第一夜 エレベーターで
Mさんは世見町のとあるキャバクラで働くキャバ嬢だ。
二年前までは、裏通りにあるキャバクラで働いていた。
店があったのは古い雑居ビルで、地上四階、地下一階。当時は一階を除いた地上階にそれぞれキャバクラが、地下には古いバーが入っていた。
Mさんがいたのは四階のキャバクラだったが、いわゆるぼっったくりで、当時を振り返ってこう語る。
「女の子がついて、ちょっとお酒を出して十何万円っていうお店です。昔のぼったくりのイメージよりちょっと低いかもしれませんけど、この値段だと意外と払ってくれる人が多いんですよ。財布には無くても銀行にはあるって人がほとんどだし、お店の人がよく近所のコンビニまでついていってました」
Mさんに言わせれば、かわいそうだが危機感も足りないとのことだった。知らないキャッチについていったり、知らない店に行ったり……。だが、金で解決できることが実は一番安上がりなのだ。痛い勉強代にはなっただろう。
だが、時にそんな金すら払えない客がいた。
そういうとき、客は奥に連れて行かれたのだという。そこで何が起きているのか、Mさんたちは知らされていなかった。
頻繁ではなかったが、月に何度かそういうことがあった。
何をされているか気付いてはいたが、気が付かないふりをしていた。
Mさんも次第に感覚が麻痺し、日常のできごととして受け止めてしまっていた。
「そんな毎日でしたけど、ひとつだけ、妙な事を言われていました」
それというのも、エレベーターに一人で乗るな、というのである。
エレベーターは古くて、人が三人も乗ればいっぱいになってしまう小さなものだ。それなのに一人で乗るなとは。
だが、従わないわけにはいかない。
変だなとは思ったが、逆らえば何をされるかわからない。
ただでさえ訳ありな店ばかりが揃っているし、理由を尋ねる気にもならなかった。駆け落ちして捕まったキャバ嬢と客の話や、客に振られて自殺したキャバ嬢の話なんて耳にタコができるほどだった。
従っておけば下手なことは起こらないだろうと、普段は階段を使っていた。
だがある日のことだ。
Mさんはたまたま早く仕事を終えて退勤した。早いといっても深夜の二時か二時半くらいのことで、世見町の少し奥まったところにある雑居ビルは、廊下に誰もおらず不気味だった。
珍しくしんと静まりかえった廊下にMさんはどきりとして、手早くエレベーターのボタンを押した。
――あ、しまった。
階段で帰るのだったとすぐに気付いたが、目の前でチンと音が鳴りエレベーターが開いた。小さな箱の中には誰もいない
――……誰もいないし、いいか。
乗っちゃえ、とそのままMさんは乗り込んだ。
どうせ誰も見てやしないだろう。特に大それた理由なんて無くて、電気の無駄遣いにならないようにとか、そういうことかもしれない。
後ろで扉が閉まり、Mさんは小汚い壁に背を預けた。
だが、どういうわけか待てど暮らせどエレベーターは動かない。
冷房も効いていない小さな箱の中では、蒸し暑い空気がじっとりとまとわりついてくる。
Mさんは少しずつ不安になってきた。微かな恐怖と喉の渇きに声をあげそうになったそのとき、ふと見ると一階のボタンを押していないことに気が付いた。
エレベーターが動かないのも当たり前だ。
――やだ。
取り乱した自分が恥ずかしくなる。外に人はいないだろうけど、もし見ていられたらもっと恥ずかしい。急いで一階のボタンを押す。
そのときだった。
ふっと生ぬるい空気が耳にかかった。
今エレベーターには自分一人しかいないのに、誰かに密着されているような気がした。唐突に汗がぶわっと噴き出した。お客さんと同伴で帰るときだって、こんなにも汗が噴き出すことはない。
ここにいるのは自分ひとりではない。
けれど乗っているのは確かにMさんひとりだったはずだ。
どこかに潜んでいたとして、どこからだというのか。
だが、一階を押したエレベーターはゆっくりと動き出している。慌てて三階や二階のボタンを押したが、エレベーターはそのまま下へと降りてゆく
ちらりと足下を見ると、隣にMさんではない妙に赤いハイヒールが見えた。そしてそのハイヒールに足を突っ込んでいる、妙に土で汚れた汚い足も。
早く。
早く降りないと。
「開」ボタンを祈るように連打する。
「……はあアア……はあー……ア、アアア……」
横から聞こえる吐息は上がってきていて、喉から絞り出すような潰れたような声がする。肩口には血と泥で汚れた土気色の手がヌッと近寄ってきていて、Mさんはボタンのプレートにすがりついた。
チンと音がしてエレベーターが止まる。ゆっくりと開いていく扉をこじ開けるようにして、Mさんは勢いよくエレベーターを降りようとした。
だが、急にぐいっと髪の毛を引っ張られ、痛みに抵抗する間もないまま物凄い勢いで引きずり倒された。
「ひゃあっ、あっ、いやっ……」
とてつもない恐怖に、Mさんは大声を出すこともできなかった。なんとか悲鳴をあげようとしても、まったくもって声にならなかったのだという。
自分の髪が振り乱され、引きちぎられるかのような痛みが襲ってくる。
「やめて! やめてえ!」
Mさんがやっとのことで声をあげると、ブチブチと髪がちぎれる嫌な音が聞こえた。あまりの恐怖で、Mさんはそのまま動けなかった。
Mさんを発見したのは、ビルにやってきたお客だった。地下のバーの客が、呆然としているところを発見したのだ。そのうちにバーの店員たちもやってきて、いったいどうしたんだと尋ねられた。
妙な女がいた、髪の毛を引っ張られたと訴えたが、店員たちは冷静だった。
「あんた、エレベーターに一人で乗っちまったんだろ」
「じゃあ、仕方ないさ。あいつは一人で乗ってる奴を道連れにしようとするんだからな」
どういう意味だと聞きたかったが、結局、口止め料としていくらか渡されただけだった。それが誰からのものかはわからなかった。
やがて店を辞め、別のところへと移ったが、以前の店の話をすると、みな妙な顔をした。あそこでは昔、本当にキャバ嬢の飛び降り事件が起きたのだという。だが最初は死ななかったらしく、飛び降りたあとにもう一度エレベーターで上に戻り、もう一度飛び降りたのだという。
原因は客に振られたからとも、貢いでいたホストに逃げられたからとも言われていた。
だから上の階に入る店は胡散臭いところばかりだ、というのも。
Mさんはそれ以降、そのビルには行っていない。
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