第15話 伊勢崎

 受話ボタンを押すと、こちらが応答するよりも前に、伊勢崎の声が届いた。


「犬塚か。ちゃんと出勤したようだな。どうだった」

「お陰様だよ。まぁなんとかな。しかし、どうした伊勢崎。こんな時間に」

「すまない。この時間なら一通り落ち着いていると思ってな。まずいか」

「いや、かまわないさ」


 普段と変わらない伊勢崎の声に、妙な安心感を覚えた。何分なにぶんあんなことがあった後だ、よく知った間柄とは言え、そう頻繁に電話をする関係でも無い。不穏な予感があったと言えば嘘になる。


「そうか。犬塚、お前のことだ、無駄な腹芸はやめて用件は単刀直入に言う」


「ほう」犬塚はフェンスに背中を預け、タバコをふかした。「そうしてくれ」


「社長がお前の動向を気にしていた」

「社長が」

「ちゃんと出勤しているのかどうか、後ほどアイダ玩具に確認を入れようと言っていたのでな。会社間には余計な詮索は無いほうがいい。俺が確認するほうが早いと思った」


 社長と聞いて、もっと良くない話が過った犬塚は、事の顛末をきいて安堵した。ただこの場合、心配をしてくれている訳ではないのだろうが。


「なるほど、正論だ」

「これは悪い意味では無いと俺は考えている」伊勢崎は続けた。「実際、社長はお前を高く買っている。その査定の是非は俺にも思うところが無い訳では無いが。働き次第では、戻すところを用意するのもやぶさかでは無いのだろう」

「ほー。それは大層なこって」

「犬塚」伊勢崎のため息がマイクに掛かり、音が割れた。「お前が抜けた穴はでかい。連携が取れていた経営企画と営業は剣呑としている。お前についていた連中はさぞ肩身が狭い想いをしているだろうな」

「お前が助けてやればいいだろう。営業部長」

「話はそう簡単でも無い。組織を乱すのはいつだって人間関係だ。それがわからないお前では無いはずだ」


 犬塚はタバコを灰皿に押し当て、室内に入った。さすがに少し冷えてくる。


「とは言え、伊勢崎。俺にはもう何もできん。まさか暗にそいつらに連絡を取れっていうんじゃないだろうな。俺の今後の事など聞かれるぞ。そういう不確定な情報こそ今の状況には不適切だろう。それに、一介の現場職員と化した俺から励ましなんて受けてみろ、それこそ侮辱にも等しいと感じるだろうよ」


 坂田と内海の顔が浮かんだ。奴らは犬塚に付き従いながらも、したたかにビジョンをもって仕事に取り組んできた、戦士達だ。あのガッツを支えているものの大半はプライドだろう。


「何がどうあったって、今はお前がまとめ役だろ。経営企画の二番手を抱き込め。すれば元通りになる」


 そしてビールを開けて、喉に流し込む。


「犬塚」一瞬の間があったが、その声のトーンで伊勢崎の感情の起伏が読み取れた。「経営企画部長は誰になったか知ってるか」

「知らない。人事秘だろ」

「内海だよ」


 犬塚は手から滑り落ちそうになったビール缶を焦って掴んだ。それは手元でいびつに歪んでいた。


「内海が、経営企画部長に抜擢されたんだよ」

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