シスルの花束
朝霧
赤い花束の代わりに
その日私は人を愛することをやめた。
だからと言って憎むことはなかった、嫌いにはなったが憎悪というほど強い感情ではない。
なんだかもう、全てがどうでもよくなったのだ。
愛憎で狂う人を見て、他人の愛憎に巻き込まれて狂った自分の人生を見下ろして。
心底、馬鹿馬鹿しい、と。
だから、人を愛する事をやめた。
人に対しては嫌悪寄りの無関心だけを向けることにした。
そうしたら、少しだけ呼吸が楽になった、ほんの少しだけ自由になれた。
世界はとうに色褪せ、艶を失っていた。
綺麗なものなど何一つとして見つけられず、大事なものなど初めから終わりまで何一つとして存在しない。
それでも、今はならこの無味乾燥としたこの世界で楽に生きることができるだろう。
ああ、なんだこんな簡単な事だったのか。
何も求めなければ、こんなにも世界は生きやすい。
愛を求める人間は今日も一人で暴走して、相変わらず無関係な他者を巻き込んでいた。
なんて醜い。
人を愛する意思を持っていた昨日までは仕方がないだろうと憐れみを感じていたけど、今はただひたすら醜悪に見えた。
そうか、あの人はあんなにも醜い存在だったのか。
そう見えなかった昨日までの自分に呆れかえると同時に溜息をつく。
くっだらない、と吐き捨てずにすんだのは僥倖であったのだろう。
そんな事を言ってしまったら、きっと酷い目にあわされていた。
人間という存在に見切りはつけたけど、痛い思いはしたくない。
だから、遠目に見ていたその人間から目を逸らしてその場を立ち去った。
用事があれば向こうから呼び出すだろう、だからそれまで部屋に引きこもっていよう。
用事もないのに、誰かに会う必要など何一つないのだから。
引きこもりがちになった私に、誰かを愛して憎むことに夢中な人間は無関心だった。
だけど、以前と同じように気に食わないことがあると無関係な私に当たり散らす事は変わらない。
私が引きこもりがちになったからか、以前よりはその回数は減ってきているのだけど。
それでも今日はうっかりしていた、口答えなんてするんじゃないものだと痛む身体に溜息をつく。
誰かあの人殺してくれないだろうかと軽率な殺意を覚えながら、薄い毛布で体を包んだ。
人が変わった、といつも無表情な知人に言われた。
具体的にどう変わったのか聞いてみると、随分冷めた目をするようになったらしい。
それから、綺麗になったとも言われた。
傷が減ったからではなく、弱々しい雰囲気がなくなって、おどおどとした気の弱さが鳴りを潜めて、何にも怯えなくなったその目が綺麗だ、と。
昔はもう少し感情的だったけど、今はもう何もかもがどうでもよくなったみたいだ、と無表情に言われたその言葉にその通りだと返しておいた。
人間が嫌い、自分も嫌い――だけどもう、全てがどうでもいい。
この世界の住民全員死んじまえと思っていると冗談っぽく笑ってみたけど、知人は何も言わなかった。
無表情な知人は何故か私の隣にいることが多くなった。
余計なことを言わずに、表情の変化も少ない静かな私の隣が妙に居心地が良いのだと彼は言う。
離れようと思えば離れられたし、拒絶しようと思えば拒絶できたのだろう。
だけど、そばにいるだけで傷付けてくることのない彼を追い払うのは少し面倒で、どうでもいいと思ったから結局放置することにした。
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い。
何もしていないのに、私は何もしていないのに、最低限のことはこなしたのに、落ち度なんてないのに。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
ああ。
あんな男、無残に死ねばいいのに。
人間なんて、全員死んじまえ。
人間が嫌いだと呟いた。
この世界が嫌い、人間が嫌い、あの男が嫌い、あの男が愛する人も嫌い、あの男に従う人間も嫌い、自分も嫌い、あなたも嫌いだ、と。
嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、嫌い。
呪詛のように言を連ねる私のことを、彼は黙って見ていた。
もう近寄るなと彼に言った、もう一人にしてほしいと、嫌いな人間のそばにはいたくない、と。
彼はそれは困ると私に言った、そして、どうすれば私が彼を嫌いでなくなるのかと聞いてきた。
そんな事はありえないと私は吐き捨てるように言った。
珍しく困ったような顔をされたから、ついうっかり私は冗談のようにこんな事を付け足した。
――ああ、だけど、あなたが私の嫌いな人間を殺してくれたら、きっと好きになれる。
その言葉を聞いた彼は、ほんの少しだけ笑った後、無表情になって黙っていた。
愛憎に狂っていた男が死んだ――殺されたのだ。
男に愛憎を向けられていた女が死んだ――殺されたのだ。
男に従うしかなかった憐れな人々が死んだ――殺されたのだ。
死体の山を積み上げた血塗れの彼は呆然とする私を見て笑った――彼が全てを殺したのだ。
そういえばと私は思い出す。
彼は人間の死に無関心だった。
人間を躊躇いなく殺せる人間だった。
食べ物を粗末にするか、人間を殺すかどちらか選べと言われたら、あっさり人間を殺す程度に殺人を犯すことに関して抵抗のない人間だった。
これでずっとそこにいてもいいよねと、指差されたのは私の右側の何もない空間。
無邪気に笑う彼に、私はとりあえず首を縦に振っていたけど――本当は、どうするのが正しかったのだろうか?
シスルの花束 朝霧 @asagiri
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