第34話 九条千鶴

「正男さん。この子は九条千鶴くじょう ちづるさん。家庭の事情で海外に行っていて、最近はお休みだったのだけれど」


 バックヤードの狭い休憩室。瓜生は机に向かい合う犬塚と九条にコーヒーを出しながら言った。


「千鶴ちゃん。この人は犬塚正男さん。仕事のできる、イイ男よ。意地悪は辞めてよろしくやりなさい」


 瓜生の言葉に、九条が不快そうな表情を浮かべるのを犬塚は見逃さなかった。瓜生に悪意は無いのだろうが、これ以上、余計な誤解を生んで欲しくない。ここは自分から頭をさげるべきだ。そう犬塚が決心したときだった。


「申し訳ありませんでした。犬塚さん。意地悪をしてしまいました」


 先に頭を下げたのは九条の方だった。


「意地悪、と言いますと」

「シフト表、渡してあったのよ」瓜生が続いた。「近々お店に来るって言うから、シフト表をメールしておいたの。いない間に配置がどう変わったのか、管理者なら知りたいだろうと思って」

「管理者」犬塚は九条を見やった。

「うちはもともと、管理者二名体制だったのよ。私と彼女、どちらか一方が責任者として出勤する、って言うね」瓜生はコーヒーをすすり、一呼吸おいて続けた。「だから、正男さんの名前を見たとき、気がついたはず。そうでしょ、千鶴ちゃん」


 九条は申し訳なさそうに頭を下げた。それでも毅然として見えるのは、彼女の人柄なのだろう。

 犬塚は、悔しい反面、そういうことなら仕方が無いと理解した。初対面と本日とで続いて、あまり好ましい顔合わせとは言えなかった。そんな男が配下に加わると知れば、現実を否定したくなるのもわからなくも無い。犬塚にしても、部下を持つなら若いのがいいと思うからだった。


「まぁ、人が意地悪をするときと言えば、その人が大好きっていうのが相場よね」


 だが最後に瓜生は余計なことを言った。九条が立ち上がり瓜生の名前を叫んだが、瓜生は後手で手を振り、部屋から出ていってしまった。おかげで少々しおらしかった九条の表情はまた冷徹な感じに戻ってしまっている。


「誤解、しないでくださいよ」

「いやいや、誤解しようが無いですよ」

「なら良かったです。本当にすみませんでした」

「こちらこそです」


 犬塚がコーヒーをすすると、九条もそれに合わせた。犬塚は先日のことを思い出しながら、この機会を有効に使うことに決めた。


「九条さん。ひょっとしてですが、男性がお嫌いですか」


 その質問を予想していたのか、九条は微動だにしなかった。


「ええ、嫌いです」目を閉じたまま、ゆっくりとコーヒーカップを置いて続ける。

「いえ、正しくはそうじゃないです。ルールを守れない男の人が嫌いなんです」

「ルールを守れない男ですか」

「そうです。男性は女性に比べて力で有利です。自分の欲求を自由に発散することで、周囲が迷惑だったり悔しい想いをすることだってあります」

「なるほど。あのときの男は確かにそんな男でしたね」

「私はそんな行いが許せないんです。変態だってその最たる、あっ」

「いえ、お構いなく」

「ごめんなさい」九条は犬塚のフォローに申し訳なさそうに俯く。「そういうのを見ていると、どうしても、許せないんです。何かを言いたくなってしまうんですよね。私の中の正義の血が、こう」


 一瞬、変な空気が流れた。


「ええっと、それは」

「さて、そろそろみんな出勤してくる時間ですね」九条は慌てて立ち上がる。「お土産を持ってきているんです。みんなに配らないと。犬塚さんの分もありますから。それじゃあ向こうで」


 質問の反撃を阻止するように捲し立てて、部屋から出ていった。そこには犬塚と、飲みかけのコーヒーが残された。


「正義の血、ねぇ」


 犬塚はコーヒーを啜った。彼女のグラスには、赤いリップがくっきりと残っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る