第27話 悲劇

 車内の利用客は多くない。その気になれば、あっという間に騒ぎの中心まで辿り着いてしまう。犬塚は何気なく移動して距離を詰めながら、神経をそちらに集中した。


「なんだぁ、このアマ! やんのか」


 男の方は顎を突き出し、風化した定番文句でその女をいろいろな角度から睨みつけている。清潔感の無い格好とその動作で、この男が品格など身に着けていないことはすぐにわかった。


 女の方は対照的に、女性らしい小奇麗な格好をしていた。リボン付きブラウスにワインレッドのフレアスカート。装いだけを見れば、お嬢様に見えなくもない。


「アマとはなんですか。やりません。だいたい貴方がその汚い尻で二人分占拠しているのが悪いんでしょう。私は半分よこせと当然のことを言ったまでです」


 しかし言葉は強烈だった。丁寧なのか汚いのか、判断に迷うところだ。


「ああ、んだおら」

「言っている意味がわからないんですか? 可愛そうな人」


 女は毅然として一歩も引かない。異様に綺麗なショートボブを崩さす、アンダーリムのメガネを光らせている。冷淡な表情から、臆している様子も怒りに駆られている様子もまるで無い。大した度胸だ。


 男が激昂し、何を言っているか判然としない状態になっても、女の態度は変わらなかった。それに誰が一番困っていそうかと言えば、渦中の高齢の女性だった。彼女を座らせる為に男に席を詰めるようにでも言ったのであろう。その心意気や良し、しかし歳下の女に高圧的に物を言われ男は激昂した。女は悪びれる様子無しなので平行線、ばかりかエスカレートしている、そんな状況だと犬塚は察した。


「ちょっと」


 見るに耐えん。犬塚がその男の肩に手をおいたのは、そんな理由からだった。


「理由は知りませんがね、女性に怒鳴りつけるとは、尋常じゃない。次の駅で降りましょうか」


 振り向いた男の目が血走っていくのを犬塚は見た。その瞬間に、犬塚の中から彼に対する尊敬の念は、完全に消え失せた。人として向き合ってやる必要は無いと判断した。


 男が飛ばしてくる唾を拭っていると、電車が到着した。犬塚はその男の肩を取り、車外に押し出そうとしたが、興奮した男に胸ぐらを捕まれ、そのままホームの壁面に押し付けられた。背中と後頭部に鈍痛が走るが、男の唾が顔にかかるほうが数倍不快だった。さらにそれより、男の顔越しに見える自分の荷物の方が気になった。鞄がホーム端に落下している。タブレットや中身が少々散乱しており、いつ誰かに踏み割られるかわからない。


 幸い、犬塚の祈りは早期に神に伝わったようで、非常停止ボタンが押され、駅員が飛んできた。小柄な男は大柄な駅員に拘束されながら駅員室に消えていった。犬塚はスーツを直し、ハンカチで顔を拭うとそれをゴミ箱に捨て、鞄に駆け寄った。


「大丈夫ですか」


 先程の気丈な女がホームに出ていた。犬塚は「お気になさらず」と平静を装い、鞄の中身を回収する。そこまで来て、犬塚はようやく、いかに自分が冷静で無かったかを痛感したのだ。


 鞄の中に、その姿がないのだ。

 あけみちゃんに押し付けられ、剥き身で仕舞われていた、少女向け玩具、キュアチェリーの姿が。


 振り向けば、今まさにその気丈な女が人形を掴み上げているところだった。女はなぜこんな物がここにあるのかと不思議そうに眺めたあと、凍りついていた犬塚と目を合わせた。


「もしかして、貴方のですか」


 返事をするより前に、女の目が軽蔑の色を帯びていくのを感じた。


「良い趣味をお持ちですね。気持ち悪いですが」


 女は汚物を押し付けていくように犬塚の胸へ人形を押しやり、ヒールをカツカツと鳴らして車中へ消えていった。電車がホームから走り去っても、犬塚はひざまずいたまま立ち上がれなかった。

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