2マス目 「エチュード」
民家の一室のピアノ教室に、陽気な旋律が鳴り響いた。
何度も聴き、何度も繰り返したあの旋律だった。
短いフレーズは、軽やかな和音で締めくくられた。
「…できた……」
音が止んでからも、残響は僕の中でいつまでも残っていた。その残響が、自分の指から発せられたものだとは、半は信じられなかった。しかし、指に残る鍵盤の感触は、しっかりとそれを証明している。
呆然としていると、不意に手を叩く音が聞こえた。
「成功だよ!やったね!お疲れ様!」
拍手の主は、嬉しそうに言った。
「はい…!ありがとうございます」
僕は笑顔で頭を下げた。自分が本当に「出来た」のだという実感を、その時ようやく持つことができた。
「お嬢」との特訓が始まったのは、3ヶ月程前だ。
お嬢は、僕の通うピアノ教室の先生の娘だ。高校3年生で、幼い時からピアノをやっている。秋に推薦入試で都内の音楽大学に合格したそうだ。
発端は昨年末。教室の定期コンサートがあり、そこで僕は初めて人前でピアノを弾いた。教室の他の生徒たちは皆演奏が上手だった。特にお嬢の演奏は格別だった。難しい曲を完璧に、さらに楽しそうに弾いていたのだ。一方僕は、緊張で手が滑り、思うように演奏が出来なかった。
落ち込んで参加した演奏後の食事会で、偶然僕はお嬢と隣の席になった。初対面だったが、お互いに色々な事を話した。彼女のあだ名が「お嬢」であると知ったのもその時だ。
演奏の話題になると、僕は彼女に上達の秘訣を質問した。すると「体験してもらう方が早い」と、彼女の方から特訓の話を持ち掛けて来た。僕は驚いたが、折角の機会だと思って引き受ける事にした。
特訓は、通常のレッスンの後に行われた。
その内容は、有名なピアノ曲の一フレーズを、遅いテンポで譜面通りに弾くというもの。その曲は僕が元々好きな曲だったが、ピアノ歴1年目がやるには荷の重い難易度だった。しかし、お嬢が弾きやすい部分を指定してくれたお陰で、特訓は少しずつ前に進んでいった。僕はめげずに何度も練習した。聴き馴染んだ曲が少しずつ弾けるようになるのは、素直に嬉しかった。
そして今、目標は達成された。
険しい山の頂上で、日の出の瞬間を見た気分だった。
「一応これで特訓はお終いになるけど…やってみてどうだった?」
最後にお嬢は訊いた。僕たちは教室を片付け、近くの白いソファに座っていた。
「そうですね…」
僕は少し考えて、胸にあるものを整理した。
「…最初は凄く不安でした。でも、元々好きな曲だったので…テンポはまだまだ遅いですけど、ちょっとずつ出来るようになって、それが…楽しいなって。」
「それ!!」
「え!?」
急な大声に驚いて横を見ると、お嬢は不意にソファから立ち上がっていた。
「そう!!それが大事なんだよ!!」
キョトンとする僕に、お嬢は自身の幼少期の事を話してくれた。ピアノを始める前から好きだった曲を、初心者の時に勝手に弾いた事。最初は全然できなかった事。どうしても諦めきれなかった事。レッスンの合間に、ずっとその曲を練習し続けた事―
「お嬢でもそんな時期があったんですね。」
「そりゃそうだよ~。でもね、何年か後に、偶然一フレーズだけ弾けたの。それが嬉しくて、もっと上手に弾きたくなって。そうやってどんどん弾いてるうちに、何か楽しくなって来て、時間も忘れて練習してた。」
「…僕も特訓の間、1時間がアッという間に感じました。」
「でしょ?だ・か・ら!」
「…うわっ!!」
お嬢は突然、僕の手を握った。
「弾けて嬉しいって気持ち、弾いてて楽しいって気持ち…そういう気持ちは忘れちゃダメだよ!」
その時のお嬢の言葉と楽しそうな表情は、到底忘れられそうになかった。
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