第三夜 事故物件の幽霊
世見町といえば、ほとんどの人は歓楽街を思い浮かべるだろう。
古い人間の中ではいまだに怪しげな風俗店通りというイメージも大きいが、近年は再開発が進み、エンターテイメント街と変化している。どちらにせよ誰かが住んでいるというイメージからはほど遠い。
だが実際には世見町の中にも大きな総合病院があるし、申し訳程度の遊具が置かれた公園もある。東通りには区役所や警察があるし、同様に普通の家屋やマンションも少なからず存在している。
Tさんもまた、世見町のマンションに賃貸で住んでいた一人だった。
何しろ値段が破格。
世見町は歓楽街という側面もあるが、交通の便も良い。西通りは駅前通りと言われるくらいだし、北通りの東側にも、別の線の駅がある。それだけでも好立地だ。
そんな中で値段が破格となれば、理由はひとつ。
事故物件であることを承知で、Tさんはそこに住んでいたのだ。
Tさんは幽霊など信じないタイプだったし、何より事故物件だからといって必ず恐ろしいことが起こるわけではない。人が死なない場所なんか無いだろうというのがTさんの持論だった。
「だいたい世見町なんて、幽霊より人間のほうが怖い町だよ」
Tさんはそう豪語していた。
マンションは五階建てで、一つの階につき三部屋。Tさんは三階の一番奥の部屋に住んでいた。
事故物件といえば、不自然に綺麗になっている場所や、塗りつぶされている場所があったりするものだ。ところがそこはそういうものはなく、Tさんはいっそがっかりするくらいだった。
最初のうちは引っ越しの疲れもあり、ぐっすりと眠っていられた。
ところがしばらくすると、急に目が冴えるようになった。夜中に不意に目が醒めることが増え、もう一度眠ろうとしてもなかなか眠れない。夜中に眠れないおかげか、昼間にも影響が出るようになってきた。
おかしいなと思っているうちに、ぼんやりと部屋の真ん中に人の影のようなものが見えるようになってきたのだ。気のせいかと思ったそれは、次第に首をつった女の姿に変わってきた。
さすがのTさんもちょっと驚いた。
何しろ自分の部屋の真ん中に幽霊がいるのだ。
しかしTさんは負けるもんかとばかりに、幽霊を脅しつけた。
「やい、誰の許可を取ってここに居やがるんだ。ここは俺の部屋だぞ。ここで首吊りたいんなら賃貸料払わんかい!」
ところが相手は幽霊なものだから、殴ろうとしても感触が無い。Tさんは思わずギョッとして拳を見つめる。背中がぞくぞくとして、妙な不快感が全身に満ちた。
姿ははっきりしてるのに、触ろうとしたり近づいたりすると今度はぼんやりとしてしまう。まあ幽霊だから当然といえば当然だろう。しかも、幽霊のほうも何も言わないままそこでぶらぶらと揺れているだけなのだ。
最初のうちは会社の同僚を呼んで面白がろうとしたものの、見える奴がいない。同僚を連れてくると幽霊の姿もすっかり消えてしまう。幽霊がいるという話に怯えてはいる姿は面白かったが、酒を飲んでいるうちにすっかり忘れて楽しんでしまう。
最後には霊感持ちだという知り合いまで連れてきてもらったが、首をかしげるばかりだった。
「この部屋、別に何もいませんよ。普通の部屋だと思います」
ははあこいつはとんだ嘘つきだと、Tさんは早々に追い返した。
ところがそんなことが二度三度と続くと、今度はTさんのほうがおかしくなったと思われた。インチキ霊能者どもの言うことを信じるのか、とTさんは驚いたが、よくよく考えれば幽霊なんてものがいると騒ぎ立てている自分のほうが滑稽だ。
これにはTさんも参った。
最近ではだんだんと腐臭のようなものが漂いはじめ、部屋にはハエがたかるようになっていた。女の幽霊の真下には妙な染みまで出来はじめ、カーペットが腐り始めていた。
そこまでくると、さしものTさんも気が滅入ってくる。それどころか得体の知れなさが膨れ上がってきて、とうとう念仏を唱えたり、塩をまいたりしてみたが、一向に改善しない。
出て行けと息巻いても、幽霊は無視を決め込むばかりで意味がない。
それどころか隣の住人に「いつもいつもいい加減にしろ、静かにしてくれ」と文句を入れられる始末だった。
「おい、てめぇはいつになったら出て行くんだ」
Tさんはぎろりとぶら下がっている女の幽霊を見た。
触れない死体と同居しているようなものだ。しかもこのにおい。我慢の限界が訪れたTさんは、そのまま女の幽霊を罵倒しはじめた。
投げつけた家具は女の体を通過し、拳は空を切る。
「ここは俺んちだって言ってんだろ、ぶっ殺されてぇのか!? ああ!?」
もはや生きている人間を相手にしているような態度で、Tさんは悲鳴のような怒号をあげながら女に肉薄した。
そのとき、ぐいっとTさんの首に何か引っかかるものがあった。突然の息苦しさに呻いたTさんは、ばたばたと手足を泳がせ、やがて気を失ってしまった。
それからどれくらいしたのだろう。
「ちょっとアンタ、何してんですか!」
Tさんは気が付くと、隣の住人に助け出されているところだった。
相変わらずやまない怒号にしびれを切らして乗り込んできたのだという。
なんでも、天井から垂れ下がったロープに首をくくっていたところだったらしい。
部屋には警察も来ていた。Tさんはわけがわからなかったが、なんでも、常に怒号の内容を聞いていた隣人と大家によって呼ばれたらしい。ただならぬものを感じたというわけだ。
天井を見ると、切られたロープの切れ端だけがゆらゆらと揺れていた。
あの女のように。
結局Tさんは、その後引っ越した。
しばらくは首の違和感がとれなかったという。
あとで調べたところによると、その部屋に住んでいたのは夫婦で、妻のほうはひどいDVに悩まされていたらしい。暴言と暴力がエスカレートしたあげく、この場で首を吊れとけしかけられ、妻はその通りにした――という話だった。
Tさん曰く、あれは絶対に幽霊だった、自分がおかしいはずはないと主張した。とにかく正体がなんであれ、二度と事故物件には入らないと誓った。
それが怒りからか恐怖からかはわからないが、いずれにせよ二度とごめんだということだ。
そのマンションは、今も世見町のどこかにあるのだという。
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