臨時休業・05
◇◇◇
〈朱藤の間〉が朝の光で満たされていくのを感じながら、ウトウトと微睡んでいたユリィだったが。
物音と気配を微かに感じて目をあけた。
見れば覆面は外しているが、きちんと身支度を整えた綵珪がこちらに歩いてくるのが見えた。
もしや自分は寝過ごしていたのかと、一瞬焦ったが。
窓の外の明るさから、まだ夜が明けてそれほど経っていないことがわかった。
けれど城からの迎えはきっと早いだろう。
(そろそろ来る頃だな)
ユリィは長椅子から立ち上がった。
「おはよう、ユリィ」
「おはようございます。お早いのですね、よく眠れましたか?」
「ああ、気持ちのいい朝だ。ありがとう」
「お顔の色も昨日より良いですね」
「君のおかげだ、また頼む」
おもわず眉を顰めてしまったユリィを見て綵珪は苦笑しながら言った。
「そんな顔で睨むな。俺は君の主人だぞ。────ああ、城からの馬車がもう着いてしまったようだな」
窓際に立ち外を見下ろす綵珪の横顔に、ユリィは気付かれないようこっそりと鼻に皺を寄せ「いーっ」という顔を向けた。
そして予想した通り、数分もしないうちに部屋の外から禿の声と鈴の音が聴こえた。
「ユリィ」
覆面姿になった綵珪が戸口へ向かうユリィを呼び止めて訊いた。
「朝になったが、君はまだ妓女か?」
ユリィは頷いた。
「お客様をお送りするまでが妓女の仕事ですから」
「そうか。休業するのはそれからで、俺はまだお客なのだな」
「そうですよ。それが何か ……?」
軽く首をかしげながらも、再び鳴らされた鈴の音を気にするユリィだった。
「ほら、綵珪さま。禿の鈴が呼んでます、参りましょう」
「待て」
綵珪に腕を掴まれた。
「────これは客からの忘れ物だ。受け取れ」
綵珪が指先でふわりと顔面を覆う布を一枚持ち上げた。
陽に光る緋色の前髪がユリィの視界を遮った直後、綵珪に口づけをされた。
────長く深く。
押し返そうとするユリィの力は及ばずにねじ伏せられ、身を捩るユリィの背に綵珪の腕が伸びた。
それは優しくなく強引で。
奪うような強さがあった。
「───っん! ッ………」
(もッ……────無理! ………苦し─── !)
抵抗する力が弱まったところでようやく綵珪の唇が離れた。
荒い呼吸も火照っている顔も自分だけ。
目の前の男は涼しい顔をしている。
(これが忘れ物だと⁉)
「………変な忘れ物しないでよっ!」
足元はふらつくが、腕を掴む綵珪の力が緩んだのでおもいきり振り払う。
かなり動揺しているユリィの様子を綵珪は不思議そうに見つめた。
「こういうことは日常茶飯事ではなかったのか? まさか………初めてだったのか?」
───チリン、リリン。
迎えを知らせる鈴の音が鳴る。
返事もせずにこれ以上待たせたら、変に思った禿が顔を出すだろう。
「はい、只今すぐに……… !」
戸口に向かって言いながら、ユリィは綵珪を睨んだ。
───落ち着け。
なにを慌てる必要がある。
私は妓女だ。
客との戯れは日常茶飯事じゃないか。
(でも口づけは………)
「───お時間です、綵珪さま」
ユリィは静かに言い放ち綵珪に背を向けた。
綵珪を送り出したら、しばらくは華睡館の妓女ではなくなる。
臨時休業前の最後くらい妓女らしく仕事納めしないと。
(動揺なんてするもんか!)
「───ご来店、ありがとうございました」
戸を開けて、ユリィは深々とお辞儀をした。
綵珪はユリィの前で足を止めて言った。
「忘れ物を渡した奴も、君の身体のホクロの位置を覚えている者も。ただ一人、俺だけであるのならとても光栄だ。では城で。待っているぞ」
下を向いたままではあるが、茫然とするユリィをそのままに。
覆面を整えた綵珪は朱藤の間を後にした。
♢♢♢
鈴の音が廊下の奥へ遠くなってから、ユリィはピシャリと戸を閉めた。
「あの野郎っ」
(なにが忘れ物だッ。私の裸を記憶していることも腹立たしいのに、初めての
「許さない………」
とはいえもはや契約解除はできない。
ならば「綵珪に術の効かない
そして「見なかったコトにする術」の強化も必要だ。
そしてそして!
(いつかぜぇっったい!綵珪にもう一度術をかけてやるっ!)
───こうして。
固く心に誓いながら臨時休業に入ったユリィであった。
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