渡り合うことができていた。その前提がこの世界で覆ってしまったのだ。

 常人と比較でいえば、勇人の魔素は何倍も多いほうだが、これが七大王が相手ともなると話は変わる。聖剣自体にも魔素はあるし時間経過で回復するのため、そこから分与を受ければある程度は補えるが、それでも足りるとは言えない。

「この決定的な差、理解できたかしら? 理解できたのなら、さっさと降参するのが身のためよ」

 なぜだか少し上から目線で言うソフィア。その口振りはすでに勝利を確信しているようであった。

「そうは言っても、こっちにも意地があるんでね」

 アルカディアでは曲がりなりにも聖剣を携えて人類の期待を一身に背負って戦ってきたのだ。世界が変わろうともその根幹は揺るがない。

「勇人、あんた、まだ悪は滅されるべきだと思っているの?」

 突然妙なことを訊くソフィアを怪訝な目で見つつ、勇人は答える。

「当たり前だ。俺は勇者でお前は魔王。戦う運命にあるのは古より続く宿命だ。そして、正義は悪に勝たないといけない。勇者として負けるわけにはいかないんだ」

 それが聖剣を持つ者に課せられた使命だと言わんばかりに勇人と力説する。実際、アルカディアではその使命感に突き動かされるように、立ちはだかる存在を倒してきて、ソフィアとの最終決戦に臨んでいたのだ。

「正義は悪に勝つ……ね」

 ゆっくりとつぶやくソフィアの声色が少しだけ悲しみの彩を帯びていたのに、勇人は気付かない。

「さあ、ソフィア。再開しよう。たとえこの身が滅びようとも、俺は己の全うすべきことを全うする」

 一点の曇りもない真っ直ぐな視線。強すぎるほどの正義感を持っていて、それでいて使命感にも燃えている。聖剣に認められるほどの実力も兼ね備えた、まさしく勇者に相応しい逸材。だからこそ、ソフィアは勇人が気に入らなかった。

「あくまであんたは、勇者としての使命を貫くってことね」

 返事をせずに勇人はうなずくだけだ。その様は言外に何度同じことを言わせるのだと言っているようであった。

「……分かった」

 ソフィアは少しだけ低い声でつぶやいたあと、勇人を虎視眈々と狙って空中をうねっていた紅蓮の竜は彼女のもとに戻っていく。そして炎は細身で、それでいてこの世には存在にしないというくらいに鋭利さを秘めた長剣に姿を変えた。軽く振っただけで空気が悲鳴を上げる。

「決着を付けようぜ」

 勇人も改めて聖剣の柄を握り直す。

 両者が正眼に構えて、しばしの静寂が訪れる。その静寂を夜風が吹いて、ふたりの頬を撫でていく。両者が動いたのは夜風が止んだ――その瞬間だった。

「勇人!」

「ソフィア!」

 両者ともに常人が出せるとは思えない初速で地を蹴る。

 大気が震える。風を切って、空気さえも切り裂いて互いの切っ先が肉薄する。長きに渡る宿命の戦いに終止符が打たれる――かと思われたそのとき。


……ぐぅうううううう。


 あまりに場違いな音が校庭に響き渡った。

「……は?」

 思わず急ブレーキをかけたのは勇人のほうだった。それもそのはず。さきほどまで命のやり取りをしていた宿命の相手が長剣を放り出して地に突っ伏していたのだから。

「な、なんのつもりだ?」

 七大王の中でもトップクラスの実力を持ち、今まさに刃を交えるはずだった相手の突然の奇行に勇人は狼狽するばかりだ。

「……お」

 少し遅れてソフィアがなにか言葉を発したようだが、よく聞こえない。いつソフィアが起き上がってもいいように警戒をしつつ、もう少しだけ近寄る。

「お、お腹すいた……」

 今度ははっきりと聞こえた。だが、同時に聞こえなければよかったとも思った。

 七大王らしからぬ、間抜けな言葉に勇人はただただ呆然とするばかりだった。

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