第3話 火の降る日

秋が終わり、段々と気温が下がってきて、吐く息が白くなる。灰色の空からちらりちらりと雪が踊るように降りてきて、冬の始まりを告げた日。その日はやけに森が静かだった。


「おっかしーなぁ……なんで今日に限ってこんなに獣が居ないんだ?」

「獣どころか小鳥もいない。どうなってんだこりゃ」


 森の中から獣という獣が逃げ出したように音がなかった。鳥の羽ばたきも、獣が落ち葉を踏む音も。風が木の葉を揺らす森の声と、霜をさくさくとつぶす自分たちだけの足音のみ。特別嫌な予感がする、ということはなく、もう少し奥へ進めば何か居るだろうと親子そろっての決断で、奥へ奥へと進んでいった。


「……待て」


 ひょいひょいと何の気なしに木の根を飛び越えて進んでいると、父親から制止を食らい足を止める。


「妙だ。足跡はあるのに低木の葉が食われてない」

「畑荒らして腹いっぱいになったか? ……それはないか」


 霜が来る前に村の畑は収穫を終わらせているから、今畑にはなにも残っていない。だからそれを食われたというのはあり得ない。とすると今の獣は腹ペコのはず。ここらに生えている低木に毒はない。格好の餌のはずだが、それを食べないというのは余程急いで逃げていたのだろう。

 だが、この森にそこまで危険な生き物は居ないはず。せいぜい狼や低級の魔物程度で、森の主なんてものは居ないし。これは一体どういうことだ。


「村に戻って、すぐに皆を避難させよう。急げ!」


 事情のわからない内に父が血相を変えて走り出すものだから、反応が遅れた。慌てて後を追い、その背中に食いつき疑問を口に出す。もちろん駆ける足は止めない、急いでいるのにはそれなりの理由があるのだ。足を止めて説明するのも惜しいほどの、重大な理由が。


「一体何がどうなってる。説明してくれ!」

「ドラゴンがくる。獣はそれを察して逃げたんだ」

「……本気で言ってるのか?」


 こんな平和な、小さな村に、ドラゴンが? なんて思うが、奴らは人とは違う。モンスターという、独自の理をもって動き、積極的に人を襲う特異な獣。連中に人間の道理は通じない。行動にいちいち疑問を抱いていてはキリがない。だから、こんな小さな村が襲われるなんてのも全くおかしな話じゃない。


「それ以外に森がここまで静かになるなんて考えられんだろう」

「まあ、たしかに」


 追い付いたら、父はさらに肉体強化の魔術を施してペースを上げる。魔術を使おうにもまだ教えられていないので、最大限に肉体能力を駆使して走るのみ。父はどんどん先を行くのに、こっちはどんどん引き離される。

 コォォォォォン、コォォォン、コォォォン、コォォォォォン

 鐘の音が、死んだように静寂を守る森の空気を割った。普段は鐘を鳴らす時間が決まっており、それ以外に鳴らすのは、決まって非常事態。そうでなければ子供のいたずら。いたずらなら、こう強く何度も慣らさない。加えて父が異常を察知したこのタイミング……非常事態とみて間違いないな。


「嘘であってほしいなあ!」


 家族の身を案じて、可能な限り急いで道なき道を行く。茂みを突っ切り、崖を飛び降り、ひた走る。息が切れるまで走り続けて、村と森の境界線、やや開けた場所までたどり着き、飛び出す前に木に体を隠した。

 一言でいえば、やばいやつがいた。前世含め、今まで見てきたどんな生物よりも巨大な生き物。羽の生えたトカゲ……というには、少々面のイカツイ生物……あれが、竜。ドラゴン……初めて実物を見るが、ここから見ているだけでも圧倒的な存在の格の違いを感じる。

 周りに一回り程小さな配下を従えて君臨する姿は竜の王といった具合か……その向こうでは、育った村が、黒煙を上げながら燃えていた。肉の焼ける香りはしない。血の匂いも、嗅ぎ取れる範囲では……身内の心配はしなくてもいいだろうか。


「ん?」


 よく目を凝らすと、小さな竜の足元に隠れて、人の姿が。囲まれているが、襲われている気配はない。目の前にある巨大な力への恐怖に、抵抗することもなく一塊になって震えている。


「……どうすっかね」


 ここで飛び出しても、村人は助けられない。矢を射って気を引こうにも相手は一匹ではない。怒りを買って無意味に死ぬだけ。しかし何もしないわけには……どうするか迷っていると、突然取り巻きの竜が空へと飛び立っていった。何が始まるのかと思いきや、一匹の巨大な竜の口から赤い火が漏れはじめた。

 想定内の、最悪な事態。村の一員として、彼らが殺されるのを傍観しているわけにはいかないと、使命感に突き動かされ毒矢を番え、木の陰から飛び出して人の頭ほどある大きさの目玉に狙いを定める。少し距離はあるが、あれだけでかい的を外すことはありえない。外すわけにはいかない。外してはいけない。二の矢は撃てない。必ず一矢で当てなければならないと、弓を引く。弦がはちきれんばかりに。

 竜の目玉に自分の姿が写り、顔が動く。狙いを修正し、手を放す。


「南無三!」


 ビンッ、と弦が音を奏で、静寂を割った。毒の飛沫が飛びながら、狙いに向けて一直線に矢は飛翔する。溢れる光が放たれるよりも早く、矢は的を得た。

これまで積み重ねてきた一矢の中で会心の一撃だった。人が一人余裕で入りそうな大口から、鐘の音よりも大きな、空を突き抜けるような咆哮を上げる竜と、その轟音に吹き飛ばされるように散り散りに逃げ出す村人。

 竜の首がこちらに向いて、明らかに殺意ととれるような感情が叩きつけられた。質量を持たない壁が、全身に襲い掛かる。


「ひょっ」


 間抜けな声が上がる。

 最強の代名詞とも呼ばれる竜種。頂点捕食者からの、明確な敵対感情。いつもは狩る側として暮らしていたが、今となっては狩られる側。

怖い。ただその一言が頭の中を埋め尽くした。ひたすらに寒いのに、背筋を汗が伝う。歯が楽器のようにがちがちと音を立てて鳴る。逃げ出したいのに、膝は震えて動かない。股座から生ぬるい液体がにじみ出る。二の矢を番えようと思っても、指が言うことを聞かずに矢を取りこぼす。

 地響きを立てながら、じわりじわりと近寄ってくる竜を前に、見つめるだけで一歩も動けなかった。


「よくやったジーク!」


 弦の鳴る音と、父の叫び、竜の外殻に阻まれ弾かれ目の前に落ちてきた矢が、正気を取り戻させてくれる。落とした矢と、落ちてきた矢。二本の矢をつかみ、同時に番え、もう片方の目に向けて放つ。同時に、父も矢を放った。合わせ三本の矢が竜に向けて飛翔するも、内一本。父が放ったものだけは、眼球に当たったにもかかわらず、なにかに弾かれ落ちていく。俺の放ったものは、なぜか深々と突き刺さる。それを疑問に思うこともなく、三の矢を、四の矢を次々と射かけていく。不思議なことに、この程度の矢などものともしないはずの堅いはずの鱗が、まるで存在しないかのように、軽々と刺さっていく。

 さっきまでの恐怖はどこへやら、これならいけるのではないかという錯覚が、脳裏をよぎる。

 しかしそれもつかの間。


「ヴォオオオオオオオオオオオォォ!!」


 馬鹿みたいにでかい体躯に見合った、馬鹿みたいに巨大な咆哮。至近距離で爆弾がさく裂したかのようなその音は、強烈な衝撃を伴って鼓膜を殴打した。


「っ!?」


 親子そろって、つかの間放心状態に陥る。めまいと、耳鳴りが……耳が、痛い。生ぬるいものが顔の側面を伝う。そして、竜の巨体が動いた。巨大な首切り鎌のような爪が何本も生えそろった手が振り回され、父を襲う。父の名を叫ぶより早く、丸太よりも太い尾が鞭のようにしなって迫る。

 矢立てを突き出すがそんなものは盾にもならない。あっけなく矢立てはつぶれ、トラックに轢かれたような衝撃、突き出した腕は一瞬の接触でマッチ棒のようにあえなく折れ。そのまま体は飛ばされ、ピンポン玉のように体が地面で跳ね回る。

 激痛というよりも、もはや灼熱。捻じれ曲がり骨が皮膚を突き破ってしまっている腕一本を犠牲にして、かろうじて意識が保たれている。霞む視界の中で、赤い血袋となった父の姿をぼやりと見つける。


「あ゛……」


 背負った槍を無事な方の腕で持ち、砕けた足代わりの支えとして、ふらりふらりと立ち上がる。たしか、今は亡き祖父は、俺が生まれるよりも前に一角獣の角に貫かれて死んだとか……父も、同じように狩りの最中で死ねたなら本望だろうか……俺はまだ死にたくないが……まあ、これだけ格の違う相手に挑んだのだから、仕方ない。ヒトとドラゴン、正面からタイマンしたらそりゃ結果は明らかだろう。

 母と妹は逃げられただろうか。いや、人の足で、この短時間で、竜の翼から逃れられるとは思えない。なら、もう少し時間を稼がないと。一秒なんて贅沢は言わない。刹那の間でも稼げなければ。死んでも、死体を食らって時間を稼げればいいのだ。


「べっ……ああ、くそ。畜生」


 口の中に溜まった血を吐き出して。鼻から垂れる血を鼻息で吹き飛ばして……しかりと足に喝を入れる。ありがたいことに、あの竜は目が見えていないようで、その場で暴れまわっている。さてどうすればいい。このまま放っておいて逃げればいいだろうか。と、思えばぴたりと動きを止めた。


「ようやく見つけた」


 竜の体に、ひびが入る。パン、とガラスが割れるように、殻が崩れ落ちる。崩れた端から消えていき、巨大な殻の中から現れたのは、一人の、目を見張るような美しい女性。

鱗の色と同じ、夜闇のような。漆塗りのような黒い艶のある髪の毛を腰まで伸ばし、同じく黒一色のドレスをまとった、色白の。金の目に縦割れの瞳孔は不思議と視線が離せない。

 この状況で言うのもなんだが、かなり好みだ。あんなブサイクな竜からあんな美女が出てくるなんて、こりゃファンタジーか何かか。そういやファンタジーだった。何言ってんだ俺は。


「お前が私を殺すものか」


 殺意とはまた違う、初めて向けられた感覚に戸惑いながら、片手で槍を向ける。痛みはアドレナリンで消えている。体は熱いのに、頭は冷えている。原因は、全身からの出血だろう。妙な感じだ。


「ようやく見つけた。これまでずっと、お前を探していた。長かった」


 愛しい相手、運命ともいえる相手を見つけたような、歓喜の交じる声。そこに殺意は感じられない。


「さあ、私を殺せ」


 両腕を広げ、ドレスに包まれた豊満な胸を見せつけられる。その胸に、自分が持つ堅くて鋭い立派な刃を、突き刺してくれと、願われる。本来狩る側の相手に、狩ってくれと頼まれる。これほど理解しがたいこともあるまい。がしかし、そうしろと言うのならそうしよう。狩人としての役割を果たそう。殺すべき相手を殺そう。そこに迷いは必要ない。労せずして務めを果たせるのは喜ばしい事である。

 さあ、血が足らずに役立たずの股間のブツの代わりに、手に持ったイチモツを、あのクソアマにぶち込んでやろう。そうして支えを外し脇に抱えて一歩踏み出せば、ふらりと足が折れ、自分の作った水たまりに膝をつく。

 だめだった。足があらぬ方を向いている。これじゃ歩けない……なんて冷静に考えているが、どう考えてもこれは呑気に考えている場合じゃない。


「……なんだ。どうした? 使命はどうした? 私を殺すのではないのか? 私を殺すためにこの世に生まれたはずではないのか? この永遠の命を終わらせてくれるのではなかったのか?」


 何か言っている。何を言っているのかわからない。思考の歯車を回すための潤滑油が、血が足りない。


「私を殺す前に、死ぬのか?」

「……」


 もう声も出ない。しかしここまでやったのだから、這ってでも。片腕で体を引きずり、あの竜の下へ。


「それは許さん。折角見つけたのだ。せっかく待ったのだ。私を殺すまで、死ぬのは許さん」


 竜の巨体から現れた彼女は、滑るように動いて、俺の前に立った。地面に血の水たまりを広げながら倒れる俺と、見下す彼女。この構図は勝者と敗者か……どうでもいい。近付いてきてくれたのなら、この槍も届くだろう。

 加速度的に抜けていく力を、必死で振り絞り、槍を持ち上げる。上がらない。血が抜けすぎた。


「命を与えよう。動機も与えよう。生きて私を殺すのだ」


 竜は何をとち狂ったのか、私の顎を持ち上げて、顔を近づけて。火のように熱い吐息が顔にかかる。

 口づけをされ、元々半分開いていた口の中に、彼女の舌と、唾液が送り込まれる。吐息同様に、やけどするほど熱い。なのに心地よい。ぴちゃりぴちゃりと、口の中で弾ける音が、脳に入り込む。熱い唾液が、喉を通り抜け、胃を焦がす。

 ファーストキスはレモンの味、なんてふざけた話は嘘。この場合に限っては、火の味がした。


「すべてを焼き払え。我が子よ」


 そして、大地に火の雨が降り注いだ。


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