親知らず

「持って帰られますか?」

 わたしはぎょっとして顔を上げた。歯科医の顔はマスクに隠されて、表情が読み取れない。驚いたのを隠そうとにへらと笑った私を見て、歯科医はわたしの親知らずをつまみ上げ、「ちょっと待ってくださいね」と作業台に向かった。わたしがなにも言えずにその背中を見守っているあいだ、遠くから救急車のサイレンが聞こえていた。一度、風が窓にぶつかって大きな音を立てた。夜には大雨になるという予報だ。

 サイレンが完全に消えた頃、歯科医は振り返って私に小瓶を手渡した。小学生がビーズを詰めるような、観光地で星の砂を詰めて売っているような、ごく小さな小瓶には、きれいに洗われたわたしの親知らずが入っていた。コルクの栓の周りに、ほそいリボンが巻いてある。

「お母さんにお見せするといいですよ」

 歯医者の表情は相変わらず読めなかったが、どうやら本気のようだった。わたしはガーゼを噛み締めたまま、どうともとれる反応を返した。「乳歯が抜けたら、見せたでしょう。きっと感動しますよ」と歯科医は続けて、今度はマスク越しにもわかる笑みを浮かべた。

 今日はアルバイトの女性がいないらしく、歯科医は私を先導して待合室まで行き、えーっと、と呟きながら領収書を用意した。灰色の待合室には、漫画や雑誌の入ったマガジンラックのほかに色はない。壁に貼られた「ただしいはみがき」のポスターも、十年単位の時間を経てうすく灰色に染まっている。わたしはマガジンラックの中の絵本に目を向けて、すこし懐かしい気持ちになった。目前に迫った治療から目を背けるために、対象年齢をとうにすぎた絵本をめくったのは、中学生のころだったか。幼稚園のころから通っているのに、目の前でお金を数える歯科医は、ひとつも年をとったように見えない。

「これは抗生物質です、飲みきってくださいね。こちらは痛み止め」と薬の袋を差し出して、歯科医はふとわたしの顔を見つめた。

 わたしはその目を見つめ返しながら、母もここに通っていたはずだ、ととつぜん気づいた。

 この街に引っ越してきて二十年、母がべつの歯医者に行っていたはずがない。わたしが二十年通った歯医者は、母が二十年通った歯医者なのだ。

 歯科医がわたしを見ていたほんの一秒のあいだに、そんなことがわたしの脳裏をかけめぐった。そして、言わねばならない、と思って、口を開きかけた。しかしなんと言っていいのかわからないうちに、その一秒は過ぎた。

「お大事にどうぞ」

「ありがとうございます」

 外に出ても、視界は灰色のままだった。強い風が吹き付けて、どこからか飛ばされてきた葉っぱがのたうっている。厚い雲を見上げて、わたしは足を速めた。

 手の内にまだ親知らずの瓶があった。わたしの右上の親知らずは、まっすぐ素直に生えてきて、手のうまく届かないところで静かに病み、少しだけ痛みを訴えたころ、すぐに抜かれた。歯科医が大きな器具を取り出してから、ガーゼを詰めるまで、二十秒ほどしかかからなかった。

 ごうごうと吹く風に逆らうように、わたしはバス停へ向かった。

 母のいる病院は、バスで十五分ほどのところにある。

 わたしはバスの一番うしろの席に座り、窓に頭をもたせかけた。スマホを取り出してツイッターを見ると、誰かが、今日の月食は見られなさそうだ、と言っていた。わたしは意味なく空を見上げた。空の色はさっきより濃い色に変わっていた。

 母の病気が分かったのは、一ヶ月前だった。なにがなんだかわからないほどたくさんの検査を受けて病名がついたとき、医師はなにやら自慢げにその名前を言ったので、なにも心配はないような気持ちになった。しかし、当たり前のことだけれど、それは始まりにすぎなかった。手術の日取りと時間が、今日正式に決まるはずだ。

 母の友人や、わたしの恋人は、わたしの手を取って励ました。あなたがしっかりしなければいけない、と彼らは言った。わたしも、ほんとうにその通りだ、と思った。母を安心させて、こまごまとしたことの一切を引き受けて、母が余計なことに気を回さなくて済むようにしたつもりだけれど、母はむしろ、余計なことに気を回していたいようだった。それが母を安心させるならと、わたしはむしろ身を引いて、ただ母の話し相手になった。

 わたしは病院前よりひとつ前の停留所でバスを降りた。

 そうだ、母はおととい、月食のニュースの話をしていた。月食の時期を言い当てることは、暦を知ることだ。日本では江戸時代から、月食や日食の日にちをけっこう正確に計算していたそうだ。でも、もしそんな暦なんてなかったら、月なんてわざわざ見上げないわね、と母は言った。たとえば曇っていて、その雲の奥で月食が起きていても、私たちはそれを知る術はない。知る術がなければ、惜しいとも思わない。

 わたしは病院に向かって歩きながら、少しだけ手が震えるのを感じた。あの歯科医は、母が病気なことを知らないのだ、と思った。雲の向こうのことを、知る術はないのだ。あのとき、母はしばらく来られないんですと、わたしは言えなかった。それどころか、母はいずれ食事も取れなくなって、母の歯は永遠にその役目を終えるのかも知れないのだ。

 わたしはぎゅっと目をつぶって、開けた。濃い灰色の大気の奥に、病院の門が見えてきた。きっと感動しますよ、という歯科医の声がよみがえり、わたしは鞄の持ち手を握りしめたまま、左手で前髪を直した。




(六さんは月食があるという日の夕方、古い歯医者の待合室であのことを言えなかった話をしてください。

#さみしいなにかをかく

https://shindanmaker.com/595943)

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