1マス目 「油少なめ」


 看板があった。

 2月の凍る夜。街灯に照らされた、赤い看板だ。

 四角い炎みたいだった。


 看板は郊外の駅前の飲食街にあった。

 近くにある大学から、授業やサークル活動を終えた学生の群れが、この通りで空腹を満たしに来る。今は冬休みの夜とあって、人通りはまばらだった。

 5年程前、その群れの中に俺はいた。

 当時は通りの近くのアパートで一人暮らしをしていた。自炊が面倒な時、この通りには随分とお世話になった。しかし、卒業して都心に移ってからは一度もここに戻っていなかった。


 宵闇の通りを歩いていると、見知らぬ店が何軒も出来ていることに気づいた。在学中には、小綺麗なイタリアンも、ネオンの光るバーも無かった。一方、5年前行きつけだった店はどこも潰れていた。友人とよく行ったインド料理屋も、よくテスト勉強をしたカフェも、既に見る影も無かった。

 街はもう、別の場所みたいになっていた。


 俺は悲しくなった。

 5年という歳月は、ジェットコースターのように俺を猛スピードで引きずり回した。多分仕事のせいだ。外回りが多く、色んな場所をせわしなく駆けずり回る毎日。今日も、たまたま取引先が大学の近くに無かったら、この地を訪れることは無かっただろう。

 職場がブラックかと言われると、決してそうではない。給料は新入りの時からそれなりに貰えてるし、残業代もきちんと着く。怒号が飛び交うことも無い。

 しかし、そこは素っ気ない職場だった。どんなに業績を上げても、上司はほとんど俺を評価しない。賞賛も酷評も無い。上司が俺をどう思っているのか、俺はちゃんと成長しているのか、何もわからなかった。同僚とも挨拶と必要最低限の会話しか交わさない。雑談を持ちかけてみても、「そうだね」で終わってしまう。

 成長の実感も、励ましや労いの声も無く、ただジタバタと仕事をしているうちに5年が過ぎた。疲労と虚無感だけが溜まっていた。

 だから、せめてこの街で昔を懐かしんで、元気をもらいたかったのだ。それなのに、その場所は容赦なく変わってしまった。楽しかったあの頃の記憶も、嵐で散り散りに飛ばされてしまったみたいだった。


 看板を見つけたのは、そんな時だった。


 それは、商店街の端にあるラーメン屋の看板だ。当時、月に1回は通っていた場所だ。かつての行きつけの中で、唯一の生き残りだった。気づいた時には、俺は看板の下のガラス戸を引いていた。


 中に入ると「へいらっしゃ〜い!!」と威勢の良い声が出迎えた。こんなに寒い夜だというのに、声の主たちはぴちぴちの半袖のシャツを着て、汗だくで厨房に立っていた。L字型のカウンターも、錆びた券売機も、かつてとほぼ変わっていない。

 俺は券売機にコインを入れ、ドアをそっと開くように豚骨ラーメンのボタンを押した。半袖の一人に会釈をして、食券を渡した。

「お好みはどうされますか?」

 半袖は訊いた。


 少し迷って、俺は決めた。

 今の俺には、これが丁度いい。


「油少なめで」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る