第八十九夜 ミサキさん

 岬の通うボーカルスタジオには、幽霊がいる。


 名前はミサキさんだ。


 発声練習用の部屋の隅で、一人佇んでいる女の人の幽霊だ。

 あまりに自然に立っているので、一瞬、幽霊とわからないことが多い。ただ気が付いた時には消えているので、あまり害はない。

 というかまあ、マスコットのようなものだ。

 ホラー番組にありがちな青白い顔とか、こっちを睨んでいるということもなく、むしろ儚げな女性、という感じである。それほど緊張した表情をしていないので、ぽやっとしているだけではと思っている人もいる。

 いずれにせよ出るところがボーカルスタジオなのがミスマッチだが、割と生徒たちには親しまれている。


 ちなみに最初に誰がそう呼んだのかはわからない。

 そういう生徒がいたという話も伝わっておらず、ミサキさんに関するデータはほとんどが消失している。事故や事件の類も聞かないし、本当に「我がボーカル学校にはミサキさんという幽霊が出る」以外に何もないのだ。


 しかしミサキさんは様々なシーンで出没する。

 生徒や講師は、近所を縄張りにしている猫を見たのと同じ感覚でなんとなくミサキさんを見つける。


「そういえば、今日ミサキさん見たからいい日になるわ」


 一日の占い代わりにしている生徒までいれば。


「明日オーディションあるからミサキさん見たい」


 ここまで来ると、守り神の領域だ。


 とはいえ。

 岬にとっては苗字とはいえ同じ名前なので、妙に面映ゆい思いをした。


 そんな岬も何度かミサキさんを見かけたことがある。

 最初は驚いたし、怖かったりもした。だがあまりに見た目が普通だし、何もしてこないので、二度、三度と見るうちに慣れた。

 ミサキさんは常に儚げな表情なのだが、一度だけ――見間違いかもしれないが――表情を変えたような気がする。


 このボーカルスタジオでは、声に関することならなんでもありだ。歌い方から声優になるための特訓まであるのだが、声優のオーディションも多々行われる。

 最近だと声入りのスマホゲームも増えてきたので、それも多い。


 その日は岬にとって初めてのオーディションであり、頑張ろうと思う反面、落ちても仕方ないと片隅で思っていた。

 どうにも自分に対する自信とオーディションに対する自信とのバランスが曖昧で、そこに緊張が重なり、妙にふわふわした気分だった。現実感が無い、と言えばいいのか。


 オーディションに来ているのも、何度かスマホゲームの声優を引き受けたことのある人物がいた。

 ただそれだけで変な緊張が入ってしまうのも仕方の無いことなのだ。


 結局、オーディションには落ちてしまった。

 さすがに初めてのオーディションから受かるなんて思っていなかったが、初めてなりに全力投球した。それでも落ちた。

 仕方ないことである。

 だが翌日、岬はミサキさんを見つけたときに、つい言ってしまった。


「次は、頑張るよ」


 次は。

 別に今回、頑張らなかったわけじゃない。ただそう言ってしまったのだ。

 だがそのときのミサキさんの顔が、どうも微笑んでいるように見えたのだ。


 それを見たとき、何もかも見透かされているように思った。ストンと何かが落ちた気がする。ミサキさんはすぐに見えなくなってしまったので、本当に笑っていたのかどうか定かではない。

 ただ岬は、気合いを入れ直そうと決意した。


 ミサキさんは本当に、見守るだけの存在かもしれない。

 親や友人たちといった生きている人間とは違ったベクトルで受け止めてくれるミサキさんは、我が校のマスコットに違いないだろう。

 岬はそう思っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る