ピクニック

 夏期講習が終わる頃には、雨は本降りになっていた。菜月は桜の木に落ちる雨を眺めて、すこしため息をついた。夏のピクニックは中止だ。

 嬉しいのか、がっかりしているのか、よくわからない。窓から視線を外して、帰っていく同級生たちを見送っていると、数学教師と目があった。

「菜月、帰んないの?」

 若い数学教師は生徒のことを下の名前で呼ぶ。菜月はそれがすこし嫌だった。なんというか、なめられている、と感じるのだ。生徒と近い目線で、などと思っているのだろうが、若いとはいえ一回り以上離れているのだ、友達になれないことくらい、わかっているはずなのに。友達になれないなら、適切な距離を置いてほしかった。

「帰ります。でも、今日は、叔母の家に寄るので」

「叔母さんの? どこなの」

「すぐそこです、あの、十二時ちょうどに来いって言われてるので、時間をつぶしたくて」

「へえ、なにかあるの?」

 菜月は愛想の良さを取り繕うのが嫌になった。低い声で「ちょっと」と濁して、笑顔も消す。数学教師はそれを気にする様子もなく、「ふーん、早く帰りなね」とだけ言って、教室を出て行った。

 菜月は夏期講習のプリントに視線を落とした。丸もばつもついている。高校は、菜月の成績なら問題なく推薦できそうだ、と担任はごく軽い調子で言っていた。それを信じて、塾にも行かず、中学校のやる夏期講習にだけ顔を出しているけれど、こうして丸やばつを見ていると、ごめん、推薦できなくなった、とやっぱり軽い調子で言われたら、と思うと、肺が狭くなる。両親は、推薦が取れそうだと伝えた時点でごく楽観的になり、不安がる菜月を笑い飛ばした。

 そうだ、夏のピクニックだ。

 いとこが生まれるまで、夏のピクニックは佐川家の恒例行事だった。菜月が生まれるまえから、らしい。ふだん食べられないようなデパ地下のお惣菜や、手作りのサンドイッチを持って、大きな公園に出かけていく。大人たちはワインを飲み、菜月には瓶に入ったジュースが振る舞われた。

 叔母といとこ、両親、それから両親の友人がふたり来るはずだけれど、この雨では外に出て食事など、できそうにない。ましてボール遊びなんて。菜月は眉間をさわった。いとこの顔を思い浮かべると、そこにしわがよる。

 いとこは沙祐美といって、四歳になる。菜月も叔母も両親も、さみちゃん、と呼んでいるし、さみちゃん本人も自分のことをさみちゃんと呼んでいる。保育園に入り、ぐっと言葉の幅が増え、憎らしくなってきた。

 この間さみちゃんに叩かれた太ももには、まだ痣がある。叔母はすぐにさみちゃんを叱ったが、菜月にはなにも言わなかった。菜月は制服のスカートの上からそこをさすり、さみちゃん、がっかりしてるだろうなあ、と、むりやり平和な方向に思考を持っていった。がっかりしてるだろうなあ、泣いちゃったかもな。でもほんとうは、泣いちゃったなんてかわいいものではなく、大声で泣き喚いて暴れるだろうと分かっていた。初めてのピクニックを、あんなにも楽しみにしていたのだから。

 菜月は長針が10を過ぎるのを待って、教室を出た。折り畳み傘を鞄の底から引っ張り出しながら、スニーカーに履き替える。

 昇降口は、ドアが透明なのがいい。菜月はスニーカーのかかとを踏んだまま、外をぼんやりと眺めた。砂の匂い、それから下駄箱の、金属の匂い。雨はまっすぐに地面に落ち、すべてを灰色にくすませている。雨の形を知っていますか、という番組を、この間見た。上がとがった、雫型のイラストをよく見ますが、あれは間違いです。空気抵抗によって、雨粒は赤血球のような形で歪んで落ちてきます。ナレーションの声を頭の中に響かせながら、菜月は外に出た。小さい傘の下、紺色の靴下はすぐびしょ濡れになる。

 叔母のマンションは、入り口で部屋番号を押して中の人に開けてもらわないと入れない。初めてここにきたとき、あまりに立派なロビーを見回していると、叔母はさみちゃんを抱きながら「いいでしょう、慰謝料で買ったのよ」とにやりとした。そのにやりを、来るたびに思い出す。

 ドアを開けてもらい、エレベーターホールに向かう。管理人らしい男性がこちらをちらりと見たので、菜月は早歩きでエレベーターに乗り込んだ。菜月の歩いたあとは、傘から落ちた水滴が道を作っていた。



「おっ、来たきた」

 ドアを開けたのは父だった。

「せっかく会社休んだのに、残念だったね」

 菜月は靴を脱ぎながらそう言ったが、父はきょとんとして「なにが? ああ、雨か」と言った。手にはタオルを持って、菜月の濡れた鞄を拭こうとしているのに、雨か、はないだろう。菜月が濡れた靴下を気にしながら上がると、父は「菜月が来たぞお」と奥にむかって叫んだ。叔母と母の声が「はーい」と揃う。声に遅れて叔母が顔をだし、おいで、と手招きした。父の友人の男性は一人、所在無げに立っていた。

「では、始めましょうか」

 叔母は重々しく言った。その足元で、さみちゃんが無表情に叔母の手を見上げていた。叔母の手には、赤と黄色のボーダーの布が握られている。レジャーシートだ。

 まさか、行くつもりなのか。菜月が呆れて見ていると、叔母は軽い足取りで窓に近づき、ベランダに出た。

 菜月とさみちゃんが並んで見守る中、叔母はサンダルをつっかけ、シートを振り上げ、広げた。ばさっ、と大きな音が立ち、思ったよりも大きなシートがベランダに舞い降りた。

 母と父が続けてベランダに出て――父はいつのまにか裸足だ――バスケットを置き、重箱を並べる。サンドイッチ、手毬寿司、卵焼きと唐揚げ。りんごを丸ごと、白ワインが一本、丸いチーズ。それからあれはなんといったか、パテ・ド・カンパーニュ? プラスチックトレイの輪ゴムを外すと、立派なサラダが現れる。デパ地下のやつだ。菜月とさみちゃんのためのジュースは葡萄。プラスチックのワイングラスが人数分並べられ、ひとつを叔母が手にとって手酌でワインを注いだ。「はいっ!」と父の友人に手渡すと、父の友人は拝む真似をしてから受け取り、ワインボトルを受け取って叔母のグラスに注ぐ。

 外は雨。

 背中を押されるままにベランダに出ると、すこし雨が入ってきているのがわかった。霧程度のこまかい雨粒が顔にかかる。菜月の右隣に父が座って、雨粒は父のからだに遮断された。母が菜月にワイングラスを渡し、瓶から葡萄ジュースを注ぐ。叔母がふざけて、かんぱい、とグラスを持つ手を伸ばした。

 いつのまにか、さみちゃんが隣に座っていた。グラスではなく、いつものコップにジュースをいれてもらっている。取り皿が配られ、菜月も座った。シート越しに、コンクリートの地面がじんわりと熱い。

 クラスじゅうが鉛筆を持って、一斉に長い線を書いたらこんな音がするだろう。取り皿が行き渡り、叔母が全員を見渡すあいだ、雨の音が大きく、でも静かに聞こえていた。菜月は灰色の空と、食べ物の広がる地面を交互に見た。

「では、いただきます」

 叔母が大げさな口調で言うと、菜月以外の全員が「いただきまーす」と声をそろえた。菜月もあわてて「いただきます」と手を合わせ、少し迷ってから、唐揚げに手を伸ばす。母の唐揚げは、昨日から味をなじませていたものだ。衣はすこし湿っていたが、やわらかい歯ごたえがうれしい。菜月は自分の空腹に初めて気がついた。

 遠くで雷鳴が聞こえるが、大人たちは気にせず飲み、食べた。菜月もサラダのトマトだけは丁寧に避けて、満遍なく手をつける。雨はときおり顔にかかったが、さっきほどの勢いはなくなっていた。強い風に紙皿やラップをさらわれないように、みんなしっかりと握っている。母がちょっと置いたつもりの割り箸は風で存外遠くまで飛んでいき、母は「あああー」と追いかけていった。

 さみちゃんはジャムのサンドイッチだけをもくもくと食べていた。菜月はその手元を見て、すこし、胸がつまる気持ちになった。丸い頬は、ほとんど自分と同じ人間とは思われない。手をジャムでべとべとにしているのを見て、菜月はウエットティッシュを取ってやった。

 インターホンが鳴り、叔母が立ち上がった。菜月も顔を見たことのある、父の若い友人が「やあ、遅れまして」と挨拶しながら入ってくる。彼はすこし驚いたような顔でベランダを見渡し、菜月の手に白い箱を乗せた。カップケーキだよ、と彼は笑い、叔母から手渡されたグラスを持って片端から乾杯してまわった。最後にさみちゃんのコップともグラスを合わせる。菜月は箱の中身を覗き込み、かわいらしい色のケーキに頬を緩めた。

 そのとき、一際大きな雷鳴が辺りを満たした。思わず、みな肩を震わせる。おお、大きいねえ、と母が呟き、叔母が、雷注意報出てましたよ、と神妙な顔をして、さみちゃんの口の周りを拭いている。

 雷を怖がるのではないか、と菜月はさみちゃんの顔を覗き込んで、その表情に息をのんだ。顔周りを拭く母親に構わず、さみちゃんは一心に空を見ていた。視線を追って見上げれば、稲妻が空に走るところだった。素早く手を伸ばすように稲妻は走り、突然消えた。さみちゃんはそれを見ていたのだと、菜月には分かった。

「さみちゃん」

 呼びかけると、さみちゃんは菜月の顔を見てにっこりと笑い、空を指差した。

「雷、だよ」

 さみちゃんは首をかしげて、菜月も稲妻も無視して叔母に抱きつく。菜月も空を見るのをやめて、最後のひとつになった唐揚げに手を伸ばした。

「大人になってよかったなあ」

 叔母がグラスを傾けてしみじみと呟く。菜月は苦笑して、子供もわるくないよ、と、胸の内だけで呟いた。

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