第一章

第1話

 今にして思えば、あれがこの世界でブームになっている〈異世界転生〉というものなのだろう。この世界の人間があちらの世界に転生することを指す単語なのだから、あちらの世界の存在がこの世界――今いる日本という国に来てしまうことだって、異世界転生と呼称しても差し支えないはすだ。

 その事実に気付いたのは、少年が小学生になった頃だ。

 生まれた当時のことはよく覚えている。本当の意味では生まれたわけではないのだが、こちらの世界の基準では生まれたことになっているらしい。

 そうして、少年は十五回目の春を迎えることとなる。なにひとつ元の世界に戻る手がかりを得られないまま――。


「おい、そこのお前」

 衣替えの時期を過ぎて、半袖のカッターーシャツを着崩した柄の悪い三人組が知的な顔立ちと吸い込まれるような黒髪を持った少年――芦原勇人の前に立ち塞がった。

「そんなところで突っ立っていられると邪魔なんだが」

 正直な感想を口にする勇人だが、それが余計に目の前の男を刺激する。

「てめぇ、ナメてんのか!」

 ぐっと胸倉を掴まれる。ナメてんのかと言われても、実際邪魔なのだから仕方ない。

「こいつです! 兄貴。昨日、おれに突っかかってきたのは」

 胸倉を掴んで睨み付けてくる男の後ろで一回り小さい男子生徒が勇人に向かって指を突き付けた。昨日と言われて思い当たる節がひとつあった。だが、突っかかってきたとは心外である。

「突っかかってきたとは大袈裟だな。軽く小突いただけだろ。それに最初に手を出したのはあんただろ」

 それは昨日の帰り道のことである。いつもの道を通っていたら、いかにもな風体の男子高校生が女子高校生に絡んでいたのを見かけた。女子高校生とは特に知り合いでもなんでもなかったが、見かけてしまった以上無視することは憚られた。だから、両者の間に割って入って仲裁した。その際、場を収める手段として男子高校生の頭を軽く小突いたのだ。もちろん怪我をしない程度に手加減してだ。それをさも殴られたかのように誇張して言っているのだ。言いがかりもいいところである。

「だから、それが気に入らないって言ってんだよ!」

 可能な限り場を荒らさずに収める最善の選択だと思っていたが、それが気に入らないと言われたらお手上げだ。

「分かったよ。俺が悪かったよ」

「そんなもんで納得するわけないだろ!」

 今度は納得できないとキレられて、ではいったいどうしろというのだ。

「じゃあ、どうすれば納得してくれるんだよ?」

 観念したように勇人は尋ねる。ここままでは禅問答宜しくいつまでも解決しないだろう。

「ちょっとツラを貸してくれりゃあ、それでいい」

 今いる場所は学校の通用口から程近い。無関係な生徒への迷惑になりかねないし、さらなる火種を呼び込んでしまう可能性もある。現に騒ぎを聞き付けて野次馬が集まり始めている。なにより場所を移せるなら、そちらのほうが都合がいい。

「それで納得してくれるならいくらでも貸すよ」

 そう言いながら勇人は先を行く柄の悪い三人組に付いていった。


「この辺でいいだろ」

 学校から十分ほど歩いたくらいで三人組のうち、がたいの良いひとりがそう言う。それに従って、残りのふたりも足を止めた。どうやらこの三人組のリーダー的存在はがたいの良いの男のようだ。

「で、どうすれば許してくれるんだ?」

 連れてこられたのは開けた空き地だ。少し奥まったところにあるため、周囲の人通りはそれほど多くはない。

「そんなもん決まってんだろ」

 がたいの良い男がポキポキと関節を鳴らす。あとのふたりも柔軟体操と言わんばかりに肩を回している。

(結局、こうなるのか)

 薄々感づいてはいたが、やはりこうなってしまうのか。勇人は嘆息する。こちらとしては誇張でもなんでもなく本当に穏便に済ませたかったのだが、向こうがそうさせてくれない以上、致し方ない。

「――覚悟しやがれ!」

 示し合わせたかのように、三人が同時に襲いかかってくる。普通であれば、助けなど望み薄でピンチな状況なのだが、勇人は至って冷静に思考を切り替える。

(さて……)

 勇人は迫り来る三人組の出方を窺う。警戒しているのは実力で負けているからではなく、彼らが能力や記憶を保持しているかを観察するためだ。まだ前例が自分しかないので推測の域を出ないが、強力な能力を持っているほど、アルカディアでの記憶もある程度覚えている傾向にある。彼らが能力持ちか否か。それによって能力(スキル)を行使する必要も出てくるのだ。

(……能力を使おうという素振りはないな)

 彼らから魔素は一切感じない。かつての記憶に触れてくることもしない。それらを総合して能力なしと判断するのは妥当な結論だった。この程度であれば、わざわざこちらも能力を行使する必要もない。

 殴りかかってくるひとりの拳を左に避けて躱す。なんてことのない愚直なパンチだ。躱すのは造作もない。続けざまにまたひとりが殴りかかってくる。その勢いを利用して、素早く相手の脇の下に手を入れてひっくり返す。ドシンという重たい音が相手の背中を襲う。

「あんたはこないのか?」

 勇人はおもむろに残ったひとりを見遣る。自分よりも体格の大きいふたりが簡単にいなされたのを見て怖じ気付いたか、こちらに迫ってこない。

「ナメやがって!」

 その間に最初に襲ってきた男が再び背後から迫る。後ろを取られても焦りもせず、勇人は冷静に対処する。後頭部に迫り来る腕を掴んで、そのまま背負い投げ気味に地面に叩き付ける。ぐぇ! という呻き声を漏らして、男はのたうち回る。これでふたり。残るは今も狼狽している小柄な男子生徒だけだ。

「来るのか? 来ないのか?」

 数的優位だった状況は一瞬にして覆され、それどころか劣勢ですらある状況に男子生徒は怯えたように拳を震わせるだけだ。そもそも、それほどがたいも良いほうではなく、おそらく金魚の糞程度の付き合いだったのだろう。

 それでも小柄な男子生徒は意を決したように勇人に特攻を仕掛ける。勇人の問いかけが脅迫に聞こえたのか、それても引っ込みがつかないのか。いずれにしても戦うという意志は崩れなかったようだ。

 迫り来る男子生徒と向かい合って、勇人は拳を引く。全力でパンチを繰り出す構えだ。

 拳を振り上げて決死の形相で迫る男子生徒の顔面を捉える。勇人の構えを見て、一瞬だけスピードを緩める男子生徒だが、それでも進むのを止めない。向こうもこちらを全力で襲いにきているのだ。ならば、こちらとてそれ相応の力で迎え撃つのは当然の帰結だ。

「――終わりだ」

 引き切った拳を全力で解き放つ。鋭く突き出された勇人の拳は真っ直ぐ男子生徒の顔面を目がけて突貫する。

「一件落着」

 拳が顔面に直撃する寸前、男子生徒は糸が切れたように地面に伏した。

 男子生徒に向かって放たれた勇人の拳は顔面に直撃する寸前で止まっていたのだ。元々、顔面を殴るつもりなど毛頭なかったのだが、気を失わせる程度の迫力はあったようだ。そもそも構えた時点で降参してくれると思っていたのだが、どうやらそこは男子生徒の中にも意地があったのだろう。そこだけは賞賛に値する。

「んじゃ、とりあえず手当てしておくか」

 気を失っている三人に寄って治療を施す。もちろん、普通の手当てではない。治癒能力を活性化させるものだ。普通の手当ての何倍も傷の治りが早い。

「こんなもんかな」

 処置を終えて勇人は立ち上がる。もうしばらくしないうちに目を覚ますはずだ。治療ついでに今後また絡まれても面倒になるので、一連の記憶を消しておいた。それほど人通りが多くない場所ではあるが、誰かに見つかる前にそそくさとその場をあとにした。


 いつも通る横断歩道で立ち止まる。

 目の前をいくつもの自動車と呼ばれる乗り物が通り過ぎていく。遠くを見れば、天まで貫かんばかりの電波塔がそびえ立っており、この世界で暮らす人々の日常を支えている。さらにその少し下には超高層ビルが立ち並んでいる。

 横断歩道の信号が赤から青になる。周囲の人々が続々と歩き出して、それに流れる形で勇人も歩き出す。かつての世界とはなにもかもが異なっていた。最初こそは驚いたものの、十五年もその中で過ごした今となっては見慣れた光景だ。

 通り道の駅前の広場では、陽気な店主がクレープを売っている。かなり評判が良いらしく、ここらではちょっとした有名店だ。連日、学校帰りの女子校生が行列を作っているのも珍しくない。

 その前を通り過ぎて、再び横断歩道に差し掛かる。この通学路は自宅から学校まで距離的には近いものの、信号に引っかかる回数が少し多いのが玉に瑕なのだ。能力を使えばそれこそ学校まで一っ飛びだが、そういうわけにもいかない。どうやら能力なしのほうが圧倒的に多数派のため、隠しておく必要がある。もどかしいくも思いながらも、こうして徒歩が通っているのだ。

 信号が青になって横断歩道を渡る。ここまでくれば、自宅までもう少しだ。

 両親もどうやらアルカディアの記憶はないようで、当然のことながら能力も有していない。

ゆえに勇人はアルカディアの記憶も自身が有する能力についても話していない。話したところで、笑い話にされるか、気味悪がられるのが関の山だ。無理に話す必要もない。

 そうこうしているうちに自宅に到着した。

 見慣れた門の見慣れた外観。悪魔もいなければ、竜もいない。魔族との争いもない。

 覚えている最後の記憶は魔王との最終決戦だ。その途中で記憶は分断されている。この世界で言うところのゲームをプレイ中に本体の電源を落としたようなそんな感覚だ。

 十五年が経った今でもどうしてこうなったのか。元の世界はどうなっているのか。正しいことはなにも分かっていない。ただひとつだけ分かっていることは、この世界が大きな争いのない平和な世界だということ。

 朝起きて学校に行き、授業を受けて、家に帰ってくる。これが芦原勇人という少年の今の日常だった。

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