第四夜 寮の幽霊

 華やかな仕事の裏には色々とあるものだ。

 Uさんがホストをやっていた時もそうだった。


 煌びやかな世界への憧れと、女と遊んでいれば貢いでもらえるという単純な考えで飛び込んだが、実際は下働き同然の厳しい仕事と、先輩からの暴力が絶えなかった。

 遅刻や欠勤があれば罰金は当たり前、ちょっとしたミスでも店の裏で殴られ、女の子から気に入られようものなら、お前自身が気に入らないとばかりに蹴りを入れられた。スーツの工面や身だしなみも自分でやらねばならず、常に金に困っていた。

 特にその頃はインターネットも普及しておらず、顔を売るにもひと苦労だった。


 Uさんは世見町の寮に住み込んだが、木造の古くさいアパートで、真ん中を通る廊下の両側に各部屋がある造りだった。廊下は通るたびにぎしぎしと音を立て、トイレと風呂は共用。トイレに至っては、もともと和式だったところを洋式に作り直した程度のものだった。そのうえ小汚くて狭い部屋を四人程度で使うのが常識で、風呂の時間まできっちりと決まっているようなむさ苦しいところだった。

 それでもいつかのし上がることを夢見て、Uさんは耐え続けた。


 寮に住み込んでしばらくしたある日。

 休みが入って暇を持てあましていたUさんは、同じ部屋にいた同期のひとりにこんなことを言われた。


「おい、知ってるか? この寮の三号室って、出るんだってよ」

「出るって、なにが?」

「そりゃあ、幽霊だよ」


 Uさんは思わず噴き出した。

 だが精神がすり減るような毎日のなか、荒んだ生活のなかで少しでも楽しみを見いだしたかった。Uさんを含めた四人は頭を突き合わせ、つかの間の怪談話に興じた。


「なんでも昔、この寮に入ってた奴でさ。永久指名されたんだけど、その客に飛ばれて、借金で首が回らなくなったんだと」

「ふうん?」


 よくある話だ。

 飛ばれるというのは、お客さんがお店のツケをそのままに逃げてしまうことだ。ホストクラブにはツケの制度があるが、もし客がそのツケを払わずに逃げてしまった場合、その代金は永久指名されているホストが払う必要がある。

 要は女に逃げられたということだ。

 当のホストも逃げ出すならともかく、寮で死ぬのは辞めてほしい、くらいにしか思わない。


「でな、そいつの幽霊が出るっていうんだ」

「へえ。まあ普通の話だな」

「まあ待てって。話はこれだけじゃない。あの幽霊を見た奴はな、店で永久指名されるらしいぞ」

「ほんとかあ?」

「ま、験担ぎみてえなもんだろう。それに、幽霊を見ても逃げ出さないくらい肝が据わってるほうがいいんだろ。現に、K先輩がそうだったってもっぱらの噂だぜ」


 K先輩というのは当時、店でナンバーワンのホストだった。

 女たちのほとんどはK先輩目当てでやってきて、二十代くらいの若い女の子から、五十代くらいのおばさんまでたくさんの人が周りにいた。

 Uさんたちができるのは、せいぜいその盛り上げ役くらいだ。

 世見町からは離れたところの高層マンションに一人で住んでいて、その賃貸料も女の子が払ってくれているという話だった。


 そんなK先輩も幽霊を見たというのは説得力がある。

 店のホストたちは皆最初はこのアパートに押し込められるし、ありえない話ではない。


 加えて、普段から昼夜逆転の生活をしているのである。夜中であっても目は冴えていたし、何か気張らしが欲しかった。

 Uさんは妙に引っかかるものを感じていたが、下手に怖がると馬鹿にされると思い立った。軽い肝試しのような気分で、行ってみようということになった。


 時刻は深夜二時。

 普段であれば、Uさんたちもまだ盛り上がっている時間だ。

 だが、華やかで明るい世見町の中心と、古い木造に電球だけがぶら下がってじぃじぃと音を立てている廊下では、まるで違う世界にいるようだった。

 朝になれば幾分マシになるが、それでも窓から光の入らない造りは暗くて、とにかく陰気な場所だ。普段は忙しさに気にすることはないが、ふと廊下の真ん中に自分ひとりが立っていることに気が付くと、昼間であっても妙な気持ちの悪さを抱いた。


 特にくだんの三号室は真ん中にあり、ひときわ光が差さない最悪の部屋だ。ここも住居には違いないのだが、なぜか物置のように使われていた。何が入っているのかUさんたちもわからない雑用品がいくつか適当に放り込まれているだけで、畳の上にはゴミと埃が散っている。不気味なことこのうえない。


 雰囲気を出すために一時的に廊下の電気を消そうかと思ったが、さすがに勝手なことをして殴られるのは勘弁願いたい。気味が悪いが、数人で固まっていればそれほど緊張感も生まれぬまま、三号室の前にたどり着く。

 だが、部屋の前までつくと、Uさんたちはそれとなく薄ら笑いを浮かべてお互いを見回した。

 扉には小さな窓がついていて、そこから見られる。

 Uさんもそろそろと窓の向こうを見た。


 心臓の音が他の三人にまで聞こえそうで、ひどく緊張していた。先輩たちに呼び出された時以上かもしれない。

 ちら、と奥を見る。

 だが予想に反して、それらしいものは見えなかった。


「お、おお~~っ……」


 なんて、驚いたようなおどけたような声を出して、窓から離れた。

 他の三人も、その様子にへらへらと笑っている。大丈夫だ、これはあくまで肝試しなんだから。


「それで、何か見えたか?」

「いいや」

「まったく」


 他の二人も首を振ったので、全員見えなかったのだと結論付けた。

 噂なんてこんなものだ。


 けれどもUさんたちは気付いていなかった。

 ひとりだけ、顔を青くして微かに震えている人間に。それでいて、僅かな笑みを浮かべていたことに。


 その人物は――Aとしておくが、それから傍若無人に振る舞うようになった。

 先輩たちに殴られてもかまわず、まるで自分が頂点に達するかのように馬鹿にし続けた。先輩全員に呼び出されてリンチを受けても同じだった。

 客に対しても金を使うように煽り続け、店の外では暴力を振るっているという噂まで流れた。

 次第に指名から外れるようになっても、Aはまったく気にしなかった。


 だが、そのAはあっけなくいなくなった。

 仕事中、突然錯乱して叫びだしたかと思うと、店を飛び出していなくなった。

 それだけだった。

 数日後に警察がやってきて、Aのことを聞いてきた時はさすがに動揺した。詳しく話を聞くと、なんでも世見町の南側にある大通り(今は弁天通りと呼ばれている)で突然叫びながら飛び出してきて、車に撥ねられたらしい。それも、加害者が慌てて助けようとしたところ、再び錯乱しながら暴れて走り出し、そのまま反対車線の車に――ということらしかった。

 周りで見ていた者も、加害者側も、呆然とその様子を見ていたようだ。

 それがちょうど錯乱して飛び出していった日と一致していた。


 Aがあの日、首つりの幽霊を見ていたことは想像に難くない。

 だがその後のAは、いったい何を見ていたのだろう?


 ……Uさんは言う。

 ホストはもちろん女から貢がれるのが商売だ。だがそうなるためには気遣いや気配りも欠かせない。それらを持ち合わせた上で、他人を蹴落とす覚悟や冷酷さが無ければ成り上がれない。

 もしその幽霊を見た者が、本当に店で永久指名されるようになったとして……はたして、先輩たちは本当のことを言うだろうか?

 むしろ、本当は見てはいけないものだったのではなかろうか?


 大体、永久指名された客に飛ばれた男が――果たして他の人間に永久指名させてくれるのだろうか。


 見てはいけないものを見させることで下のモノを落としていく。そういう策略だったのではなかろうか。

 もちろん偶然という可能性もある。でもそれは今となってはわからないことだ。

 Uさんは今、ホストから離れてまったく違う業種についている。あの華やかな世界にいた頃のことは遠い思い出になって、若い頃の感傷としてしか残っていない。


 だが少なくとも、あの店を辞めたことは後悔していない。

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