第十三夜 黒い魚
世見町の北東にある住宅密集地に、加賀鮮魚店という魚屋がある。
これはその鮮魚店の老店主が、若い頃に経験した不思議な出来事だ。
今から四、五十年くらい昔のこと。いつものように店を開いていると、知り合いの男が尋ねてきた。仮にAとしておくが、この人物、いつもだったらぶらぶらと油を売りにくるのだが、今日は様子が違った。
手には水の入ったバケツを持っていて、妙にうきうきとしている。
「おうい、加賀さんよう。ちょっとちょっと」
「おう、あんたか。どうした?」
「いいからいいから。ちょいとこいつを見てくれんか」
Aはそう言ってバケツの中を見せてきた。
中には黒々とした魚が一匹泳いでいる。
「……何じゃこりゃあ。鯉みたいにも見えるが……こんなもん、どこで捕まえてきたんじゃ」
「おう、それがよ。弁天川を泳いどったんで、捕まえたんじゃ。捌いて食っちまおうと思ってよ」
「あんな川で?」
加賀は驚いた。
弁天川というのは、世見町の南側を通っている小さな川だ。戦前まではまだ普通の川だったが、戦後の区画整備によって暗渠となっている。弁天通りの名前の由来でもあるが、はっきり言えば都内のガッカリスポットのひとつだろう。
「でも、どんな種類かわからんでよう。あんたならわかると思ってよ」
ぬらぬらとしたうろこが黒ずんだ水に反射して、思わずぞっとする。
魚を扱っていれば、変わった魚に出会うこともある。今でこそ深海魚などと呼ばれている魚は、特に妙ちきりんな姿をしていることが多い。
だが、変にぞっとしたのはこのときが初めてだった。
加えて、目が白く濁っている。
なんらかの病気に冒されている可能性も考えた。あまりに気味が悪かったので、それを指摘したが、Aは気にしていないようだった。
「そんなん、目を食わなきゃいいだけの話じゃろう。鯉なら食えるなあ」
「いや、はっきりとはわからんし、そんな変な魚、食わんほうがいいんじゃないかね」
はっきりとそう言うと、Aは面白くなさそうな顔をした。
要は自慢がしたいだけだったのだ。
「あんまり変な魚に手ぇ出すのはどうかと思うがねえ」
加賀がそう言ったのも聞いていなかったのか、Aは早々に帰ってしまった。
それから数日が経って、再びAがやってきた。
Aは至って健康そうだった。泥が入ってたのか腹を多少壊したなどと言っていたが、それぐらいで済んだと豪語していた。
「それがよう、めちゃくちゃ美味かった!」
Aは舌なめずりをするように言った。
「何の魚かわからんが、また食いたいもんじゃのう。なあ加賀さん、あんたんところにあの魚、入ってないかね」
そんなことを言われても、名前もわからない黒い魚だけでは決め手に欠ける。
あれ以来、加賀も気になって知り合いの漁師に尋ねてみたりしたが、ちょっとわからないということだった。
まあ、深海魚でも見た目がグロテスクな魚が意外と美味かったりするから、そういうもんかと加賀は思っていた。
Aはそれ以来、あの魚を求めていろいろな魚屋を渡り歩いたりしていた。
加賀のところにもたまにやってきて、じろじろと魚が入っていないかと熱心に見に行った。あるとき、いつものようにやってきたAが妙に気になって顔を見ると、少しだけぎょっとした。
「おいA、目、どうしたんだ?」
Aの片目が白く濁っているような気がしたのだ。
「いや、べつに。そんなことより、あの魚はないのか」
「いや……ないけれども」
そう言うと、Aはすぐにふらりと魚屋を後にした。加賀もAのことが気になったが、どうにも不気味でそれ以上追うことはできなかった。そんなことがあってから数日後のことである。
魚屋を訪れた知り合いが、こんなことを言い出したのだ。
「おい、聞いたか? Aのやつ、死んだらしいぞ」
「ええっ?」
驚いて話を聞くと、あの弁天川で浮かんでいたらしい。魚を捕っていたようだという目撃証言があったので、最初は事故であろうということになったが、次第に妙な話が広がった。
なんでもAは妙に魚に固執して、何がなんでも捕まえようとしていたらしい。
それはAの目が白く濁るようになってから特に顕著になったという。家族が止めようが何をしようが川へと行き続け、その結果、川の中で死んでしまったということだ。
川から引き上げられたAは、日に焼けたのか泥にまみれたせいか、妙に体が黒ずんでいたらしい。
加賀は思う。
あれは手を出してはいけない魚だったのだ。
あんなものを食ってしまったから、Aは取り憑かれてしまったのだ。
今でも加賀はそう信じているし、暗渠となった今でも、あの魚が暗闇から覗いているようで、川を見ることはできないという。
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