3マス目 「先天性無痛症」

 深夜2時、東京。

 私は今、郊外の人気の無い裏路地を走っている。レディーススーツにヒールという、走るのに最も相応しく無い服装も構わず、死に物狂いで走っている。

「ねー、何で逃げるのー?」

 背後から声がする。まだ声変わりもまだしていない、高くて頓狂な声だ。私はその声から、何としても逃げなければならなかった。


 ほんの数分前の事。

 私は華金で終電を逃し、歩いて帰路についていた。家までは徒歩40分。程よく酔っていたこともあり、春の夜風に当たりながら歩くのは心地良かった。

「あのー、すみませーん」

 道端で少年が不意に話しかけてきた。制服姿の、背の低い少年だった。普段なら無視して通り過ぎる場面だったが、その時私の酔いは一気に醒めた。少年が短刀を持っていたからだ。刃渡りは30センチ以上で、ポタポタと血を滴らせていた。よく見ると、制服も返り血で赤く染まっていた。

「キミは皆とは違うよねー?」

 そう言うと少年はニヤリと笑った。背筋の凍るような、不気味な笑みだった。


 私は本能的に逃げ出した。深夜の街を、右へ左へ。しかし少年は執拗に追いかけて来る。疲労と息切れの最中、突然視界ががくりと揺れた。足がもつれたのだ。次の瞬間、私はあえなく転倒した。持っていた鞄が前方に放り出された。

「――痛っ!」

 急いで上体を起こそうとした時、私は顔をしかめた。掌に鈍い痛みが走り、再び地面に転がった。咄嗟に手をついたせいで、掌の下の部分を酷く擦りむいていた。しかし、痛めた手を労わる余裕は無かった。

 恐る恐る顔を上げると、少年が目と鼻の先で立っていた。血で濡れた短刀が、暗闇でテラテラと光った。

 目の前に死が立っている。私の体は凍りつき、動く事も叫ぶ事も出来ない。尻餅をついたような姿勢で、震えながら死を見つめる他無かった。


 絶望の中で、私は辛うじてある事に気づいた。少年が刀を振りかざす素振を見せないのだ。彼はじっと立ち尽くしたまま、どこか悲しそうな目つきで私を見つめている。

「そっかー…キミもなんだ…」

 少年は立ち尽くしたまま、ぽつりと呟いた。

「その傷、痛い?」

 私は真っ青な顔をガクガクと縦に振った。

「何で?」

「な、何で…??」

 私は奇妙な質問に答えあぐねた。何故痛みを感じるかなど、考えた事も無かった。

「何で皆痛がるの?おかしいよねー」

「な、何言ってるの?!怪我して痛くない人なんていないよ!!」

 私は思わず言い返した。危機的な状況で訳の分からない会話をさせられて、頭がおかしくなりそうだった。

 すると、少年は不意に刀を手放した。カランという華奢な音が路地裏に響く。そして彼はその場でがくりと膝をついた。

 私は我に返った。脅威から逃れるには絶好の機会だった。私は決心して立ち上がると、投げ出された鞄を引っ掴んで、逃走を再開した。

 その後はもう、少年は追いかけて来なかった。


**


 深夜2時半、東京。

 僕は街外れの裏路地を彷徨っている。血に濡れた制服と短刀という、見られたら確実に通報される格好も厭わず、フラフラと徘徊している。

 頭の中では、女に言われた言葉が反芻する。

「怪我して痛くない人なんて、いないよ」

 言葉は僕の中で不協和音を奏でる。


 僕は生まれてこの方「痛み」という感覚を味わった事が無い。傷ができても痣ができても、何も感じない。そのせいで常にいじめられた。奴らは僕を散々殴っては、全く痛がらない僕を気味悪がって遠ざける。その繰り返しだった。

 そんな日々の中、僕は仲間が欲しくなった。僕と同じ、痛みを感じない人を探したいと思った。今夜僕は遂にそれを決行した。近所の町道場から刀を盗んで、道で何人か斬りつけた。しかし目当ての人は一人もいなかった。挙句の果てに、女が答えを教えてくれた。怪我して痛くない人なんて、いない。何とも単純で残酷な答えだった。


 失意と孤独の最中、突然視界ががくりと揺れた。足がもつれたのだ。次の瞬間、僕は無様に転倒した。持っていた刀が前方に放り出された。

 起き上がると、腕に擦り傷が出来ていた。あの女の傷と同じように、血が滲んでいる。しかし、僕は何も感じなかった。


「…うっ…ぐうううう!!」

 突然、鳩尾に不気味な感覚が走る。まるで身体の中が虫に喰われているような、おぞましい感覚だ。それはゆっくりと僕の胸へ広がっていく。

「ぐぁっ…あああああ!?」

 どれだけのたうち回っても、それは消えてくれない。額には嫌な汗が吹き出して来た。僕はどうにかして、邪悪な感覚から解放されたかった。一刻も早く楽になりたかった。

 地面に転がる短刀が目に入ったのは、その時だった。


 気づいた時には、僕は短刀を自分の腹に刺していた。

 制服が新たな鮮血で滲む。目がチカチカする。思考速度が落ちていく。口から真っ赤な液体を吐き出す。景色がフェードアウトする中、僕は声を上げて笑っていた。


 どこかで、パトカーのサイレンの音がした。

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