第八十八夜 私のもの
来夢が東京で一人暮らしするようになって、三ヶ月が経った。
無事に大学デビューを果たしたあとは、生活を安定させることに尽力した結果の三ヶ月だ。
といっても、自分で自炊してみたり、お菓子を作ってみたり、夕飯にマックを買ってみたり、一日中映画を見て過ごしてみたり、といろいろなことをした。
必要最低限だったインテリアも、どうしようこうしようとあれこれ考え、かなり充実していた。
――あとはこれで、彼氏を作るだけっ!
さあ次は彼氏捜しだと意気込んだものの、そうそうできる切欠などあるはずもなし。同じ大学の男子生徒はいることはいるものの、大学パンフレットの写真に載るような「男も女も笑い合って」など夢のまた夢。
大学の男といってもピンキリだし、来夢にとっては「大学に入ってはじめて私服を着た」というようなレベルばかりに見えた。
ふて腐れて合コンに参加しまくったが、世見町の居酒屋からハズレで帰るところに出会ったのが今の彼氏だ。
ナンパと言ってしまえば
「へーっ、来夢でライムちゃんって読むの? 可愛い名前だね」
若干コンプレックスのあった――といっても、いわゆるキラキラネームとしては軽いほうかもしれないが――名前をそう言われて悪い気はしない。
「じゃあ俺の連絡先これ。じゃあね」
しかも別段「お持ち帰り」されることもなく、出会ったばかりでどうこう、というのでなかったのもポイントが高い。もっとも地方から出てきたばかりで理想ばかりが高かった来夢にとってはその点は当然であって、ポイントがどうこうということもなかったのだが。
とにもかくにも再び連絡を取ると、相手は――Sとしておこう――快く返事をしてくれた。
そして一ヶ月も経つと、二人は付き合い始めるようになった。
ともあれこれで目標である「東京で充実した生活」のもっとも大きな項目をクリアした。半年たらずの達成に、来夢も上機嫌だった。
ところが、そんなリア充生活の幕が開いたころである。
ある夜、来夢がベッドで眠っていると。
ぱっ、とまだ夜中だというのに目が醒めた。
――……んん?
もう朝かと思ったけれど、カーテンの隙間からはまだ日が差してこない。その代わりに、すり、すり、と何かが歩き回るような音がしている。
来夢の部屋はカーペットだったので、そこを裸足で歩き回ると、ぱたぱたとかすりすりとか、そんなような音がするのだ。
――もしかして泥棒……?
だが、相手は歩き回るだけで何かを探している気配がない。
それどころか、音は少しずつこっちに近づいてきている。ぴたり、と隣で誰かが立ち止まった。
――誰か覗き込んでる!
泥棒でなければ変質者なのか。それとも、眠っているかどうかを確かめにきたのか。
しかし、音は気のせいかもしれない。借りているマンションは十年くらい経っているものだし、上の階でちょっと荷物を置こうものなら、小さく「ドン」というような音がする。一応、学生専用マンションでもあるのだが、そのかわり壁がやや薄いのだ。
もしかするとこの音も気のせいということもある。
来夢は意を決して、目を――うっすらとだが――開けた。
だが、すぐに後悔した。
そこには、目の血走った女が突っ立っていたのだ。
赤い目だけがはっきりと見える。だが、それだけじゃない。首のあたりがまっすぐなのだ。太っているということではなく、蛇のように一直線になっているのだ。だから肩がほとんど無く、着ているものはすぐにでも落ちそうだった。
――っ!
来夢はもう恐ろしくて仕方なかった。
だが、そのまま気絶してしまったらしい。気が付くと朝になっていて、再び目を覚ました時には女もいなかったし、カーテンの隙間からは朝日が差し込んでいた。
代わりに来夢はSNSでSに連絡を取った。
返事は少し間を置いて戻ってくる。
『怖い夢見ちゃったよ~~><。』
『大丈夫か? よしよし丶(・ω・`)』
『エーン(´ノωノ`)』
『俺のライムを怖がらせるとか、許せんっ』
……これ以上は筆舌に尽くしがたいため省略させていただくが、ともあれ来夢は彼氏のおかげで救われたのだ。
まあ変な夢でも見たんだろうということで、そのときはそれで終わった。
朝になればそんなこともすっかり忘れてしまって、別の話に移ったし、大学で友人たちに会えば他の話題に花を咲かせた。
ところが、夜のことも忘れて家に戻りベッドに入ると、再び夜中に目が醒めた。
――ええ、またあ?
怖い夢を見たストレスだろうかと思っていると、再びあの音が聞こえてきた。すり、すり、という音だ。
最初足を引きずっているのかと思ったが、何かが違う。
そっと目を開き、布団の隙間から「そのひと」の行動を見た。
足の部分が妙だ。普通、人間は二本足なのだから、足を引きずる格好になるはずだ。そうでなければ(それも嫌だと思ったが)下半身が無いかのどちらかだろう。
だが「そのひと」は膝をついたまま、そのまま妙な歩き方をするのだ。普通そうやって歩くなら右と左を交互に出すはずが、両足がそろっている。
――あ、……蛇?
そう思った途端にぞっとした。
それどころか「そのひと」は、今度は昨日と同じように横に立ったかと思うと、身を屈めて来夢が見ている布団の隙間へ覗き込んできたのだ。
しゅうしゅういう音が聞こえ、何か呟いているような声がした。
「……しの……く……」
恐ろしくなり、そのまま目を瞑る。そして気が付いた時には、同じように朝だった。
「そのひと」は次第に来夢の夢だけでなく、生活中にも現れ始めた。
はっと気が付くと電柱の向こうにいたり、談話スペースの入り口に佇んでいたりする。食堂の調理場の奥にいることもあったし、講義中に窓から覗き込んでいることもあった。
さすがに幽霊が見えているなど友人にもSにも相談できない。Sは心強いを言ってくれたが、さすがにいつも一緒にいるわけにはいかない。
何か言っているようなのだが、シュウシュウいう音で聞こえない。
耳をそばだてようとしても、恐ろしくて仕方が無い。
もし、「死ね」だの「呪ってやる」だの言っていたらそっちのほうが怖い。
マンションについても何か事件が無かったかをそれとなく聞いてみたのだが、事件といえば泥棒や変質者の類がほとんどで、自殺や殺人といった話は聞かなかった。
そんなことが三ヶ月も続くと、来夢は酷い顔になってきた。眠れないし、だるいし、Sに連絡を返すのも億劫になってくると、Sは次第に返事が遅くなってきた。
来夢がメールしてもSNSで連絡しても返答は遅く、二、三日後に返ってくるのがザラになった。
そんな風だったので、心配した友人たちが親御さんに連絡したほうがいいんじゃないかと相談する始末だった。
そして、その日もベッドの側に「そのひと」はやってきた。
――いったいこのひとはなんなんだろう……。
もはや諦めかけて、ぼんやりと思う。
しゅうしゅういう声が至近距離で聞こえる。見ちゃダメだ。
目を閉じたせいなのか、声が次第にはっきりとしてきた。
「……くん……」
――なんなの……。
「……の……スくん……」
聞き覚えのある単語に、少しだけハッとする。
「わたし……だけの……Sくん……」
しゅうしゅういう音に交じって、そんな声が聞こえてきた。
来夢は朝起きると、昨夜の出来事について考えた。
Sからの連絡は一週間近く返ってきていなかったが、スマホを手に取ると、少し考えた捨てに「別れようか」と打った。
返事はすぐに返ってきた。
「俺は別にいいけど、お前はどうすんの」という曖昧どころではない答えだったので、それっきりになった。
来夢は「そのひと」を見なくなった。
あれ以来、来夢は一度だけ世見町で再びSの姿を見たことがある。
やはり誰かをナンパしていた。来夢が無視したので、Sは気が付かなかったようだ。
ただ、Sが女の子を連れてどこかのカフェに入っていくとき、あの蛇女の姿が一瞬だけSの背中についていくのが見えた。
誰だか知らないが、早いところあの女の子が逃げられることを祈った。
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