第26話 人生の充実
電車での帰宅。
都会勤務前提でマンションを購入した犬塚にとって、この新鎌ヶ谷という立地は決して近いとは言えなかった。公団や不動産による呼びかけによって「都心から○○分の贅沢」だなんだの言ってはいるが、所詮はイメージ戦略であった。蓋を開けてみれば、アクセスが比較的良いだけで、実際は遠いのだ。
ただ、都内からの出勤で良いことが一つあるとすれば、それは下り電車は空いているということだった。毎朝、そのスーツにシワを寄せないようにと器用に身を折りたたむ満員電車とはまた違った風景だ。そこに同乗する人たちも異なり、その中の幾人かは、同じような境遇によって地方勤務になった人もいるのだろうか、と想像すれば、少しは救われた気がした。
犬塚は車中、よく本を読んだ。持参する小型タブレットに読書アプリを入れ、主にビジネス書、自己啓発本を好んで漁った。それらが自分の成分として吸収されたかどうかはさておきとして、仕事の手法や、主に取引先との雑談で大いに役立った。話題の本、例えばこうして中吊りで紹介されているような本というのは、先方も興味を持っていて、それを引き合いに出せば、大抵は話題の主導権を握ることができた。それにお金をかけていると考えれば、他のどんな営業手法よりも実際は安上がりだと考えることもできた。
しかし、最近、その本の傾向が変わった。内容はビジネスや理論といった硬いものから、○○方法などの柔らかいものになっていった。
犬塚はこの数日の勤務で、痛感していた。
それは、ビジネスに携わる人間のすべてが、ビジネスの世界で生きている訳ではない、ということだ。
例えばトイアイダ新鎌ヶ谷店。未だ全員に会った訳ではないし、その素性を知る訳では無いが、その人種は明らかに犬塚と異なっていた。仕事の世界を知らない、と言えば聞こえはいいのかもしれない。仕事人間の自分を肯定するのは、それが一番のように思えた。実際は、仕事以外の世界、それは家庭だったり夢だったり、そういったものを併せ持っている彼らの方が、よほど充実しているかもしれなかった。
犬塚は知ろうとしていた。彼らという人種を。
彼らともっと親密になる手段を、自分のやり方で模索していたのだ。
新鎌ケ谷駅を出て数駅。車内が急に騒がしくなった。
犬塚は、どうせ酔っ払ったサラリーマン同士の小競り合いだろうと思った。
しかしすぐに、それはあり得ないのだと気がつく。
なにせ、この車両は夜の上り列車であり、そもそも乗客数が多くないのは先程自分が分析していた通りだった。
「うるせぇ! 生意気なガキが!」
身なりの悪い男性が、座席に向かって怒号を飛ばしている。席には高齢の女性、そして、それに割って入っている女性が目に入った。
「あなたの方がうるさいです」
嫌な予感がした。
犬塚はタブレットをカバンに押し込んだ。
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