第八十二夜 腑に落ちない話

 これは今井という男が体験した話だ。

 世見町のとあるホテルに泊った時のこと。


 今井は実家にいたころから、祖父の影響で熱い風呂が好きだった。四十二度とか四十三度とかにして入っていたので、母親や姉はよく「あんたが入った後に入ると熱いから嫌だ」とチクリと言われた。

 今井自身はどこまで熱く入れるかを自分で競っていた部分もあるので、最終的に「熱さ」が評判の温泉なんかに好んで行ったりもした。


 なので、どこか外のホテルや旅館に泊まった時も、しばらく温度を上げてから入るのが常だった。


 それでまあ、世見町のホテルに泊まったその日も、当然温度を上げていた。


 本当は泊まる予定ではまったくなく、たまたま終電を逃がしてしまったのだ。

 酔っていたのと、少し前が給料日だったこともあって、どうせだったら世見町のホテルでどこか泊まっていこうと思ったのだ。

 かつてはラブホテルばかりだったこの界隈も、今では普通のビジネスホテルがあったりする。もはやかつてのような怪しい通りばかりということでもなくなってきた気はするが、外国人が観光地感覚で泊まるらしいのだけは苦笑するが。


 服を脱いで風呂場に入ると、妙に寒かった。

 どうやって温度を上げようかと眺めると、どうも二つある蛇口の真ん中に温度を示す目盛りがあり、それを動かすことで温度を調節するようだった。当然、赤いほうの熱湯にする。四十五度近くまで目盛りをあげ、シャワーでどの程度かを確かめる。


 微調整を繰り返し、ようやく満足いくところまでやってからふと我に返ると、後ろのほうから視線を感じた。


 ――なんだ?


 妙に嫌な予感がする。

 不思議に思ったところで寒気を感じたので、とっととシャワーだけ浴びて部屋に戻ることにした。酒も入っているし、早く上がったほうがいい。寒さで意識もはっきりしていたとはいえ、この趣味と酒は相性が良くないのだ。


 ともあれ頭を洗っていると、やっぱりどこからか視線を感じる。


 ――?


 慣れない場所だからなのかと顔をあげると、シャワーカーテンの隙間から、鏡が見えた。そこに、じっとこちらを恨めしそうに見つめる青白い男が見えた。あまりに生気の無い顔だったので、一瞬見間違いかと思ったほどだ。


「えっ」


 思わず声に出してもう一度見つめたが、もう男はいなくなっていた。

 とにかくもう一刻も早く部屋に戻ろうと思い立った。

 シャワーの蛇口を開け、泡を洗い流していると、今度はシャワーカーテンがゆらゆらと揺れた。

 ぎょっとしてそちらと見ると、ゆっくりとシャワーカーテンに何かが押しつけられていく。手だった。


「うわっ!」


 思わずひっくり返りそうになりながら、シャワーをそちらに向けた。

 その瞬間、耳に届いた声があった。


 そのときに聞こえた声というのが――。


「あっつ!」


 ……野太い男の声でそう聞こえたのだ。

 思わずあたりを見回したが、もう人影もいなくなっていた。


 霊も熱とか感じるんだなと今井は思った。

 後から考えてみると、もし自分が熱風呂に入っておらず、熱々のシャワーを使っていなければどんなことになっていたか、とぞっとしたというのだが。


 だが、いつもこの話をすると「微妙」だの「それは無い」だの言われるので、腑に落ちない気分になる、ということだ。

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